尊き同志を守り抜く!
これが壮年部の心意気だ。
友の幸せと後輩の成長を
一つ一つ祈りゆこう。
創価の城の黄金柱たれ!
可延定業書 P986
『閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし、日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る、早く心ざしの財をかさねていそぎいそぎ御対治あるべし』
【通解】
世界一の王子であっても、短命であれば(その人の命は)草よりも軽くなってしまいます。また、太陽のような勝れた智慧をもつ人であっても、若くして死んでしまっては、生きている犬にも劣ります。早く信仰の財産を積み重ねて、速やかに病気を対冶していきなさい。
名字の言 「わけあってこちら側で止まっています」 2022年3月4日
都内に住む知人は外出時、リュックサックに公益社団法人制作の「わけあってこちら側で止まっています」と書かれたキーホルダーをつける。理由をこう語っていた。「エスカレーターに乗った際、右側を上っていく人が多いので……」。知人は体が不自由で、立つには右側に支えが要る▼本来、エスカレーターは立ち止まって利用するもの。知人のような事情を抱えた人たちの方が、配慮するのは悲しいことだ。だが、マナーを守れない他者を責めただけでは解決しない。多様な立場の人がいると皆が想像力を働かせれば、もっと優しい社会になるだろう▼小学校教諭の女性部員に、こんな話を伺った。担任した学級に、授業中、いつも居眠りする女子児童がいた。優しく注意するが、なかなか改善しない。ある日、その少女が提出した宿題ノートを見た。数行だけ書かれた最後の文字はにじんでいた▼"涙のせいでは?"と想像した彼女は少女に聞いた。病弱な母が寝込みがちで、家事と弟たちの世話に追われ宿題まで手が回らないとのことだった。彼女は少女一家の幸福を祈り、励まし続けた。少女は奮闘を重ね、後年、小学校の教員になった▼想像力の「想」の文字は「相手の心」と書いて、「想う」と読む。
寸鉄 2022年3月4日
我らが行ずる折伏は慈悲の行—戸田先生。相手の幸福願う言葉は必ず通ず
世田谷の日。勇気なくして勝利なし。壁破り地域に信頼の連帯を幾重にも
妙法は「活の法門」。何一つ無駄なく全ての苦労を生かせるのが信心の功力
人間の精神は激しい闘争の中で鍛えられる—詩人シラー 目前の課題に体当たりで
気温2度上昇で30億人が慢性的水不足に—報告書 "わが事"と意識変革更に
〈社説〉 2022・3・4 「未来部希望月間」がスタート
◇子どもの命に響く励ましを
卒業や進学、進級など、新たな年度に向け、環境が変化する3月。子どもたちにとっては、希望に胸がふくらむ一方、不安で心が揺れ動く時期でもある。
そんな時、温かな言葉を掛けてくれる人の存在は、新たな一歩を踏み出す追い風になる。
香川のある女子高等部員は、未入会だった中学生時代、人間関係の悩みから不登校を経験した。思春期でもあり、家族と衝突するように。その後、うつ病と診断された。"自分は周囲に置いていかれてしまう"という強い不安を抱え、生きる希望を失いかけていたという。
そんな中、彼女に転機が。近くに住む親戚の家をしばしば訪れる際、その家に来る学会の同志が、事情を察して温かく励ましてくれた。優しく声を掛けてもらうなかで少しずつ心がほぐれ、"自分も変わりたい"という思いが芽生えた。そして、自ら家族に「学会に入会したい」と。
入会後は、題目根本に学業に取り組み、起業に関する部活動にも参加。地域活性化を目指して事業を立ち上げ、その活躍は地方紙に取り上げられた。そしてこの春、彼女は神奈川の大学に進学する。
私たちの発する言葉は、同じことを言ったとしても、伝わり方は、その時々の感情や状況によって変わってくるもの。聞き手は、相手の言葉の響きから、その奥にある心を感じ取っているものだ。相手が子どもであれば、なおさら敏感に受け止めるだろう。
相手の心に思いを届けるのに、話のうまい下手は関係ない。なんとかしてこの人を励ましたいと真剣に祈り、真心を込めて語り掛ける声の響きに、「励ましの力」が宿るのだろう。
池田先生はつづっている。
「言葉の力とは、心の力です。あの友に、負けない勇気を! この友に、蘇生の息吹を! 一人一人の幸福を祈る題目は、命に響く励ましとなります。たとえ短時間でも、真心こもる一言が、どれほどの力になることか」と。
今月1日から未来部希望月間がスタートした(31日まで)。「未来部の日」(13日)を中心に、地域の実情に合わせて「卒業部員会」や少年少女部の合唱団の「入卒団式」が開催される予定だ。
春の日差しのように温かな励ましで、未来部員の心を包み、新出発へのエールを送りたい。
☆ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史 第17回 21世紀は女性の世紀 �ひな人形
◇春が来た 貴女の笑顔が 雛人形
◇唯一残った財産
第3代会長に就任する2カ月前の1960年3月3日、池田大作先生は日記につづった。
「この日は、母の匂いがする。幼い兄弟の匂いがする日だ」
この3月3日に寄せて、先生は折々に、ひな人形の思い出を語ってきた。75年2月1日から一般紙で連載が開始された自伝「私の履歴書」にも、そのことが記されている。
45年3月の東京大空襲の後、先生が暮らしていた家は、空襲による類焼を防ぐため、取り壊されることに。一家は、おばの家に新しく一棟を建て増してもらい、転居することになった。
リヤカーで荷物を少しずつ運び、ようやく新しい生活が始まろうとしていた。その矢先の5月24日、家は空襲で全焼。先生と弟が必死になって、長持一つを持ち出すことができた。
開けてみると、入っていたのは、ひな人形と一本のコウモリ傘。それが唯一残った財産だった。
先生は「心の落差は大きかった」と振り返っている。「あすから、いや今夜どうすればいいのか」。そう思っていた時、母が言った。
「このおひなさまが飾れるような家に、きっと住めるようになるよ」
先生は「私の履歴書」に記した。
「母もガッカリしていたことは間違いない。しかし母は努めて明るくこういったのである。母の言葉には千鈞の重みがあった。皆はつりこまれるように笑った。笑いのなかに希望が生まれていくようであった」
◇父娘の心の交流
「私の履歴書」の連載から1年後の76年2月、ひな人形を通した"父娘の心の交流"が生まれた。
この月の13日、先生は関西を訪問。奈良、京都、滋賀、兵庫で宝の友を激励し、19日には関西記念館(当時)を訪れ、写真展示を観賞。さらに、大阪市内で関西の首脳幹部と懇談した。
連日の激闘に、関西女子部の友は、"少しでも感謝を伝えたい"と、手作りの七段飾りのひな人形を届けた。
先生は「真心ありがとう」と伝言を寄せ、「皆さんの手作りのひな人形を、ぜひ"娘たち"に」と創価女子学園(現・関西創価学園)に贈ることを提案。20日、先生が出席して、関西文化会館でひな人形の贈呈式が行われた。
式には、人形を制作した関西女子部と学園の代表のメンバーが参加。彼女たちは琴の音色に合わせて、「うれしいひなまつり」を合唱した。
すると、先生は「もう1回、歌ってくれないか」と語り、「カセットテープはある?」と。録音の準備が整うと、再び合唱が始まった。
彼女たちの歌声が入ったテープを、先生は関西女子部の幸福と学園生の成長を念じながら、繰り返し聞いた。
関西創価学園の開校の模様が収められた小説『新・人間革命』第17巻「希望」の章の連載が開始されたのは、2005年3月3日である。先生は万感の思いをつづった。
「私は、皆さんをわが娘として、また、最高の宝として、生涯、見守っていきます」
報恩の心輝く、手作りのひな人形は毎年、関西創価学園で飾られている。
◇「桃の節句」の意義
15年前の2007年2月、池田先生は婦人部代表協議会の席上、3月3日に寄せて記念の句を贈った。
「春が来た 貴女の笑顔が 雛人形」
「この佳き日 貴女の笑顔も 雛人形」
「桃の節句」である3月3日は「大阪婦人部の日」(現在は「大阪女性部の日」)であり、「先駆九州女性部の日」「華陽姉妹 誓春の日」でもある。
「大阪婦人部の日」が決定したのは1985年1月23日。この時、大阪の多くの友が"なぜ、3月3日なのか"と疑問を抱いた。その答えを示したのは、香峯子夫人だった。
「ひな祭りは、貴族の文化から生まれたもので、それが庶民の中に根付いたと言われています。主人(池田先生)は、『庶民の中に』というのが、好きなんですよ」
この言葉で、"大阪の女性たちが、おひなさまのような笑顔で、幸福に輝いてほしい"との師の願いが込められていることを知ったのである。
91年3月3日、この日、関西を訪問した池田先生は、「きょうは、『大阪婦人部の日』だね。記念の集いをしよう」と提案。夜、勤行会が関西文化会館で開催された。
会館の玄関ロビーを「桃の花」のオブジェが彩った。関西女性部の"感謝の花"が、先生ご夫妻を迎えた。
勤行会の席上、先生は、日蓮大聖人が日眼女(四条金吾夫人)に対し、妙法の絶大な功力を教えられ、「年はわこうなり、福はかさなり候べし」(新1543・全1135)と約束されたことに言及。「広布に生きる私どもは、三世にわたって"億兆の功徳"咲く、常春の長者の人生を送っていける」と訴えた。
さらに、先生は続けた。
「『桃の節句』には、『遊楽』『生命力(不老)』『平和』の意義がある」
「どうか、この日を迎える1年ごとに、ますます楽しく、いよいよ若々しく、『平和の桃園』を地域に、社会に大きく広げていっていただきたい」
◇子どもを守り抜く母に
勤行会に参加した大阪・鶴見区の細川照代さんはこの年の12月に結婚。翌年8月、長女・洋美さんを出産した。
7カ月の早産だった。洋美さんは、まだ肺ができておらず、新生児集中治療室(NICU)に運ばれた。人工呼吸器をつけなければならない可能性もあった。
夫の信さんと祈り続けた。父母の題目は、生まれたばかりの子どもに届いた。両親の不眠不休の戦いで、洋美さんは生後2カ月で退院できた。
95年、家族3人の生活に新しい命が宿った。ところが、細川さんの身に胎盤早期剥離が起こる。出血が止まらず、母子共に危険な状態。緊急手術が行われた。
次女・明美さんも、長女・洋美さんと同じく7カ月で生まれた。細川さんは数日間、意識を失ったが、一命を取り留めた。しかし、喜びも束の間、医師から信じられない言葉を耳にする。
「お子さんの脳に、穴が4カ所あいています。残念ですが、寝たきりの人生を送ることになります」
先輩が「使命ある子よ」と励ましてくれた。頭では理解できても、過酷な現実に気持ちが追い付かない。それでも、必死に前を向いた。
明美さんは1日2時間しか寝なかった。細川さんは肉体的にも、精神的にも、毎日が限界だった。頼るのは御本尊しかない。次女を抱き、祈り続けた。その中で、何度も「大阪婦人部の日」記念勤行会のことを思い返した。
あの日、先生は「きょうは小学生が来ているの?」と親しみを込めて場内に語り掛けた。細川さんは、"誰のことだろう"と思った。ほかの誰でもない、自分のことだった。
先生と名前や出身校のやり取りもあった。参加者一人一人に視線を注ぎ、励ましを送る師の真心に、細川さんは"もっと強く、もっと大きな境涯の女性に"と誓った。だからこそ、"洋美と明美を守り抜く母に"と決めた。
明美さんが生まれてから数年間、細川さんの心は揺れに揺れた。そこから、家族と同志に支えられながら、少しずつ少しずつ、強く、明るく、朗らかな母へと人間革命を遂げていった。
母の慈愛に包まれて、2人の娘は成長した。洋美さんは今、池田華陽会の総県副委員長(常勝大阪総県)として、幸の連帯を広げる。
明美さんは、養護学校3年生の時の胃ろうの手術、10年前の気管切開、昨年の腸閉塞の手術など、幾つもの危機を乗り越えてきた。精いっぱい命を輝かせる姿は、生きることの尊さを、縁する人に伝えている。
「生命力」さえ強くあれば、どんな苦難も、「遊楽」に転じていける——明美さんと苦楽を共にしてきた、細川さんの確信である。
◇中部女性部の真心
春の陽光が、中部の大地を照らしていた。2000年3月1日、池田先生は名古屋駅に降り立った。
翌2日、先生は「3・16」を記念する「中部・北陸代表者協議会」に出席した。
この時、中部池田記念会館の建設が発表された。さらに、「中部国際婦人会館」が「中部国際女性会館」に改称されることが決定した。
先生は、中部広布の伸展を喜び、「愛知、三重、そして岐阜——『21世紀の人材の城』偉大なる中部は、いよいよ盤石なり! と私は心から、たたえたい」と述べた。
続いて、宗教学者のニコラス・ガイヤ博士が中部文化会館(当時)を訪問した折、愛知女性部の仲良合唱団との交流に感動したことに触れると、中部女性部の友に訴えた。
「ますます朗らかに、また、にぎやかに、人間と人間を結び合い、心と心を通わせながら、わが地域に、わが使命の舞台に、『喜びのハーモニー』を、『幸福の曲』を、そして『勝利の歌』を広げていっていただきたい」
最後に、「わが中部は、永遠に、『世界広布の難攻不落の堅塁』を、断固として築きましょう!」と呼び掛け、スピーチを結んだ。
会場の外のロビーに、ひな人形が飾られていた。前月、先生は沖縄、香港、大阪、兵庫を訪問。21世紀へ向け、激闘に次ぐ激闘を重ねていた。人形は、"少しでも心なごむひとときを、お過ごしいただきたい"との心で、中部女性部の友が用意したものだった。
「いいね。うれしいね」
先生は、中部女性部の真心に深く感謝し、皆の勝利を願いながら、ひな人形の前で、香峯子夫人と共に記念のカメラに納まった。
その後、この人形は毎年、中部国際女性会館で展示されてきた。同会館は、17年に「中部文化センター」として、リニューアルオープン。平和と文化を発信する拠点として、多くの同志が集い、親しまれている。
◇"厳冬の大地"を踏みしめて
行きつけの美容室で、ひな人形が飾ってあるのを見たのは、東日本大震災から3年が経った時のこと。
"私はまだ飾れないな"。加藤幸子さんは震災で、娘の綾子さんと義母のよし子さんを亡くした。
震災前から、石巻市の自宅を広布の会場として提供してきた。2010年9月にリフォームし、装いを新しくした。その法城を津波が襲った。
石巻から離れることも考えた。しかし、離れざるを得なくなった人たちから、「加藤さんと一緒に頑張りたい。必ず戻ってくるから」と声を掛けられた。石巻に残ることに決めた。
加藤さんは悲しみに浸る間もなく、避難生活を送る人たちの支援に奔走した。震災から5カ月後の11年8月、夫の仁久さんと市内のホールで音楽会を開いた。
きっかけは、池田先生の鼎談「魂の人間讃歌——ジャズと人生と仏法を語る」に触れたこと。そこに「セカンド・ライン」という、にぎやかなジャズ演奏をもって、亡くなった方の死後の幸福を祝福する風習が記されていた。
長男の久志さんも演奏の舞台に立った。石巻市民交響楽団も参加しての音楽会は、生きる勇気にあふれた。
震災後、加藤さんは創価大学の通信教育部に入学した。綾子さんが通教の教育学部で学んでいた。加藤さんは小学校の教員だったが、法学部を選んだ。災害時、法律がいかに大切かを身に染みて感じたからだ。
法律用語に悪戦苦闘しながら学び続けた。入学から11年。今月、卒業の決定通知が届いた。卒業式を、胸の中の綾子さんと心待ちにしている。
娘と義母を失ってから、多くの人との出会い、励ましがあった。不条理な災害で家族を奪われる悲しさ——その凍てつく厳冬の大地を、ぐっと踏みしめながら、一歩また一歩と進んできた。
ある日、加藤さんは立ち寄った店で見掛けたひな人形を購入する。男びなと女びなの2体だけのもの。愛らしくて、とても気に入った。「この人形を見ていると、綾子との楽しい思い出がよみがえってくるんです」
美容室でひな人形を見た日も、綾子さんのことを思い返した。あの時は、胸が痛んだ。
買った2体の人形は仏間に飾った。人形が納められた箱に、ぜんまいがある。回すと、オルゴールの美しい音色で、「うれしいひなまつり」が流れた。
そばに置いてある綾子さんの成人式の写真。晴れ着姿の一葉は、優しく、温かくほほ笑んでいた。