「継続」が大事だ。
友のため 広布のため
地道な実践を重ねる中で
自らの境涯も開かれる。
焦らず たゆまず 前進!
乙御前御消息 P1221
『抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし、況や日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや、何に況や一閻浮提四天下の人の眼のしゐたるをあけて候はんをや、法華経の第四に云く「仏滅度の後に能く其の義を解せんは是諸の天人世間之眼なり」等云云、法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて候、日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をくじる人なり』
【通解】
そもそも一人の盲目を開ける功徳でさえ言葉に表せないほどである。まして日本国の一切の人々の眼を開ける功徳にいたっては言うまでもない。さらにそれ以上に、全世界の人々の見えない眼を開ける功徳は、とうてい、言い尽くせない。法華経の第四の巻(宝塔品)には、「仏の滅後に、よく法華経の義を解する者は、諸の天人世間の眼である」等とある。法華経(御本尊)を持つ人は一切世間の天界と人界の衆生の「眼」であると説かれている。日本国の人々が日蓮をあだむのは、一切世間の天と人の眼をえぐりとる人なのである。
名字の言 欧州の同志から届いた東北へのメッセージ 2021年2月28日
喜寿(77歳)を迎えた婦人部員に、離れて暮らす孫から手編みのマフラーが届いた。お礼の電話で「誕生日、よく覚えていたね」と言うと、「おばあちゃんのこと、忘れたことないから」と孫。婦人の目が潤んだ▼"あなたのことを忘れていません"——同じように「心の距離」を近く感じる出来事が、先日もあった。今月13日、東北地方で大きな地震が発生した。すぐさま、欧州の同志からお見舞いと激励の言葉が届いた▼というのも3年前、来日した欧州21カ国の同志が東北を訪れた際、共に地域名が「オウシュウ」であることにちなみ、「OSHU2(欧州×奥州)青年友好総会」を開催。今日までさまざまな形で交流を温めてきたからだ▼今回のメッセージにも"久遠の同志として、私たちの心は東北にあります"という言葉があった。たとえ、一期一会であっても、その出会いをどう捉えるかによって、人生の豊かさは変わってくる▼池田先生はつづる。「『忘れない』ということは、何と妙なるいのちの力でしょうか。(中略)苦楽を分かち合う友がいれば、絶対に負けないという希望を忘れない」と。君が憂いに我は泣き、我が喜びに君は舞う。それが創価の世界である。人ごとを自分ごとにする。それが信心である。(代)
寸鉄 2021年2月28日
「蓮華と申す花は菓と花と同時なり」御書。さあ今を挑戦!これ明日開く力
一人を大切にする心がある限り学会は盤石だよ—恩師。真心の声を今日も
青年部と医学者の会議に反響。誰も孤立させぬ!誓願の青春こそ社会の光
季節の変わり目。寒暖差に留意し重ね着等賢く。強き祈りで健康勝ち取れ
あおり運転の検挙、証拠9割が車載映像と。導入は積極的に。己守るため
〈社説〉2021・2・28 明日から「未来部希望月間」
◇努力の足跡を最大にたたえよう
この1年、新型コロナウイルスの影響を受け、臨時休校や学校行事の中止・縮小など、予想だにしない変化が続いた。いくつもの試練を耐えに耐え、この春、卒業・進級を迎える未来部員の心中を思うと胸が痛む。
中学・高校でいえば、入学後も友達と直接触れ合う機会が少なかった1年生。部活動の練習の時間・場所が限定され、大会の中止や延期を余儀なくされた2年生。最終学年として思い描いていた学校生活を送れなかった3年生。個々においては、一人一人、言葉にできない感情や心境があるだろう。
一方で、丁寧に自分自身を振り返ってみると、厳しい状況下だからこそ、実は、地道な努力や創意工夫に挑戦できたこともあったはずだ。
新潟県のある高等部員は、所属するソフトテニス部の練習が減ってしまった。もどかしさを感じながらも自身で唱題に挑み、所属チームでZoom(ビデオ通話アプリ)を使ってのトレーニングやミーティングを重ねていった。地道な努力は実を結び、県大会出場が目標だったところを、北信越大会への出場を果たすという大躍進を遂げた。その陰には、ビデオ通話を使って幾度も語り合ってくれた未来部担当者の存在があったという。高等部員はこの1年間を振り返り、「担当者の励ましのおかげでくじけそうな時も自信を失わず、前向きになれた」と語る。
目まぐるしく状況が変わる中で、自分で自覚していなくても、人知れず、努力を積み重ねているものだ。それは目に見える形や結果にはならないかもしれない。だからこそ、関わる人がじっくりと耳を傾け、見つめ直す機会をつくってあげることが大切だろう。
「オートクライン」効果と呼ばれるコーチングの用語がある。他人に自分の考えを話すことで、その言葉を自ら聞き、"自分はこんなことを考えていたのか"と、考えが整理されるというものだ。人に自ら話し、聞いてもらうことは、自身の成長とつながっているのである。
したがって、話を聞く際には、心情を引き出す「問い掛け」も重要だ。未来部員が何を感じ、どう頑張ってきたのか。記憶の底に沈む"努力の足跡"を一緒に拾い上げ、最大にたたえることで、自信と希望を持たせていきたい。
池田先生はつづられている。「何でも話を聞いてくれる、親身に相談にのってくれる、一緒に真剣に祈ってくれる——その真心の励ましこそ、未来部の成長の力だ」(『勝利の人間学』)
明日から未来部希望月間。一人一人の心の声に耳を澄まし、たたえ励ましながら、一歩を踏み出せる月間にしたい。
☆ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史 第5回 ブラジルに燃える求道の炎 栄光編
◇ムイト・マイス・ダイモク(もっと題目を)
恩師・戸田城聖先生の生誕93周年となる1993年2月11日、ブラジルのリオデジャネイロ連邦大学から、池田大作先生に「名誉博士号」が授与された。
これが、ブラジルの大学・学術機関からの第1号となる名誉学術称号である。
授与式の席上、池田先生は「本日の栄誉を、この大切なブラジルの友と分かち合わせていただきたい」と述べ、「わが恩師に捧げたい」と戸田先生への尽きせぬ感謝を語った。
この日、連載開始から28星霜を重ねて、恩師の生涯をつづった小説『人間革命』全12巻が完結。その最後に、先生は「わが恩師 戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 池田大作」と記した。
リオ連邦大学からの栄誉とともに、『人間革命』の完結は、池田先生が戸田先生に捧げるもう一つの"栄冠"であった。
これまで、ブラジルの大学・学術機関から、池田先生に授与された「知性の宝冠」は29に上る。昨年の11月17日には、ピアウイ連邦大学から「名誉博士号」が贈られている。
また、クリチバ市の「牧口常三郎公園」、イタペビ市の「戸田城聖先生橋」、ロンドリーナ市の「池田大作博士環境公園」など、創価の三代会長の名を冠した公園・橋・通りなどはブラジル国内で40を超える。
ブラジルSGI(創価学会インタナショナル)の平和・文化・教育・環境への貢献に対して、各界から寄せられる信頼と共感。この栄光の時代が開かれたのは、師の励ましと、師の心をわが心とする幾多の友の激闘があったからである。
1974年3月、池田先生はブラジルを訪問する予定だった。しかし、ビザが発給されず、入国できなかった。当時、ブラジルは軍事政権下で、学会に対する誤解が渦巻いていた。
先生は当初の予定を変更し、パナマへ。諸行事を終えた後、ペルーを訪問。そこに、2人のブラジルの婦人部員が駆け付けた。シルビア・サイトウさん(故人)とエレーナ・タグチさんである。
先生は2人に「時代を変えていくんだよ。婦人部の祈りだよ」と励ましを。師の言葉にシルビアさん、エレーナさんは固く誓った。
「ブラジルの国土を変革するような題目をあげ抜こう!」
「"ムイト・マイス・ダイモク(もっと題目を)"が合言葉だ!」
宿命の嵐が強ければ強いほど、広布を阻む障魔が激しければ激しいほど、「ムイト・マイス・ダイモク」。一切を変毒為薬する強盛な祈りから、ブラジルの友は戦いを開始した。
シルビア・サイトウさんは京都出身。小学4年生の頃から、ぜんそくの発作に苦しんだ。"娘の病が治るなら"と母が入会し、シルビアさんも続く。1955年のことである。
入会後、ぜんそくの症状が快方に向かう。その喜びを語り、入会6年で50世帯を超す弘教を実らせた。
56年(昭和31年)の「大阪の戦い」にも、シルビアさんは勇んで駆けた。旧関西本部での池田先生の早朝の御書講義に、京都から通い続けた。激闘の中で、シルビアさんは先生から、開目抄の一節を教わる。
「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234ページ)
先生は「この御文だけは、生涯、忘れてはいけないよ」と。
翌57年7月、池田先生が無実の罪で大阪拘置所に勾留された時には、同志と共に連日、差し入れを届けた。「常勝・不敗の原点」は、シルビアさんの信心の土台となった。
結婚後、東京・目黒で広布拡大に挑み、65年にブラジルへ。軍事政権下のブラジルでは、創価学会に対する意図的な中傷が繰り返された。その苦難を耐え抜く根幹に、シルビアさんは先の開目抄の一節を据え、青年・未来部のメンバーにも、御文の意味を語り続けた。
いかなる大難が競い起ころうとも、師との約束は絶対に果たす——常勝関西の地で、池田先生から学んだ「師弟」という仏法の魂を、シルビアさんはブラジルの大地に根付かせていった。
エレーナ・タグチさんが渡伯したのは71年末のこと。その年の2月、夫のエドワルドさんがブラジルに単身赴任していた。
東京・荒川で育ったエドワルドさん。ブラジル広布に燃え、開拓に挑んだが、言葉や生活習慣の違いに苦しめられた。さらに風土病を患い、9月に療養のため一時帰国する。
込み上げる悔しさとふがいなさ。その思いを御本尊にぶつけ、今度は家族でブラジルに渡り、同志に尽くす覚悟を定めた。
夫の決意に、エレーナさんも心を合わせた。ブラジルに出発する12月、池田先生はタグチさん一家に「何があっても10年頑張れ」とエールを送った。
84年2月、先生は18年ぶりにブラジルを訪問。その折、エレーナさんは、シルビアさんの後を受け、第2代のブラジル婦人部長の任命を受けた。
「清く、明るく、仲良く」との師の指針を胸に奮闘。全地区幹部に激励の手紙を書いた。2000キロ離れた友のもとを訪れ、師弟共戦を誓い合った。婦人部長を務めた10年で、10倍のブラジル婦人部の陣列を築いた。
エドワルドさんは93年10月、ブラジルSGIの理事長に。3年後の96年3月には、世界で初めて初代会長の名を冠した「牧口常三郎先生通り」が、イタペビ市に開通した。
2001年7月22日、イタペビ市から池田先生ご夫妻に「名誉市民」称号が授与された。
市長は「これは、わが市の立法府と行政府の総意であり、市民の総意です。誉れある『名誉市民』として、池田会長ご夫妻をお迎えいたします!」と高らかに宣言した。
この日、先生は一編の長編詩を詠んだ。タイトルは「世界の王者たれ! ブラジル」である。
今日は
昨日より進んだ日であれ!
明日もまた
今日より進む歩みであれ!
一番苦しんでいる人の
味方になって戦う
勇敢なる人間主義者であれ!
行動だ!
「今」という
現在に生ききることだ。
現在のこの瞬間にこそ
永遠が脈動しているからだ。
足跡を残すことだ!
自分自身の常勝の歴史を
刻みゆくことだ!
今の刻苦は
即 未来の栄光なり。
君が歩んだ分だけ
新世紀の道が拓かれるのだ。
さらに、先生は長編詩で、「さあ/二〇一〇年の/ブラジル広布五十周年へ/共々に/比類なき団結で/朗らかに勝ち進もう!」と呼び掛けた。
その2010年、師の期待に応えようと、ブラジルSGIは大きな目標を掲げた。「7割以上の世帯が座談会に参加する」など、4項目を達成するブロックを「王者ブロック」とし、それぞれのブロックが「王者ブロック」を目指して、戦いを開始したのである。
ある婦人が担当したブロックでは、訪問・激励を重ね、あと一人が座談会に参加すれば「王者ブロック」に。その一人の家は、アマゾン川の支流を船で7時間さかのぼり、そこから歩いて数時間かかる場所にあった。
婦人の家庭は、夫の仕事が行き詰まり、経済的な苦境にあった。その中で生活費を工面し、船賃を支出。船に自転車を乗せて、友のもとへ向かった。彼女の広布への熱い思いに触れ、メンバーは座談会に参加し、機関紙も購読。婦人の戦いに呼応するように、夫の仕事も好転した。
「王者ブロック」への挑戦は、こうした功徳の体験を次々と生んだ。学会活動の目標を達成する歓喜の連鎖を広げた。
池田先生は若き日、「二月闘争」で「組(現在のブロック)」に焦点を当て、「一人」を大切にした。ブラジルの友も、全てのリーダーがブロックに入り、友の励ましに徹した。
同年11月に行われた「世界の王者ブラジル総会」。全ブロックが目標を完遂し、「王者ブロック」となった。
「信心の王者」とは——
自らが立てた師匠との約束を忘れず、必ず果たす人。
試練の烈風が猛るほど、「もっと題目を」唱え、力強く前へ前へと進む人。
ブラジルSGIの歩みは、そのことを私たちに教えてくれている。
【引用・参考文献】池田大作著『新・人間革命』第11巻、『池田大作全集』第47巻、『民衆こそ王者——池田大作とその時代』第7巻(潮出版社)、渡辺雅子著『ブラジル日系新宗教の展開』(現代社会学叢書)
【アナザーストーリー】
1964年に始まったブラジルの軍事政権は、創価学会の動向に関して、警戒を強めた。
偏見や誤解の目が向けられる中で、ブラジルの友は良き市民として社会に貢献し、地域に信頼の輪を広げていった。
ブラジルで生まれたカルロス・ウノさん(故人)は、65年5月に創刊された、ブラジルの機関紙の編集に携わった。
同年8月、夏季講習会に参加するため来日。しかし、日本語が分からず、御書の拝読もできなかった。
悔しさに身を震わせていたカルロスさんに、池田先生は声を掛けた。率直な思いを伝えると、先生は力強く語った。
「負けてはいけない! 君はブラジル広布の開拓者じゃないか」。そして、「立派に成長してください。待っているよ」と。
わずか数分の出会いだった。だが、この魂の触発は、カルロスさんを飛躍させる原点となった。
帰国後、カルロスさんは日本語の勉強に全力を注いだ。御書を何度も拝読し、日本語の学会の出版物を読み込んだ。
短期間で日本語の力を磨き、66年3月の池田先生のブラジル訪問では通訳を務めた。
この時、先生の行動を監視する政治警察の姿がいたるところにあった。思わず感情的になるカルロスさんに、先生は語った。
「今は、耐えることが大事だよ。10年後、20年後に勝てばいいじゃないか」
74年3月、入国ビザが発給されず、先生はブラジル訪問を断念。多くの友と同様、カルロスさんも悔しさを広布前進の力に変え、ブラジルを奔走した。
耐えに耐えた10年後の84年2月、先生の訪伯が実現。ブラジルの友の激闘は今、創価の三代会長への数々の顕彰となって、栄光の輝きを放っている。