2022年3月28日月曜日

2022.03.28 わが友に贈る

◇今週のことば
「仏種は縁より起こる」
対話の春風さわやかに
幸の仏縁を結びゆこう。
草の根の絆を強く広く!
平和の希望ここにありと。
(新1953・全1467)
2022年3月28日

生死一大事血脈抄 P1337
『日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し』

【通解】
日蓮の弟子の中に異体異心の者があれば、それはたとえば、城の内部の者が城を破るようなものである。

名字の言 人間の心に宿る力 2022年3月28日
『人間をみつめて』は、精神科医の神谷美恵子氏が、ハンセン病療養所での診療体験を通して、生きることの本質を思索し記録した不朽の一書である▼偏見と差別を浴び、隔離され、尊厳を奪われた人々。その中でも、視力を失った患者たちが趣味や勉強のグループを作って活発に活動している姿に接して、氏は思った。苦しみをも建設的なものに転換する力が、人間の心には宿っている。一人では悩みの底に沈みかねない状況でも励まし合うことによって人は、他人を慰め、喜ばせることさえできるようになる——と▼鹿児島・徳之島の壮年は、35歳で学会に入会。島の広布に歩いた。ところが、入会40周年の一昨年、試練が襲う。長男をがんで亡くしたのだ▼やるせない思いが募った。無理もない。だが、同志がその気持ちにじっと耳を傾けてくれた。毎日のように声を掛けてくれる友もいた。創価家族の励ましが、凍えた心を温めた。"俺は息子の分まで島広布に生きる!"。壮年は生きる意味を見いだし、地区部長として、地区女性部長の長女と共に島を駆ける▼自分が一人を支える。支えられた一人が、また別の誰かの支えとなる。広宣流布とは、今いる場所で"励ましの連鎖"を広げることである。

寸鉄 2022年3月28日
団結がなければ戦には負ける—恩師。中心者と副役職が力合わせ皆で飛躍
「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」御書。広布に生き抜く人生こそ最極(新2068・全1443)
私は永遠の青春を私自身に誓う—ドイツ哲人。信心に引退なし。若々しい心で!
春の熱中症に注意。気温に体慣れず、起こり易く。水分・塩分補給小まめに
各地で出発する新社会人おめでとう!「誠実」こそ信頼築く鍵。振舞で光れ

〈社説〉 2022・3・28 可能性に満ちた新社会人へ
◇失敗を恐れず無敵の人生を
桜花舞う春本番を迎え、来月1日からは、いよいよ新社会人がスタート台に立つ。
昨年行われた、新社会人への意識調査によると、「仕事・職場生活をする上での不安は?」との問いに、「仕事についていけるか」が65・7%、「私生活とのバランスが取れるか」が36・7%で調査開始から過去最高だった(リクルートマネジメント2021年新入社員意識調査)。また、自分の強みとする姿勢・態度として「協働」等を挙げる一方、「自発」「試行」は大事だと思いつつも、苦手と考える人が多かった。
今年の新社会人も、同様の不安を抱く人は少なくないだろう。しかし、その中で社会に踏み出した皆さんである。失敗を恐れず挑戦してみる。その先に大きな成長があることを確信してほしい。
一足先に社会人となった先輩たちも、さまざまな現実の壁に立ち向かいながら成長をしてきた。
埼玉のある学生部員は、職場での異動後、慣れない仕事に毎日終電近くまで悪戦苦闘した。そんな中、毎朝1時間の唱題に挑戦。祈りを根本に生活リズムをつくることができ、仕事が順調に進むようになったことを実感した。
また、東京の学生部員は、社会人1年目で大きな仕事を任されることに。そのプレッシャーにくじけそうになったが、自分が成長するチャンスだと決意し、唱題根本に人一倍の努力と挑戦で、見事やり遂げることができた。
池田先生は新社会人に対し、「思うようにいかない時も、くさってはならない。上手くいかない時も、自分らしくベストを尽くしていけば、必ず、そこから次の道が開かれる。(中略)すべてが勉強だ。どんなことも、自分の成長の力に変えてみせる! そう肚を決めた青年は、無敵である」と呼び掛けている。
新型コロナウイルスの感染拡大から2年が経過した。今春、新出発する友は、学生時代の生活の大半をオンライン中心で送った世代である。入学当初に想像していたキャンパスライフではなかったかもしれない。
しかし、その状況に耐えて前を向き、飛躍の時を迎えた友は、厳冬を乗り越えた桜のように美しい花を咲かせ、社会に新たな息吹をもたらすだろう。そんな可能性に満ちた新社会人たちの成長と活躍を皆で応援していきたい。

☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第14回「3・16」 "広布の印綬"を君たちに託す!
【後継の指針】
一、生涯にわたって、仏勅のわが学会と共に生き抜いていくこと
二、広宣流布の全責任を担って立つこと
(「随筆 新・人間革命」〈創価の戴冠式「3・16」〉)

◇私の側から離れるな
「さあ、これで、私の仕事は終わった。私は、いつ死んでもいいと思っている。大作、あとはお前だ。頼むぞ!」
第2代会長・戸田先生は、力を込めて30歳の池田先生に言った。1958年(昭和33年)3月1日、大講堂落慶の式典が終わった後、移動中のエレベーターでのことである。
「はい!」
池田先生の声が響いた。恩師が後事を委ねる師弟の決定的瞬間だった。
大講堂の建物から、戸田先生は池田先生に体を支えられながら出た。すると式典後も、青年たちが広場で、音楽隊の演奏とともに学会歌を合唱していた。
師と弟子は、その輪に入っていった。池田先生が指揮を執り、音楽隊の学会歌の演奏に合わせ、青年たちは力いっぱい歌った。戸田先生は満足そうに、その光景を見つめた——。
衰弱の度を増していた戸田先生が倒れたのは、前年11月のことだった。その後、肝硬変症による危機を脱し、2月11日の誕生日には快気祝いを行う。その前日、愛弟子に広布の重大な構想を語った。「あと7年で、300万世帯までやれるか?」
池田先生は、満々たる決意を述べた。
「はい、成就いたします。ますます勇気が湧きます。私は、先生の弟子です」
3月からは、1カ月で20万人が集う大講堂落慶の祝賀行事が静岡で行われ、青年室長の池田先生が運営の全責任を担った。万全の準備を進める中、こう日記に記している。
「本部にて輸送会議……�本日で大講堂落慶式の準備完了�明日、バス会社、鉄道関係に書類を回すこと�役員人事も決定す これで、自分もほっとする。(戸田)先生も安心してくださるであろう」(『若き日の日記』、1958年2月24日)
しかし、2月末、戸田先生はいよいよ医師を何度も呼ばねばならない状況になった。病あつき中で、愛弟子に言明した。
「大作、絶対に、私の側から離れるな。いいか、四六時中、離れるな!」
池田先生は、恩師の分身のごとく添いながら、運営の陣頭指揮を執った。

【「若き日の日記」1958年(昭和33年)4月1日から】
われらは、更に、
自己の信心を磨くべきである。
自己の建設をなすべきである——

◇心と心で結ばれた日
「(戸田)先生の命は、燃え尽きんとしていた。死の方向へと進んでいた。それを知るは、先生ご自身と、真正の弟子である私だけであった」——祝賀行事の期間中、池田先生は恩師の体が心配でならなかった。
しかし、戸田先生のもとをどうしても離れなければならないタイミングがあった。「大阪事件」の裁判である。
3月5日、病に伏す戸田先生は、大阪へ向かおうとする池田先生へ、毅然として言った。「最後は勝つ。金は金だ」「真実は必ず明らかになる」
——その言葉通り、4年後の1月25日、84回にわたる公判を終え、無罪判決を勝ち取る。
3月16日という日に、時の首相が来訪することが決定すると、戸田先生は池田先生に言った。「将来のために、広宣流布の模擬試験、予行演習となる式典をしよう」「この3月16日の式典を、"広宣流布の印綬"を君たちに託す儀式にしようと思っているんだよ。この式典の全責任は、君がもつのだ」
開催の発表が青年部に知らされたのは式典の数日前。突然のことではあったが、青年たちは、師匠のもとに、馳せ参じる誇りに燃えた。
「3・16」に向けて、池田先生の発案で用意されたのは、恩師に乗ってもらう「車駕」だった。
戸田先生は、青年たちのために「豚汁」を手配した。人数分を準備するには、豚汁を入れる大量の四斗樽が必要となることを聞くと、恩師自ら、会場近くの酒屋に電話を入れた。青年たちは、「椀と箸を持参せよ」と事前に徹底された意味を、当日、初めて知るのである。
「車駕」は、師匠の体を気遣う"弟子の真心の結晶"であり、「豚汁」は、青年を励ましたいとの"師匠の慈愛の発露"にほかならなかった。師弟の心と心で結ばれた日が「3・16」だった。
3月16日午前、時の首相から戸田先生のもとに電話が入った。そこで急きょ、式典の欠席の意向と、代理を出すことが伝えられた。表向きは"外交上の問題"であったが、側近から横やりが入ったのが本当の理由だった。詫びを述べる首相に対し、戸田先生は怒りを震わせた。
「私に詫びよと言っているのではない。詫びるのは、青年たちにだ!」
戸田先生は、青年の期待を裏切ることに誰よりも心を痛めたのである。
そして意を決した。
「だれが来なくとも、青年と大儀式をやろうではないか!」
午後零時40分、男女青年部の精鋭6000人が集い、歴史的な"広宣流布の記念式典"が開幕した。司会である池田先生の、満々たる声が会場に響いた。
戸田先生は、自力で立ち上がることもできなかったが、渾身の師子吼を放った。
「われわれには、広宣流布を断じてなさねばならぬ使命がある。それを今日、私は、君たち青年に託しておきたい」
創価学会が「宗教界の王者」であることを宣言し、青年部に広布の印綬を託したのである。

◇青年の伝統の節目に
3月16日以降、戸田先生が布団から起き上がることはほとんどなくなり、愛弟子と広布の未来を語り合う日々が続いた。この時、恩師は「うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」と、世界広布の理想を池田先生に委ねた。
祝賀行事が幕を閉じようとしていた3月29日には、戸田先生は宗門の腐敗について言及し、「一歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!」と、邪悪と戦い抜くことを示した。池田先生は、この遺言を青年部の厳訓としていくことを誓った。
恩師亡き後、歴史的な「3・16」の意義を深く理解し、正しく伝えることができたのは、池田先生以外にいなかった。
ある時には、式典当日の豚汁の調理で残った豚の皮を使い、ペンケースを作って、青年の代表に贈呈した。「"絶対に、亡き恩師の心を忘れるな、生涯、学べ、生涯、戦い続けよ"との思いをこめて」——池田先生はその心境を述べている。
1959年(昭和34年)3月16日には、青年にこう語った。
「毎年、3月16日を青年部の伝統ある節目にしていこう」「この日を、広宣流布への記念の節にしていこう。青々とした麦のような青年の季節たる3月に、師のもとに青年部が大結集したことに、不思議な意義があるんだよ」
第3代会長に就任する年の「3・16」には、次のように記した。
「この日を、永久の広布実現の日の、開幕とすべきなりと、青年部幹部に残す」「化儀の広布の大式典は、一日にして終了するものではない」(同、1960年3月16日)
「3・16」は、未来にわたる"後継の節"であり、"広布実現への開幕の日"——池田先生は、「3・16」を過去の歴史にしてはならないと、戦い続けた。そして、広布の上げ潮で「3・16」を迎え、「3・16」から新たな峰へと向かう"後継の不滅のリズム"を刻み残したのである。
61年(同36年)3月16日、池田先生は青年部の第1回音楽祭に出席。東西冷戦が激化する中、大国の武力でも権力でもなく、"学会員の前進"こそが世界に平和をもたらすただ一つの道であると強調した。そして、「3・16」記念式典後の戸田先生の言葉を引用し、呼び掛けた。
「我々は、戦おうじゃないか!」
広布の闘争は、不幸に覆われた社会の闇を、仏法の人間主義の光で照らし続けていく間断なき戦いだ。その後継の誓いに燃え、新たな飛躍のドラマをつづりゆく"目標点"また"出発点"となるのが、「3・16」なのである。

☆御書と未来へ 第9回 全民衆の幸福と安穏を
〈御文〉
『法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、父母六親、一切衆生をもたすけ給うべき御身なり。』〈土籠御書、新1639・全1213〉

〈通解〉
(あなたは)法華経一部を色心の二法にわたって読まれたのであるから、その功徳で父母、親族、一切衆生をも救済される御身である。

〈池田先生が贈る指針〉
艱難の時こそ「まことの時」である。苦境に負けず信力・行力を奮い起こせば、無窮の仏力・法力が涌現する。妙法の大功徳は生死を超えて、父母、親族はもとより一切衆生にまで及ぶと仰せである。
「広宣流布」即「立正安国」の大道を貫く我らは、全民衆の幸福と安穏を、いよいよ強盛に異体同心で祈り抜こう!