◇今週のことば
「ほむれば
いよいよ功徳まさる」
若人の尊き挑戦を讃え
人材と福運の花を満開に。
共に地涌の大生命力を!
新1713・全1242
2022年3月7日
崇峻天皇御書 P1171
『すぐろくの石は二つ並びぬればかけられず車の輪は二あれば道にかたぶかず、敵も二人ある者をばいぶせがり候ぞ、いかにとがありとも弟ども且くも身をはなち給うな、殿は一定腹あしき相かをに顕れたり、いかに大事と思へども腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ』
【通解】
すごろくの石は二つ並んでいなければならないし、また車の輪は二つあれば道でかたむかない。このように敵も二人結束している者に対しては攻撃をためらうものである。このようなわけであるから、どのような過失があなたの弟達にあったとしても、少しの間であっても側からはなさないようにしなさい。
あなたは確かに怒りっぽい相が顔にあれわれている。どんなに大事と思っても、短気な者を諸天は守らないということをしりなさい。
名字の言 海洋冒険家・堀江謙一氏の世界最高齢の挑戦 2022年3月7日
83歳の海洋冒険家・堀江謙一氏が今月末、小型ヨットでの単独無寄港太平洋横断に出航する。世界最高齢での挑戦になる。「若い人が夢を実現するために、少しでも役に立てばうれしい」と語っていた▼ヨットは無風では進まない。人生も同じだろう。氏が初めて太平洋横断に成功した60年前の航海日誌にこうある。「風よ、もっと力強く吹いてくれ」(6月1日)、「吹け。吹いてくれ。おれは凪ぎが大きらいだぞ」(7月19日)。過去の偉業に安住するのではなく、常に挑戦を続ける氏の生き方と重なる▼広島の壮年部員が営む土木建築会社は順風満帆だった。しかし、2018年の西日本豪雨で会社が被災。ぼうこうがん、肺結核も患った。さらに最愛の母の死も重なった▼それでも壮年は"「心の財第一」の御文を身で拝せる時!"と信心から一歩も引かなかった。病状も安定し、経営も好転。その姿に娘が学会活動に参加するように。信心根本に勉学に励んだ娘は先日、難関の行政書士の試験に合格した▼御書に「生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんば、かなうべからず」(新1721・全1448)と。逆巻く人生行路にあって、試練の烈風を勝利への推進力に変えるのが信心である。
寸鉄 2022年3月7日
師弟の誓い漲る"青年幹"「立正安世界」へ若人の熱と力と連帯で!使命は大
「法華の題目は獅子の吼うるがごとく」御書。日々一念定めた唱題で前進!(新1064・全764)
火災予防は油断の火種絶つ事から。火の元の総点検を。きょう消防記念日
若者の間でマルチ商法等の勧誘問題が増加。安易な儲け話は注意。冷静に
創価の思想は社会に調和をもたらす—識者。万人の尊厳説く仏法の大光を
〈社説〉2022・3・7 3月8日は「芸術部の日」
◇文化の振興こそ平和の大道
長引くコロナ禍の影響を受けている分野は数多くあるが、文化・芸術もその一つだ。
文化庁が昨年に発表した「文化に関する世論調査」では、コンサートや映画、文化・芸術イベントを直接鑑賞した人の割合は41・8%で、コロナ前の67・3%から大幅に低下。鑑賞しなかった理由として56・8%がコロナ禍による中止や、外出を控えたためと答えた。
さらに、この調査では、「楽しみ」「幸せ」が「減った」と回答した人はそれぞれ68・9%、51・5%に上った。文化・芸術が私たちの生活を潤す上でいかに重要であるかを示しているといえよう。
3月8日は「芸術部の日」。未曽有の苦境にあっても奮闘する芸術部員に心からエールを送りたい。
日本舞踊家として活躍する群馬の友は、一昨年2月からコロナ禍で公演が行えず、やりきれない日々が続いた。しかし、学会の同志や舞踊の仲間と語り合う中、「何のために踊ってきたのか」を見つめ、"踊りを通して日本の伝統文化を継承したい"との原点に立ち返ることができたという。そして"堂々と舞うことが信心の実証"と心を定めて稽古を再開。秋に予定される舞台に向けて、仲間と共に精進を重ねている。
ピアノ奏者として障がい者施設等を訪問する福岡の友は、感染対策を徹底しながら演奏会を続けてきた。いずこにも、不安を抱える人の姿があった。演奏を通して何ができるのかと自身に問い、祈る中で"音で寄り添いたい"との思いが強くなった。「聴く人の心に希望の灯をともすことが使命」ときょうもピアノに向かう。
池田先生は若き日、戦後の混乱期の中で、名曲を聴くことで心を慰めた。ベートーベンの交響曲を流すと「貧しいアパートの一室が、その時、絢爛たる芸術の王宮に変わった」とつづっている。
文化・芸術には、不安や苦悩に沈む心を鼓舞する力がある。前へと一歩踏み出せるよう背中を押してくれる力がある。
先生は、「芸術は人間性の花である」「文化を大切にすることは、平和へと通じる。一人一人の生命を耕し、幸福の花園を広げていく」と。
混沌とした時代だからこそ、素晴らしい芸術に触れて生命を耕していきたい。そして、文化の担い手に感謝し、大切にしながら、平和を築く大道を歩んでいきたい。
☆2月度「御書講義」(下) 一生成仏抄
◆自他共の幸福へ 胸中に仏界の太陽を
◇御文
『文理真正の経王なれば、文字即実相なり、実相即妙法なり。ただ詮ずるところは、一心法界の旨を説き顕すを妙法と名づく。故に、この経を「諸仏の智慧」とは云うなり。一心法界の旨とは、十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土、いずれも除かずちりも残らず一念の心に収めて、この一念の心、法界に遍満するを指して、万法とは云うなり。この理を覚知するを、一心法界とも云うなるべし。』(御書新版316ページ4行目〜7行目、御書全集383ページ3行目〜6行目)
◇一心法界の法理
この段は、一生成仏の原理の裏付けとして、一念三千の原理を通して説明されている箇所です。
まず、法華経は「文理真正」(経文も、その経文が表そうとしている内実の真理も共に真実で正しい)という点において、諸経中の王であると述べられています。いわば、文証も理証も、はるかに優れている経典だということです。
学会員は、ここにさらに「実証」を付けると思います。法華経の実証は、創価学会の実践に尽きるといっても過言ではありません。
続いて、「ただ詮ずるところは、一心法界の旨を説き顕すを妙法と名づく」と仰せです。
ここは、一心法界の法理を説き表している教えを「妙法」ということが示されています。
以下、諸仏の智慧である「一心法界の旨」を詳しく説明されていきます。
すなわち、誰もが自身の胸中に偉大なる仏の生命を現せることを説き明かした原理が「一心法界の旨」です。
この「一心法界」には、"一念の心に法界が収まり具わっていること"と、"この一念の心が法界に遍満していくこと"との両面があります。この具足と遍満の両面は、まさに、三千諸法が一念に収まり、一念から三千に遍満するという「具遍」の原理を示しています。
そして、大聖人は「この理を覚知するを、一心法界とも云うなるべし」と結論されています。大事なことは、私たち自身も、また誰人も、本来、この一心法界の原理を覚知することができるということです。
まさに「心こそ大切」です。全ては私たちの一念から出発します。
私たちが妙法の当体である——それは、一つの真理です。しかし、私たちが信心を発すことによって、私たち自身が妙法の当体として輝いていく、現実に価値創造していくのが、仏法の精神です。
◇御文
『ただし、妙法蓮華経と唱え持つというとも、もし己心の外に法ありと思わば、全く妙法にあらず、糞法なり。糞法は今経にあらず。今経にあらざれば、方便なり、権門なり。方便・権門の教えならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に、一生成仏叶いがたし。』(御書新版316ページ8行目〜11行目、御書全集383ページ6行目〜8行目)
◇内在する尊厳性
ここからは、私たちが実践するに当たって、一番、心掛けなければならないことを教えられています。
すなわち、ここまで述べてきた「一心法界」、一念三千の法理の結論として、"妙法蓮華経は自分自身のことである"という一点を絶対に忘れてはいけないことを強調されています。
反対に、この一点を忘れてしまえば、いかに題目を唱えても日蓮仏法の唱題行とは、かけ離れたものになってしまいます。
本抄では、今回の御文の後に、重ねて「すべて一代八万の聖教、三世十方の諸の仏菩薩も、我が心の外に有りとはゆめゆめ思うべからず」(新317・全383)と仰せです。
いわば、「法」といっても、「仏菩薩」といっても、自身に内在していることを忘れてはならないということです。どこまでも、自身の内なる尊厳性に目覚めていくことが、一生成仏の修行の肝心となるのです。
一切は、自分自身の変革から始まります。
反対に言えば、いわゆる「おすがり信仰」は、日蓮大聖人の仏法にはないということです。
よく私たちは、「一切を御本尊にお任せする」という言い方をします。しかし、学会指導の本質は、全て成すべきことを成し遂げる。あらゆる努力や挑戦を尽くす。病気であれば、医学を最大限に利用する。
そのうえで、一切を任せるという考え方です。自分自身を生かすための、究極の自力と他力です。
自力だけということも、他力だけということもありません。だからこそ、最も深い信仰実践だと思います。
◇御文
『故に、妙法と唱え蓮華と読まん時は、我が一念を指して妙法蓮華経と名づくるぞと深く信心を発すべきなり。』(御書新版316ページ11行目〜12行目、御書全集383ページ8行目〜9行目)
◇一念の変革から
ここは、自身の可能性への目覚めが説かれている箇所です。
南無妙法蓮華経の唱題には、無量無辺の功力があります。その力を出すのは、どこまでも自身の一念の変革から始まります。
日蓮大聖人の仏法の究極は、「我が身即日蓮大聖人」、「我が身即御本尊」です。
池田先生は、次のようにも指導されています。
「南無妙法蓮華経と唱えれば、胸中に仏界の太陽が昇ります。厚い雲のように太陽を覆い隠していた無明が晴れていくのです。胸中に仏界の太陽が昇れば、無明の闇は去っていきます。
日蓮仏法は、大聖人御一人が太陽であるという宗教ではありません。大聖人御自身が胸中に太陽を昇らせたように、私たちの胸中に太陽を昇らせるための宗教です」
日々の勤行・唱題という、一生成仏の信心によって、胸中に太陽を昇らせながら、私たちは自他共の幸福の実現を目指していきたい。そのためにも、広宣流布を前進させゆく対話の実践に、力強く走り抜いていきたいと思います。