2022年5月2日月曜日

2022.05.02 わが友に贈る

◇今週のことば
創価学会母の日、万歳!
「悲母の大恩
ことにほうじがたし」
広布の行動は最極の報恩。
感謝の心で打って出よ!
(新1739・全1311)
2022年5月2日

御義口伝巻下 P780
『御義口伝に云く此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり』

【通解】
この法華経を全世界に行ずるということは、普賢菩薩の威神の力によるのである。この経が広宣流布するのは普賢菩薩の守護によるのである。

【先生の指導から】
学会は、どれほど不思議な「仏の集い」であることか。
(中略)
普賢菩薩とは「普く賢い」、すなわち「宇宙に満ちている智慧の働き」である。いわば、人を救う知性であり、価値の創造である。学会は、御書の精神を具現化し、知性の連帯を呼びかけ、いまだかつてない「平和・文化・教育の大道」を開いてきた。人間を結んできた。世界を結んできた。文明を結んできた。

名字の言 文豪ユゴーとドゴール大統領の共通点 2022年5月2日
フランスの2人の人物を紹介したい。ナポレオン3世にペンで立ち向かった文豪ユゴーと、ナチスに屈しなかったドゴール大統領▼ユゴーはペンは剣よりも強しと宣言した。「戦争、力、戦利品の人間たちの減少、思想、平和の人間たちの無限の際だった増加、真の巨人たちの回帰、これこそ私たちの偉大な世紀のもっとも偉大な出来事である」(西永良成訳)と。彼は「世界共和国」を提唱したことでも知られる▼ドゴールは、リーダーの資質として�決断力�知識�エネルギー�精神力——を挙げる。中でも�を養うために「自らに精神的な義務を課す以外にはない。精神力が形成されるのは、心のうちにおいてである。精神力に対する信仰がなければならない」と記した(ミシェル・ヴィノック著、大嶋厚訳『シャルル・ドゴール』作品社)▼共通するのは、強靱な精神力。日蓮大聖人は、御自身を迫害し抜いた権力者たちを「日蓮が仏にならん第一のかとうど(=味方)」(新1236・全917)と言われた。試練を勝ち越える中で精神力は鍛えられる▼「最も困難なのは、理想を持っている時に現実的であり続けることだ。そして、現実を見た時に、理想を持ち続けることだ」(前掲書)。この言葉が胸に響く。

寸鉄 2022年5月2日
人生の深さは志の深さで決まる—戸田先生。誓願に生き抜く人こそ勝利王
御書「南無妙法蓮華経は、自行・化他に亘るなり」。友思う祈りと行動は通ず(新1042・全747)
社会からの孤立が病気や死の可能性高める—調査 心と心結ぶ交流を大切に
空き巣に注意。GW、短時間の外出も施錠・窓閉め必ず。油断の心にも鍵を
休日前日の"夜更かし"は心身不調の因—専門家。聡明なリズムで健康生活

〈社説〉 2022・5・2 あす「創価学会の日」
◇「5・3」から正義の師子吼を
アメリカの仏教研究家クラーク・ストランド氏は論じた。「師弟不二がなければ、創価学会が今日の発展を遂げることはなかったであろう」と。
あす3日は「創価学会の日」。
1951年(昭和26年)5月3日、戸田城聖先生が学会の第2代会長に就任。この出発を記念し、戸田先生は愛弟子の池田大作先生に一首の和歌を贈った。「現在も/未来も共に/苦楽をば/分けあう縁/不思議なるかな」
師匠が「未来も共に」と記した通り、9年後の60年(同35年)の5月3日、池田先生は広宣流布の大誓願を受け継ぎ、第3代会長に就任した。
また、5月3日は「創価学会母の日」でもある。88年(同63年)4月、池田先生が「学会で最も大切な記念日である『5月3日』を『創価学会母の日』としたい」と発案し、同年から実施された。
そして、あすで「女性部」が結成1周年を迎える。
『日蓮大聖人御書全集 新版』には、5月3日にしたためたとされるお手紙が2編収められている。
一つは弘安期の5月3日、窪尼御前と呼ばれる一人の女性門下に送られた御消息。病で夫に先立たれた後も、熱原の法難に微動だにせず、娘と共に勇気ある信心を貫いた母である。日蓮大聖人は「いよいよ御信用のまさらせ給うこと、とうとく候、とうとく候」(新1979・全1478)とたたえられている。
建治元年(1275年)の5月3日には、亡き父の後を継いだ青年門下・南条時光を、こう激励されている。「自身が大事と思っている人たちが信心を制止し、また大きな難がくるであろう。その時、『まさに諸天の守護が叶うに違いない』と確信して、いよいよ強盛に信心に励むべきである」(新1843・全1512、通解)
二つの御文では、弟子たちに大難を恐れず、師子王のごとく奮い立つよう、呼び掛けられている。
この不屈の精神に、創価の闘魂もある。「5・3」とは、広宣流布のため、民衆の幸福のため、平和のために、師と共に弟子が立ち上がる日である。
池田先生は、随筆でつづった。
「さあ、元初の五月三日から、大いなる希望に燃えて、正義の師子吼を轟かせゆくのだ。今再び、異体同心の団結で、新たな一歩前進を開始しよう!」

☆第9回本部幹部会 原田会長のあいさつ
◇立正安国へ正々堂々と前進
一、5・3「創価学会の日」「創価学会母の日」を記念する「第9回本部幹部会」の開催、誠におめでとうございます。
また女性部の皆さま、歴史的な第1回女性部総会の開催、本当におめでとうございます。

一、本年は、池田先生が1962年9月、公明党の前身である公明政治連盟の第1回全国大会において、「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」との立党精神を示されてより、60周年を迎えます。
戸田先生は逝去される2カ月前(58年2月)、「選挙と青年」と題する「大白蓮華」の巻頭言で、「青年は心して政治を監視せよ」と遺訓を残されました。そこではまた、学会による支援活動の原点についても、明確に記されています。
戸田先生はまず「民主政治」の本質を、「民主政治というものは、民衆の要望におされ、かつ、その要望に応えて出馬した人々が、国家の大勢を考え、民衆の要望をいれ、国家百年の大計を政治に具現すべきものである」と、簡潔明瞭に喝破されています。
その上で「しかるに、日本の現勢を見るに、ただただ、おのれの権勢を張り、名誉欲を満たさんがために、一党一派の中に閉じこもり、その党派の中に、また党派を作って、鎬を削っている」等と、当時の政治状況を嘆いておられます。理念も政策もそっちのけで、選挙目当ての離合集散に明け暮れる今の"政治屋"たちを見るにつけ、「民衆不在」の一凶は今なお根深いと言わざるをえません。
さらに戸田先生は、こう宣言されます。
「創価学会が選挙運動にのり出した時、これには立派な目標があった。それは、いうまでもなく広宣流布である」
「偉大な抱負に生き、未来に大きな希望を持っていたために、今までのような醜悪なる選挙運動ではなく、正々堂々、天下に恥ずるものはなかった。わが創価学会の選挙のあり方こそ、古今無類のものであり、天下に恥ずるものなしであった」(言葉は一部、現代表記に改めた)
もとより、ここで言う「広宣流布」とは、単に一宗一派に偏するものではありません。公政連発足当時、池田先生が一本の鉛筆をかざしながら、こう語られたことがあります。
「先っぽを富裕層としよう。この層には、自民党が食い込んできた。後ろは労働者階級だ。社会党(当時)や共産党が訴えてきた。両方とも、鉛筆全体から見れば一部分である。真ん中の大部分を含めた全体。これが『大衆』だ。この人たちのための政治がなくてはならない。それが主権在民だ。それが立正安国だ。王仏冥合ということなんだ」と。
まさに、戸田先生から池田先生へと受け継がれた立正安国の悲願は、「大衆とともに」との立党精神に凝縮されるのであります。
私たちは、この「立正安国」という、前代未聞にして古今無類の大事業を遂行しゆく誇りに燃えて、大いなる希望を胸に、正々堂々と戦い、完全勝利してまいりたい。

「人間革命」こそ平和の王道
一、池田先生が、20世紀最高峰の歴史学者・トインビー博士と対談を開始されてより、この5月で50年。半世紀を経て、その先見性は、いや増して光彩を放っています。
「新しい文明を生み出し、それを支えていくべき未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪と対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならない」——こう展望するトインビー博士は、「諸悪のうち最も恐るべきもの」として、三つ挙げます。すなわち、「生命に宿る貪欲」「戦争と社会的不公正」、そして「人為的環境破壊」の三つであります。
私たちは、まさしく今、地球民族の一員として、最大級の試練に直面しているといえます。
西洋社会を代表する知性が発する問題意識に対し、先生は仏法の叡智をもって応えます。
「貪欲は人間の自己の内面にあるものであり、戦争や社会的差別は人間対人間、つまり社会の次元にあるものであり、環境破壊は人間対自然の関係に生じる問題です。この自己——社会——環境という三つの範疇について、仏法では"三世間"として説き明かしています」と述べ、さらに先生は、この「三世間」の法理について、分かりやすく博士に語られます。
そして先生は、結論されます。
「結局、私は、この三つの関係を正常なものとすることに、最大の努力を注がなければならないと信ずるのです。そして、そのためには、人間一人一人が、自己の生命の内奥からの変革をめざさなければならないでしょう。これを可能にする宗教こそ、未来に望まれる真の宗教たりうると思います」と。
私たち一人一人が、日々、挑戦している「人間革命」の実践こそが、いかに迂遠な道のように見えようとも、人類の平和と繁栄への王道であり、直道なのであります。
そしてまた、日蓮大聖人の仏法が、果たして「未来に望まれる真の宗教」たりうるか否かもまた、私たち一人一人の成長と勝利によって決まると言って、過言ではありません。

一、「結句は、勝負を決せざらん外は、この災難止み難かるべし」(新1333・全998)。この日蓮大聖人の御断言は、そのまま、私たちへの御遺命にほかなりません。
広宣流布は永遠に仏と魔との闘争であり、また、仏法は勝負——正義は、勝ってこそ正義であります。「創価の勝利こそ民衆の勝利」との気概で、最後の最後まで、攻めて攻めて攻め抜いて、断じて新たな歴史を開いてまいりたい。
まずは、このゴールデンウイーク、全国を所狭しと縦横無尽に駆け巡り、友好対話の輪を大きく広げていこうではありませんか。

☆ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史 第19回 21世紀は女性の世紀 �第一の戦友〈中〉
深く祈り抜いた分、深い智慧が湧く
戦い切った分、生命が鍛えられる

◇「母の曲」
山本伸一のペンネームで、池田大作先生が作詞した、婦人部(当時)の歌「母の曲」の歌詞が読み上げられた。1978年10月21日、東京・板橋文化会館で行われた本部幹部会のことである。
席上、先生は「婦人部の皆さん方の日夜のご活躍に、心から敬意を表して作らせていただきました」と語った。
前日の20日、先生は「母の曲」の作詞を開始する。この日、創価婦人会館(現・信濃文化会館)で開催された婦人部の方面幹部との懇談会で、新しい歌を発表したいとの声があった。
代表が歌詞を作成していた。その原案では、創価婦人会館を「母の城」と詠っていた。
先生は「婦人部の皆さんには、それぞれのご家庭を『幸の城』『母の城』にしていく使命があるんです」と。各人の家庭こそが「母の城」と強調したのである。
婦人部の要望に沿い、先生は帰宅後、作詞に取り掛かった。すでに、午後10時半を回っていた。先生の口述を、香峯子夫人がメモに書き留めた。
作詞を進める中で、先生は夫人に意見を求めることもあった。「婦人部には、ご主人を亡くされ、働きながら懸命にお子さんを育てている方や、結婚なさらずに頑張っている方もおります」との夫人の言葉から、「城の人々 笑顔あり」との一節は生まれた。
本部幹部会の終了後には、曲も完成した。歌詞とメロディーの両方が最初に披露されたのは、翌22日に滋賀研修道場で行われた「琵琶湖フェスティバル」であった。

同フェスティバルには当初、先生が出席する予定だった。だが、東京での諸行事が重なった。
あいさつに立った香峯子夫人は、率直に語った。「私に『代わりに行って、謝ってほしい』ということになりまして、急遽、来させていただきました」
夫人は、先生が滋賀訪問を念願していたことを伝え、「母の曲」を皆さんに聞いてもらうため、テープを託されたことを語った。
メロディーが研修道場のグラウンドに流れた。夫人は「楽しいご家族の城を、地域の城を元気に守り、発展させていただくようお願い申し上げ、ごあいさつに代えさせていただきます」と結んだ。
その後、出演者を励ますため、グラウンドを回り始めた。砂ぼこりが舞う中を歩く夫人に、「高島から来ました!」と叫ぶ女性がいた。
滋賀・高島は、第1次宗門事件の折、関西の中で悪僧に苦しめられた地域の一つである。夫人は女性の手を握りながら語った。
「高島の皆さんからは、お手紙もたくさんいただいております」
「どうか、何があっても頑張り抜いてください。必ず将来、何が正義かは明らかになります。私も、真剣に、お題目を送らせていただきます」
この激励から4年後の82年6月、高島の友は文化祭を開いた。この祭典に、来賓も含め、1200人が集った。文化祭は、第1次宗門事件に対する高島の友の勝利の証しであった。

◇香峯子夫人のメッセージ
2009年1月、アメリカSGIの友に歓喜が広がった。月刊の教学誌「リビング・ブディズム」に、香峯子夫人の新年のメッセージが掲載されたのである。
その中で夫人は、御書の「ただ法華経ばかりこそ、女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候えと見候いしかば、悲母の恩を報ぜんために、この経の題目を一切の女人に唱えさせんと願ず」(新1739・全1311)を拝読。
「大聖人の仏法は、すべての女性が、一人も残らず、永遠の幸福を勝ち取っていける教えです。そして、あらゆるお母さんたちに、最高無上の恩返しを果たせる法理なのです」と訴えた。
続いて、法華経に説かれる竜女の成仏の意義を確認し、「一人の女性の『師弟勝利』の晴れ姿が、未来に続く全女性の鑑となり、模範となって、光り輝いているのであります」と述べた。
さらに、こう強調した。
「いつも夫と語り合っていることですが、信心をしている私たちにとって、試練も、苦難も、全部が、成長の糧となり、福運の種となります」
「大きく悩んだ分、大きな境涯が開けます。深く祈り抜いた分、深い智慧が湧きます。強く戦い切った分、強い生命が鍛えられます。一つも無駄なことはありません」
夫人は、出会いを結んだ東北の女性についても言及した。

◇一目でも先生に
それは、1985年5月21日のこと。この日の聖教新聞の1面に、池田先生が13年ぶりに岩手・盛岡を訪問した模様が掲載された。
早朝、記事を読んだ谷藤光子さんは、"一目でも先生にお会いしたい"との一心で、地区の数人の友と一緒に岩手文化会館(現・盛岡文化会館)へ向かった。
会館に到着してしばらくすると、3階のカーテンが開いた。谷藤さんの視線が釘付けになった。そこに、師の姿が見えたからだ。しかも、手招きしてくれている。
館内に入ると、香峯子夫人が一緒に勤行を。終了後、夫人は語った。
「主人はさきほど、締め切りが近い原稿を書いておりました。ふと立ってカーテンを開けてみたら、皆さんがいらっしゃったので」
懇談が始まった。夫人は、一人一人の話にじっと耳を傾けながら、優しく包み込むように励ましを。その真心に、谷藤さんは目の前の一人に徹底して寄り添う振る舞いを心に刻んだ。
83歳の谷藤さんは、これまでに77世帯の弘教を実らせている。「年齢と同じ数の折伏をしたい」——胸中には、広布への情熱が赤々と燃えている。

◇「10年」の指針
大阪の守口文化会館は、1979年4月24日、池田先生が第3代会長を辞任したその日に、緊急本部長会が行われた場所である。
この集いから、大阪の同志は反転攻勢へと立ち上がった。今も語り継がれる広布史を刻んだ同会館に、今年も「福山桜」が万朶と咲き誇った。
82年1月、福山和子さんは、夫の晶雄さんを亡くした。本部長を務めていた晶雄さんは、まだ46歳。福山さんは守口圏(当時)の圏婦人部長として奮闘を重ねていた最中だった。
突然襲った試練。先生から念珠などの激励が立て続けに届いた。師の真心に、中学2年の啓子さん、小学5年の法義さんと共に生き抜いてみせると決め、福山さんは働き始めた。
晶雄さんの逝去の後、福山さんは家族の近況などを、香峯子夫人への手紙につづった。数日後、一通の封書が届いた。夫人からの返信だった。
「お便りありがとうございました。突然の御不幸にもめげず、働きながら圏婦人部長をおやりになられていらっしゃる事に心より敬服いたし、御健康を心よりお祈り申しあげます」
先生から2人の子どもへの伝言も記されていた。「お父様の代わりに、いつも見守っています、と伝えてあげて下さい、と申しております」
手紙は、「十年間、お子様の為に頑張ってあげて下さい」との言葉で結ばれていた。
「10年」が、福山さんの指針になった。簿記資格を取得し、子どもたちが大学を卒業するまでの11年間、働き続けた。学会活動も一歩も引かなかった。
退職した93年、小説『新・人間革命』の連載が開始された。福山さんは、"『新・人間革命』と共に前進しよう"と決意し、連載が終了するまでの25年間、全てを書き写した。師が全精魂を注いだ一文一文を心肝に染め、自らの人間革命に挑んだ。
3年前、腰を手術し、歩くのに杖が必要になった。だが、先生ご夫妻への報恩の誠を尽くす福山さんの誓いに、いささかも揺るぎはない。

◇虹の祝福
1991年5月18日、池田先生は6年ぶりに新潟を訪問。香峯子夫人は、「素晴らしいお天気でよかったです。涼しいですね。東京は暑いんですよ」と、出迎えた友に声を掛けた。
20日、夫人は開館1周年の新潟池田婦人会館(現・新潟白ゆり女性会館)へ。モチノキを記念植樹し、代表の友と勤行した後、懇談を行った。
夫人は「いつも皆さんの『健康・長寿・裕福』を祈らせていただいています」と語り、5月3日に東京・八王子や広島で、虹が鮮やかに懸かったことを述べた。
その場に参加していた女性が、新潟でも「5・3」に、"勝利の虹"が姿を現したことを伝えた。夫人は、全国各地で「5・3」を、虹が祝福したことを心から喜んだ。
翌21日には、先生が同会館を視察。「健康 使命 幸福 新潟の女王」との揮毫を認めた。
間もなく「5・3」が巡り来る。
今年は、池田先生ご夫妻の結婚70周年。先生はかつて、こう述べた。
「私たち二人は、そのとき(結婚の時)、社会のために尽くそう、人のために働こう、と私たちの目的を互いに理解しあい、それを互いに約束した。それは、今も変わっていないし、将来も変わらないであろう」