2021年2月25日木曜日

2021.02.25 わが友に贈る

医療従事者をはじめ
命を守り支える方々の
尊き献身に心から感謝。
どうかお体を大切に。
健康と安全を祈ります。

南条殿御返事 P1542
『今のむぎは法華経のもんじなり、又は女人の御ためにはかがみとなり身のかざりとなるべし、男のためにはよろひとなりかぶととなるべし』

【通解】
今の麦は法華経の文字である。または、女性のためには鏡となり、身の装飾となるであろう。男性のためには鎧となり兜となるであろう。

名字の言 不変の目的のために、変わり続ける 2021年2月25日
本紙配達員を務める、ある婦人部員は、担当地域の配達ルートを記した手作りの地図を、毎月、何種類も準備する。"雨の日のこの道は、渋滞して時間がかかる"など、これまでの経験を生かし、道順を天気や季節によって変えるという▼「戸田先生が願われ、池田先生が実現された『聖教新聞を日本中、世界中の人に読ませたい』という精神を、自分なりに継承したくて……」。いわば"変わらない"師の心を届けるために、婦人は"変わり続ける"行動を貫いてきた▼「伝統の2月」——伝統とは、過去から現在、そして未来へと「不変の目的」を受け継ぐことで築かれる。そのためには時代に即して柔軟、かつ的確に変化し続けることが求められる。仏法では本義に違わない限り、地域の習慣や時代の風習などを尊重する「随方随時毘尼」の法理を教えている▼池田先生は語る。「もっとも根源の真理を説いたがゆえに、もっとも自在に価値を創造していける——それが日蓮大聖人の仏法なのである。そして、もっとも根本の道理を示したがゆえに、だれ人にも納得のできる実践をしていける」と▼広宣流布という我らの目的は永遠に不変である。その目的の実現のために、変化する時代に即して価値創造に挑戦する。それが「創価」である。(白)

寸鉄 2021年2月25日
「我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜」御書。今日も朗々たる唱題から
新しい息吹を入れる事が組織繁栄の道—戸田先生後輩を自分以上の人材に
男子部大学校生が各地で船出。さあ決意即挑戦!先輩も共に動き大成長を
G7首脳が世界への普及で一致。感染との闘いを国際協調強化の転換点に
変化が激しい時故に地域密着の公明に期待—識者声を形に。実績で応えよ

〈社説〉 2021・2・25 北海道「雪の文化祭」から50年
◇"試練の冬"越え春爛漫の境涯へ
新型コロナウイルスの影響で、冬のイベントが中止となる中、毎年恒例の「さっぽろ雪まつり」は初のオンラインでの開催となった。SNS上では「雪フォトまつり」として、札幌の雪をテーマに市民が写真を投稿している。ある意味で、皆で作り上げた"新たな雪まつり"の形ともいえよう。
今から50年前にも、庶民の手で作られた雪と氷の祭典があった。1971年2月25日からの4日間、札幌市内の中島公園と、スキー場のテイネオリンピア(当時)の2会場で創価学会主催の「'71北海道 雪の文化祭」が開催された。
しかし、当初、この計画は無謀だといわれた。開催予定の2月末は、気温が少しずつ上がり、雪が緩み始める。"雪まつり"の関係者は「雪像を作るのは無理じゃないでしょうか」と忠告。さらに、作業をするのは経験や技術もない素人ばかり。雪の運搬、雪像や氷像のデザイン・制作、スケートリンクの造設……。"不可能"と思われる課題が山積していた。
当時、北海道女子部長として運営に携わった友は述懐する。「全てが手探り。でも、"できない"と思っている人はいなかった。誰もが"信心で必ず打開できる"と、瞳を輝かせていました」
そして、わずか25日足らずで"不可能を可能"に。素晴らしい雪像や氷像、青年部によるスケートとスキーの演技、音楽隊・鼓笛隊の演奏等、全てが努力の結晶として光った。参加人員、約3万人。雪の運搬に使われた車両は約1万台。観覧者は25万人を超えた。庶民の手で、新しき民衆文化の潮流を起こしたのだ。
池田先生は連日、出演者や役員の激励に会場へ。そして、取材に来ていた全国紙などの記者たちに語った。「これは、芸術家が造ったものじゃないんです。全部、働いている人間が一日の仕事を終え、それから集まって、造ったものです。だから、庶民の文化なんです」
当時、女子部員としてスキーのマスゲームに出場した友は、数年前に腸結核に侵され、大腸を半分切除していた。毎日、職場にスキーを持って通い、終業後にバスで練習会場へ。極寒の夜空の下、山を登っては滑っての繰り返し。"病を克服した姿を先生にご報告したい"と、体力の限界に挑んだ。当日、師の前で勝利の滑走を披露すると、冬の太陽を囲むように七色の環が輝いた。
池田先生は「法華経の信心は、いわば"冬の信心"である」「厳しい宿命転換の戦いがあって初めて"春"を到来させ、福運を築くことができる。ゆえに試練の冬を避けてはならない」と。私たちも、いかなる試練も、悠々と見下ろす「春爛漫の大境涯」で勝ち越えていきたい。

☆人間主義の哲学の視座 第6回 対談集『20世紀の精神の教訓』に学ぶ�
テーマ:連帯
【池田先生】
透徹した自己洞察を実践する中で
生命の尊厳性と普遍性を自覚する

【ゴルバチョフ元大統領】
民族的価値から全人類的価値へ——
歴史と文化に"世界的な心"を学ぶ

◇人類に共通する利益
先月22日、核兵器の開発や保有、使用をはじめとした一切の活動を違法化する「核兵器禁止条約」が発効した。 自国第一主義や利己主義が台頭し、格差や分断が深まる時勢にあって、「核兵器廃絶」という、国益を超越した人類共通の願いによって、国際社会の連帯を促す意義は大きい。
ゴルバチョフ氏がソ連共産党の書記長に就任したのは、1985年。氏が推進した「ペレストロイカ」と呼ばれる政治改革は、核開発競争をもたらした冷戦を終結させ、全人類の利益を追求する挑戦につながった。
昨年に出版された回顧録の中で、氏はつづっている。
「核の世紀はもはや、世界の分断を前提とすることはできない」「世界は相互に関係し、相互に依存している。国家の、階級の、団体の利益のほかに、すべての人々に共通する利益が存在している」(『ミハイル・ゴルバチョフ 変わりゆく世界の中で』副島英樹訳、朝日新聞出版)
全人類的価値を、いかに追求していくのか——これは、氏と池田先生が語り合ったテーマであり、コロナ禍を生きる私たちの課題でもある。

ゴルバチョフ ペレストロイカを始めた当時、私たちの間で、熱心に討論したテーマがありました。万人に共通の価値を何に求めるべきか、ということでした。
もし、共通の"道徳"がないとすると、共通の価値体系もないということになる。それは、とりもなおさず対話の可能性を否定し、ひいては共産主義と資本主義の二つの体制は、対立を乗り越えられないことを意味してしまう。
私たちは、「万人が共有すべき根本的価値」があるはずであり、その最重要の価値とは、「人間生命」にほかならない、との結論にいたりました。

池田 「分断された道徳・価値」を捨てて、「万人に共通な根本的価値」という価値の源泉に戻ろうとしたこと、そして、最重要の価値は、「人間生命」であるとの認識に立ったことは、ペレストロイカの本質的な偉大さを示しています。その人類史的な意義は、改革の成否を超えて、決して消えることはないでしょう。

◇抽象化の罠
冷戦終結後の「最大の人類的課題の一つ」として、先生と氏は、民族問題の議論にも1章を割いている。
多民族で構成されていたソ連が解体し、イデオロギーが崩壊する中で、ナショナリズムが高揚し、右翼政党の台頭や移民問題、外国人排斥問題が先鋭化している——。そうした先生の指摘に、氏は、「今日、最も大きな障害となっている問題が、民族中心主義です」と応じる。
そして、その民族中心主義とは「エスノス(民族)的要因を陳腐に絶対化してしまい、すべての問題を軽率に、民族の違い、対立に集約させてしまおうという試み」であるとし、それは、旧ソ連時代に多くの惨事をもたらした"病"であった、と。
だが、やみくもに民族を否定する中に、問題解決の道があるのではない。先生は、人間は根無し草のように生きることはできず、常にアイデンティティー(自分が自分であることの根拠)を求め、民族的な帰属意識をもつのが当然であると論じる。

ゴルバチョフ 「民族」は、家族、国家、宗教、所有などと同様に肯定的価値であると、私は考えます。民族感情は、これまで一度として消えたことはなく、またこれからもおそらく消えることはないとすれば、まさにその理由からです。
私が主眼においているのも、ベルジャーエフ(※ロシアの哲学者=編集部注)の思想の核となっている「民族的帰属感」から「全人類的帰属感」へという考えなのです。

池田 そうした進歩、発展のプロセスを逆行させ、「民族」という言葉が絶対化していく背景には、ガブリエル・マルセル(※フランスの哲学者=同)が「抽象化の精神」と名づけた"魔性"が、強く働いているように思えてなりません。
「民族」という概念が、現実からしだいに離れていって、いわば絶対的な偶像としてまつり上げられてしまうという、人間の古今変わらぬ通弊を、彼はえぐり出しています。そこには、「抽象化の罠」ともいうべき落とし穴が待ちかまえている、と。昨今の民族問題にスポットを当ててみても、この「抽象化の精神」の毒は、相当深く浸透しているようです。

ゴルバチョフ 人々は往々にして、自分が聞きたいことだけを聞くものです。したがって、人間が抽象的概念を絶対視している場合、最も賢明にして、最も正しい言葉は、あたかも壁にぶつかった豆のように、"認識の壁"に跳ね返されてしまいます。
すでに手遅れとなって、初めて、人々は耳をかたむける気になるのが常であるという事実こそが、今世紀の悲劇であるように思います。

◇個別性を足場に
排他的な「民族主義」とは何か——。先生との語らいを通して、氏は"定義するのが容易になりました"と真情を吐露し、改めて、こう概説する。
つまり、それは、まず偽りの自信やエゴイズムとなって現れ、次に民族の排他的優越性を教え、さらに民族的傲慢となる。そして、他者への憎悪を生み出す、と。
そうした民族感情が、人間に不可分の要素として残っている現実を認識した上で、いかに「民族的価値」を「全人類的価値」へと転換していくのか。
先生は、世界・人類という「究極的な一体感」への視点を養う世界市民教育の重要性に言及する。そして、そうした「世界性」「全人類性」への志向を、文学をはじめとするロシアの精神に見ると述べる。
氏は言う。ロシアが誇る"世界的な心"を育んでいくための最も効果的な方法は、自らの民族の文化を認識し、その歴史を知ることである、と。
先生は、自己の歴史を掘り下げた先に見える仏法の「地涌」の法理を通して、人間としての根源のアイデンティティーの探求を訴える。

池田 「地涌」というとき、そこに排他的な宗教性の臭みなどまったくなく、心広々と心豊かに、人を慈しみ人に好かれ、権力にこびず財力になびかず、いかなる困難をも乗り越えていく、慈悲と勇気の理想的人間像を意味しています。畢竟すれば、人類のすべてに内在する、大いなるコスモポリタンとしての"自己"を開きゆくこと——。その道を示したのが仏法の哲理であり、私どもの実践なのです。
透徹した自己洞察の実践をつらぬくとき、おのずから開けてくる自己の生命の「尊厳性」「全体性」「普遍性」の自覚——前にもお話しした「内在的普遍」という私の主張も、こうした「自己知」を説く仏法の哲理に根ざしたものです。

ゴルバチョフ 民族に限らず「個別性」を大切にし、足場にしなければ、いかなる「普遍性」も開かれてこないでしょう。自分の歴史を知れば、そこには否定しようもない普遍性、全人類性があるのです。
ロシア人は人種をも超える人間の普遍性を学びとり、民族をただ血縁や物理的実体とする単純化された低級な民族観を超越していきました。

池田 統合(求心力)と分離(遠心力)のせめぎ合いのなか、全人類の命運を担う自覚とともに、苦悩の選択を重ねてきた貴国の歴史は、20世紀の大いなる「教訓」となるものです。

【編集後記】ゴルバチョフ氏の回顧録には、池田先生との出会いについて言及された箇所も。対談集を発刊した意義に触れ、「異なる文化に属し、異なる教育を経てきた我々二人が、共通の倫理的綱領を見つけたという事実そのものが、多くを物語っている」と述懐する。世界の分断が深まりつつあるコロナ禍の今、この対談集は、全人類の連帯を促す普遍的な価値とは何であるかを学び、実践することの大切さを教えてくれる。