環境を嘆いても
何も変わらない。
題目で自身を奮い立たせ
勇気の挑戦を開始する。
そこに人間革命の道が!
諸法実相抄 P1358
『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり』
【通解】
凡夫は体の三身にして本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。
名字の言 世紀を超えて作者とつながる読書の醍醐味 2022年5月14日
太宰治の『人間失格』の中に「ドストイエフスキイ」との記述がある。その場面で主人公は"罪と罰"について語る。ドストエフスキーの"人間とは、また善悪とは何か"という問題提起に、太宰が作品を通して自分なりの思考を展開しているとも捉えられるシーンだ▼19世紀の海外の文学に、20世紀の日本の作家が学び、その小説を21世紀を生きる自分が読む。まるで時代も場所も超えて作者とつながっているように感じる。ここに、読書の醍醐味の一つがあろう▼本を通じて時空を超えた絆に思いをいたし、歴史と人生とこの世界を貫く普遍に迫る。それは、池田先生の小説『人間革命』『新・人間革命』に触れる中で、私たちが実践していることだ▼師が全精魂を注いだ作品を通して、鎌倉時代に立宗した日蓮大聖人の精神を学び、仏法の本義を深める。その研さんの輪は地球を包み、平和の礎を築く大きな力となっていく▼『人間革命』第10巻「展望」の章で、戸田先生は"創価学会が人類の平和と文化を担う中核的な存在となる"と述べ、その傾向は山本伸一の後半生の終わり頃から顕著に現れる、と予見した。恩師が語った広布の潮流を、未来へ流れ通わせる使命を担うのは、今を生きる私たちである。
寸鉄 2022年5月14日
「正しい宗教は生命力を強める」戸田先生。朝の祈りから生き生きと出発
激戦の中で新たな人材が育つ。励ましを絶やさず皆で青年を伸ばしゆこう
聡明な人は常に人類との合一を意識する—文豪トルストイ。今日も広布即平和の一歩
熱中症予防、暑さに体を慣れさせる事が重要と。軽い運動や筋トレも有効
奨学金制度拡充へ—公明がリード。教育こそ未来を創る力。さらに旗振れ
〈社説〉 2022・5・14 あす、沖縄日本復帰50年
◇生命尊厳の心つなぐ対話を
あす15日、沖縄が日本に復帰してから50年の節目を刻む。
共同通信社が沖縄県民を対象に行った世論調査(3〜4月)によると復帰して「良かったと思う」は94%に。一方、復帰後の歩みに「満足していない」が55%に上った。今も残る重い基地負担。厳しい経済的環境。複雑な思いが交錯するが、それでも85%の人が沖縄出身であることに「誇りを持っている」と回答した。
琉球王国時代から、沖縄は独自の文化を形成してきた。それだけに「復帰」という言葉には、沖縄が歩んできた長い苦渋の歴史が凝縮されているようにも感じる。
第2次世界大戦で沖縄は凄惨な地上戦の舞台となった。戦後も、1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効され、日本の主権が回復した際、沖縄は日本と切り離され、アメリカの施政権下に置かれ続けた。東西冷戦の構造下で沖縄は"基地の島"となり、ピーク時の67年(同42年)、沖縄には1300発の核兵器があった。
沖縄返還の具体的な道筋が見えない中、池田先生は同年8月24日、学生部総会の席上、沖縄の日本復帰を求める提言を行った。施政権の即時返還、核基地の撤去のほか、沖縄総合開発銀行の設立など、提言は各分野にわたった。
「いちばん苦しんだ沖縄が、いちばん栄え、幸福になる権利がある。どこよりも沖縄が繁栄してほしい——そうした真情からの叫び」と後年、述懐した。
5年後の72年(同47年)5月15日、沖縄は復帰した。「非核三原則」が国是となったのは沖縄返還を巡る国会議論からである。
沖縄返還を前に核は撤去されていった。4カ所あった核ミサイル「メースB」の発射基地。今、唯一、恩納村の沖縄研修道場に発射台跡が残る。池田先生の提案で「世界平和の碑」として残され、人類の愚行の歴史を厳然と伝えている。
60年(同35年)7月の初来島以来、先生は常に仏法の視座から沖縄独自の言葉や歴史などに光を当て、沖縄の使命を訴えてきた。
「人間を分断する『武器』ではなく(中略)『暴力』に屈せぬ『文化の力』を重んじてきたのが、沖縄の生き方である」と。
世界の民衆が平和を希求する今こそ、あらゆる差異と分断を乗り越え、生命尊厳の心をつなぐ対話を重ねたい。
〈KANTO 広布史ファイル〉松戸会館初訪問から40周年
「千葉の心臓部、大きく言うならば日本の心臓部ともなっていただきたい」——「松戸の日」の淵源となった、1982年(昭和57年)6月9日。この日、池田先生は松戸会館(現・松戸平和会館)を初訪問され、松戸、市川、柏の3圏(当時)の代表幹部の集いに出席した。席上、先生は参加者と厳粛に勤行・唱題し、千葉広布のますますの発展を祈念。さらに、21世紀の長期的展望の上から"信心即生活""健康即勝利"の在り方や、後継の青年部の鍛錬について懇談的に語った。
先生が広布の足跡を残された松戸の地にはその後、松戸文化会館〈1990年(平成2年)4月30日〉、松戸池田講堂〈2009年(同21年)3月28日〉が落成し、盤石な体制に。"日本の心臓部たれ!"との不滅の指針を胸に、松戸会館への初訪問から40周年を迎える本年、広宣拡大の新たな歴史を開く。
☆ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち 第19回 エベレストの登攀者
〈イギリスの登山家 ジョージ・マロリー〉
私たちは進み続ける。
道が困難であればあるほど、勝利も大きい。
「なぜ山に登るのか」
「そこに山があるからだ」
イギリスの登山家ジョージ・マロリーが、ある新聞記者と交わしたとされる有名な言葉である。
「山」とは、世界最高峰のエベレスト。標高8848メートルにも達するその頂は、北極・南極に次ぐ地球の「第3の極地」と呼ばれ、長い間、登攀は不可能とされてきた未踏の地であった。
エベレストへの挑戦が始まったのは、約100年前。第1次世界大戦後の1921年、イギリスが最初の遠征隊を派遣し、その一員として参加したのが、当時34歳のマロリーだった。
彼はウィンチェスター校、ケンブリッジ大学で登山技術を磨き鍛えた一流のクライマー。それでも眼前にそびえるエベレストは「全ての山々を領有する支配者」のように見えたという。
エベレストの過酷さは想像を超えていた。高山病や悪天候との熾烈な戦いに加え、切り立つ巨大な岩峰が行く手を阻んだ。この時の真情を記した手紙がある。「山頂に到達できる望みはもうほとんどありません。しかし、もちろん私たちは、到達を期しているかのごとく前進をつづけるでしょう」「われわれは最後まで最大限の希望を持ちつづけていきます」
絶望的な状況に陥ってもなお、彼を突き動かしたものは何か。それは飽くなき探求心であり、「道が困難であればあるほど、また危険が多ければ多いほど、勝利も大きい」という不屈の信念だった。
数週間に及ぶ偵察の末、ついにマロリーは山頂へと続くルートを発見する。翌22年の第2次遠征では、最高到達点記録を更新。しかし、登頂まであと一歩に迫った24年の第3次遠征中、マロリーと同行者は帰らぬ人になってしまう。
幾度にわたる捜索を経て、遺体が見つかったのは失踪から75年後のことであった(1999年)。
彼が頂上にたどり着いたかどうかは、今も謎のままだ。だが、勇気ある先駆者の遺志は後世の登山家に厳然と受け継がれていく。
——1953年、イギリスは9度目の遠征隊を送り込んだ。
その隊員に選ばれたのは、ニュージーランドのエドモンド・ヒラリーと、現地人のシェルパ(案内人)であるテンジン・ノルゲイ。人類の挑戦を何度もはね返してきたエベレストに、国籍も境遇も異なる2人の青年が挑んだ。マロリーの最初のアタックから、32年の歳月が流れていた。
〈人類初のエベレスト登頂者 エドモンド・ヒラリー〉
我々が征服するのは、山ではなく、自分自身である。
ヒラリーは20歳の時、旅行で訪れたニュージーランド南島の山々に魅了され、登山活動を開始。国内の名峰で経験を積んだ。
イギリスのエベレスト遠征隊に参加したのは、1951年からである。この年の挑戦は失敗に終わるが、彼に「諦め」の文字はなかった。
「必ず舞い戻って、登頂してみせる。なぜなら、山はこれ以上大きくならないが、私はもっと成長できるからだ」
一方、テンジンはエベレストの南麓にある山岳民族の村の出身。貧しい家計を支えるため、ヨーロッパからやって来る登山隊の案内役や荷運びを生業としながら、シェルパとして優れた実績を残していった。
53年5月29日の午前6時半。遠征隊の第2アタックに名を連ねた2人が最終キャンプ地を出た。極寒と烈風、酸素濃度は地上の3分の1という「デスゾーン(死の地帯)」の中を敢然と踏破していく。
"我々が征服するのは、山ではなく、自分自身である"(ヒラリー)
——午前11時半、出発から5時間に及ぶ死闘を乗り越え、ついにヒラリーとテンジンはエベレストの頂に立つ。彼らは頂上で握手を交わし、互いの背中をたたいて喜びを分かち合った。そこには、銀嶺に輝く麗しい"同志の絆"があった。
「山には友情がある。山ほど人間と人間を結びつけるものはない。どんな難所ででも、手をたずさえ、たがいに心をかよわすことができる」と、後にテンジンは語っている。エベレスト登攀の最大の力は「友情」と「団結」にこそあったのだろう。
歴史的な壮挙に世界は沸き立った。ヒラリーには英国王室から「サー(卿)」の称号が与えられ、テンジンはネパール・インド両国に英雄として迎えられた。
その後、「最初に山頂に立ったのはどちらか」との論争が熱を帯びていくが、2人は一貫して同じ答えを繰り返した。
「一緒に頂上を踏んだ」と——。
〈ヒラリーとテンジンを語る池田先生〉
いかなる勝負も、「先んずれば人を制す」である。
自分らしく、全力で、勝利への準備をすることだ。
その人には誰もかなわない。
後年、ヒラリーは登山を共にしたシェルパたちへの謝意を込め、彼ら(シェルパ族)の住む村に学校や医療施設を建設。さらには、2008年に亡くなるまで、ヒマラヤ山脈の環境保全に尽力した。
03年には、池田大作先生に署名入りの書籍を贈っている。
1995年10月31日、池田先生はネパールを初訪問。諸行事の合間に首都カトマンズ郊外を訪れ、荘厳な夕映えに雄姿を現したヒマラヤ山脈をカメラに収めた。その際、集まった近所の村の子どもたちに、こう語り掛けている。
「ここは仏陀(釈尊)が生まれた国です。仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ったんです。あの山々のような人間になろうと頑張ったのです。堂々とそびえる勝利の人へと自分をつくり上げたんです。皆さんも同じです。すごい所に住んでいるのです。必ず、偉い人になれるんです」
その光景は、まるで美しい名画のようであった。
「広宣流布」を「山」に例え、マロリーの言葉を交えた先生の指導に、こうある。
「『大志をいだき、それにむかって努力することこそ人間を人間たらしめるものだ』(中略)
困難な試練の山に、勇敢に挑むからこそ、自分自身の秘められた力が発揮できる。広布の山への登攀——それは、人類の境涯を最上の高みへと導きゆかんとする、壮大にして荘厳なる仏の大偉業であります。いかなる断崖絶壁に直面しようとも、妙法に生き抜く不二の師弟には、無限の仏の力が涌現しないわけがありません」(2011年12月3日、新時代第54回本部幹部会へのメッセージ)
また、ヒラリーとテンジンの初登頂の成功は「早くからの準備」「先入観を捨てたこと」「中心者の執念」「不滅の友情」にあったと述べ、次のように訴えた。
「いかなる勝負も、『先んずれば人を制す』である。自分らしく、全力で、勝利への準備をすることだ。『準備がある人』『勝利の決意がある人』には、だれ人もかなわない」(2003年2月5日、第25回本部幹部会でのスピーチ)
さあ、誓いの「5・3」から、民衆凱歌の頂へ、勇気の登攀を!
私たちは進み続ける。そこに目指すべき山がある限り。越えるべき山がある限り。