◇今週のことば
「日蓮に共する時は
宝処に至る可し」
御本仏と共に
立正安国・立正安世界へ
幸と平和の仏縁を!
2021年2月14日
聖愚問答抄下 P500
『人の心は水の器にしたがふが如く物の性は月の波に動くに似たり、故に汝当座は信ずといふとも後日は必ず翻へさん魔来り鬼来るとも騒乱する事なかれ』
【通解】
人の心は水の器の形にしたがって変わるようなものであり、物の性質は月影が波に動くのに似ている。ゆえにあなたはしばらくは信ずるといっても、後日になってからかならず心を翻すであろう。しかし魔が来ても鬼が来ても、けっして心を乱してはならない。
名字の言 大分の婦人を支えた池田先生の長編詩 2021年2月14日
かつて、黒澤明監督の映画「生きる」を見た。重い病になった主人公が、残された命の限りを尽くし、一つの事業を成し遂げる物語だ▼今生きている日々の時間は、かけがえのない貴重なもの。頭では分かる。だが、心で感じ、一日一日を大切に過ごしているだろうか。命と時間の貴さについて、深く考えさせられた▼大分市のある婦人は二十数年前、夫を病で失った。泣きじゃくる幼い息子を見て、胸が締め付けられた。不安、孤独に押しつぶされそうになった時、彼女を支えたのは、池田先生が大分の地で発表した長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」だった▼「いかなる苦衷の最中に入っても/希望を失うな!」「私は 君達を信ずる!/君達に期待する!」……。先生の魂のほとばしりともいえる一節一節に触れるたび、負けじ魂が湧き上がった。"息子を立派に育ててみせる""夫の分まで広布に尽くす日々を"。彼女はピアノ教室で生計を立て、息子を創価大学に送った。今、婦人リーダーとして友を励まし、幸を広げる対話の先頭に立つ。「毎日、完全燃焼します!」と▼なぜ「広布の山」に登るのか——。それは命が躍動するから。きょうという一日が、今この瞬間が、最高に輝くから。まぶしい婦人の笑顔がそう伝えてくれた。(実)
寸鉄 2021年2月14日
「一切法皆是仏法」。地域を大切に。爽やかな挨拶、誠実な振舞で友情の絆を
岡山の日。拡大の発火点が同志の誉れ。希望の春呼ぶ勇気の対話を今こそ
青年幹配信、きょうまで。次代担う頼もしき誓い—この渦にわが家の後継も
「人生は航海なり」文豪。信仰の羅針盤を持つ人は波浪に負けぬ。大確信で
大気汚染は感染重症化の遠因と。地球守れば命も守られる。依正不二は光
〈社説〉 2021・2・14 日蓮大聖人御聖誕の日
◇"立正安国の誓い"を新たに
2月16日は、日蓮大聖人の御聖誕800年の大佳節である。私たちはその日を、人類が未曽有の感染症と闘う中で迎える。この危機の時代を生きる今こそ、末法の御本仏・日蓮大聖人の崇高な御生涯を学び、民衆救済への大情熱と、不屈の精神を拝していきたい。
大聖人がお生まれになった、貞応元年(1222年)の前年に、朝廷と鎌倉幕府との間で合戦が勃発(承久の乱)。幕府軍の圧勝により、朝廷の権威は地に落ち、それまでの社会秩序は崩れ去った。災害、疫病、飢饉等も続発した。
"苦悩の民衆を救い切る大法は何か""混迷する社会を照らす宗教とは"——大聖人は、その本質を求めて、一切経を研さんされ、仏法を学び究められた。そして、法華経の肝心たる「南無妙法蓮華経」こそ、万人成仏の根本法であるとの確信から、御年32歳で立宗を宣言し、妙法弘通の御闘争を始められたのだ。
同時に、正法を誹謗する勢力による迫害が競い起こる。なかでも、竜の口の法難では「頸の座」に臨まれ、2年半に及んだ佐渡流罪では、過酷で不自由な環境に置かれ、命の危険にもさらされた。さらに、門下も多くは退転した。
その窮地にあって、大聖人は大難と戦う御境涯を、諸御抄で認められている。
「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」(御書223ページ)、「流人なれども喜悦はかりなし」(同1360ページ)——成仏の境涯、真の幸福とは環境や境遇に決して左右されないことを、御自身の姿をもって示されたのである。
"万人に具わる、尊極な仏界の生命を開くことで、絶対的な幸福境涯を築くことができる"との大確信に、当時の門下もどれほど励まされただろう。
大聖人は、門下一同に成仏の軌道を歩むための要諦を示されている。
「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし」(同989ページ)
「日蓮のようにしなさい」——その通りの実践を、さまざまな障魔の嵐にも、一歩も引くことなく貫いてきたのが創価三代の会長であり、創価学会である。過日、SGI(創価学会インタナショナル)の友は求道の喜びを語っていた。
"自身の生命を変革することが一切の出発点となることを教える、日蓮仏法が今こそ求められています"
大聖人の大慈悲心と一体となり、自他共の幸福と社会の安穏を祈り、行動しゆく創価の連帯。地球規模の困難と戦う今、全人類の宿命転換を目指し、"立正安国""立正安世界"の実現への誓いを新たにしたい。
☆ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち 第4回 マハトマ・ガンジー
〈マハトマ・ガンジー〉
この試練を乗り越えた時、すべては好転する。そう信じて耐え抜いた時、とてつもない力を手にすることだろう。
インドを植民地支配から解放へと導いた力——それは暴力による革命ではなかった。「非暴力の精神」で結ばれた不屈の民衆のスクラムであった。
その連帯を率いた「マハトマ(偉大なる魂)」と呼ばれる人物は、いかなる苦境にあっても、理想への歩みを止めなかった。
インド独立の父・ガンジー。「一人の人に可能なことは、万人に可能である」。この確信のままに、彼が貫いた人権闘争は一人から百人、千人、万人へと広がり、人々の胸中に勇気の炎を燃え上がらせていった。
支配国から経済的に自立するため、外国産を脱ぎ捨て、チャルカ(紡ぎ車)を使って衣服を生産。塩の専売という不当な政策には、デモで徹底抗議した。有名な「塩の行進」である。
こうした運動の先に待ち構えていたのは、激しい迫害の嵐だった。だが、無名の庶民たちは"人と戦うのではない。人の中に潜む憎しみと戦うのだ"と、抵抗も屈服もしなかった。
その先頭には常にガンジーの痩身があった。彼は幾度も投獄されながら、命を削って同志を鼓舞し、励ましを送り続けた。
「人は何度でも立ち上がる。立ち上がっては倒れ、立ち上がっては倒れ、その足もとはおぼつかないかもしれない。けれども、立ち上がったことは、一生忘れることのない、かけがえのない記憶となる」
「不幸はわたしたちに与えられた試練である。この試練を乗り越えたとき、すべてはきっと好転する。そう信じて、辛抱強く耐え抜こう。耐え抜いたとき、あなたはとてつもない力を手にしていることだろう」
ガンジーの闘争は、やがて国際社会を、敵対する人々の心さえも動かしていく。そして1947年8月15日、インドは自由の夜明けを迎えたのである。
その前日。日本では19歳の池田大作先生が、恩師・戸田城聖先生と運命的な出会いを刻んでいた。インドを源流とする仏法を世界へ未来へ——新たな平和の潮流が起ころうとしていた。
〈マハトマ・ガンジー〉
自己浄化は自由への最も確実な道である。
そのために必要なのは——何ものにもたじろがぬ、山のように不動の信仰なのだ。
1869年10月2日に生まれたガンジーが、人権闘争に立ち上がったのは23歳の時。弁護士となり、インド人商人の顧問として南アフリカへ赴いた。
彼はそこで「人種差別」の分厚い壁にぶつかる。以来、南アで"インド人救済法"の可決を勝ち取るまでの21年間、熾烈な戦いに身をささげた。
メディアでの抗議や地位向上を目指した政府への協力……。試行錯誤を繰り返しても、光の見えない現実が続く。そんなガンジーに大きな影響を与えたのが、英国の思想家ラスキンの著書『この最後の者にも』だった。
個人の中にある善は、全てのものの中に潜んでいる善——この本との出あいを機に、誰も犠牲にしない社会の建設を目指すようになった。後に、仏法にも啓発を受けたガンジーは「人間ひとりひとりに非暴力を展開させる無限の可能性が備わっている」との信念で、人々に"内面の変革"を促していった。
「(自己浄化は)自由へ向かういちばん真直で確実な道であり、同時にいちばんの早道でもある。自己浄化のためには、いかに努力しようともし過ぎるということはない。それに必要なのは、——何ものにもたじろがぬ、山のように不動の——信仰なのだ」
1914年、南アでの長い戦いに勝利した後、祖国に帰国。そこで彼は、「カースト」という身分階級制度の外に置かれた最下層の"不可触民"を「ハリジャン(神の子)」と呼んで敬意を示し、その解放を最大の悲願として戦い抜いた。
ガンジーの闘争——それは単に独立という国外に向けられた戦いだけではなかった。国内で虐げられた全民衆のために起こした戦いでもあった。だからこそ性別や年齢、地位といった、あらゆる差異を超えて皆が連なり、一つとなったのだ。
その精神は、インド独立の翌年、彼が凶弾に倒れた後も決して失われることはなかった。後継の人々が遺志を伝え続け、アメリカ公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング博士をはじめ、世界各地で人権闘争に戦う勇者たちの希望となった。
〈マハトマ・ガンジーを語る池田先生〉
「進むべき距離がいかに遠くとも第一歩はどこまでも第一歩であり踏み出さなければ第二歩はない」
その地道な忍耐と執念こそが偉大な勝利を可能にする。
池田先生は1961年2月1日、ガンジーを荼毘に付した聖地ラージ・ガートを訪問。独立の父の足跡を偲び、記念碑の前で題目を唱えた。
「すべての人びとの目から涙をぬぐい去りたい」と願ったマハトマと、「地球上から"悲惨"の二字をなくしたい」と祈った恩師——。先生の胸には、両者の峻厳な精神を継承しゆく熱情がほとばしっていた。
92年2月11日には、ガンジー記念館の招請を受け、インド国立博物館で「不戦世界を目指して——ガンジー主義と現代」と題して講演。その日はくしくも戸田先生の誕生日であった。
池田先生はガンジー主義の特徴として、�楽観主義�実践�民衆�総体性の四点に言及。マハトマが理想とした「開かれた宗教性」にこそ、人類を蘇生させゆく大道があると論じ、聴講したガンジー研究者などから惜しみない賛辞が寄せられた。
先生はこれまで、ガンジーの直弟子である同記念館のパンディ副議長やJ・P・ナラヤン氏、インド・ガンジー研究評議会議長のN・ラダクリシュナン博士のほか、歴代大統領や首相など、マハトマの精神に連なるインドの知性と友情を結んできた。
さらにはガンジーの言葉を通し、友を励まし続けている。
「『これから進まなければならない距離が1マイルであっても、または、1000マイルでも、第一歩はどこまでも第一歩であり、第一歩が踏み出されなければ第二歩はない』
いかなる道も、一歩また一歩と進んでいくことだ。いかなる戦いも、一つ一つ、手を打っていくことだ。その地道な忍耐と執念こそが、偉大な勝利を可能にする」(2007年6月14日、「7・3」記念協議会でのスピーチ)
「ガンジーいわく。『あなたの崇高な夢、大志は、必ず実現されるでしょう。良い目的のために努力すれば、それは決して無駄になることはない』と。強き意志のあるところ、夢を実現する道は必ず開かれる。いわんや、私たちには、『祈り』がある。絶対に勝つことができるのだ」(08年9月30日、新時代第22回本部幹部会でのスピーチ)
全ては一歩から始まる。意志のあるところに道は開ける。
本年は、先生のインド初訪問から60周年の節目である。