人生は強気でいけ!
「大丈夫!」「できる!」と
自分で自分を励まそう。
「臆病にては
叶うべからず」だ。
一生成仏抄 P384
『只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり』
【通解】
今の私達の一念が、無明におおわれて迷いの心である時は磨いていない鏡であり、これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。強く信心を起こして、日夜朝暮に怠ることなく磨いていきなさい。では、どの様にして磨くのか。ただ南無妙法蓮華経と唱える事、これが磨くという事である。
名字の言 「目は心の窓」「目は心の鏡」 2021年2月10日
目は口ほどに物を言う——この言葉を、より実感するようになった。コロナ禍でマスクの着用が日常化し、口元を見る・見せる機会が激減したからだ▼近年の研究によれば、面と向かった相手の感情を読み取る際、欧米の人々が相手の口元を重視するのに対し、日本人は目元を重視する傾向があるという。目の動きで思いを伝える意味の「目顔で知らす」や、驚いた様子を表す「目を皿にする」など、目にまつわる慣用句が多いのもうなずける▼仏典では、財力によらない"他者への施し"を、さまざまな形で説く。その中には「目」や「顔」を用いたものもある。例えば「眼施」。常に慈愛のまなざしで相手と向き合うことだ。また柔和な笑顔で友と接することを「和顔悦色施」という▼「心施」と呼ばれる施しもある。相手への思いやりを持ち、喜びも悲しみも共にすることだ。「目は心の窓」「目は心の鏡」ともいう。心は目に見えないが、心のぬくもりは目の輝きや表情に表れる。「心こそ大切なれ」(御書1192ページ)である▼マスクで顔の半分を覆い隠しても、友の幸せを願う心は隠すまい。こんな時だからこそ、まなざしや言葉に一段と心を乗せて表現できる自分でありたい。仏法とは、「人の振舞」(同1174ページ)である。(之)
寸鉄 2021年2月10日
会長の思想を知れば未来に悲観的ではなくなる—博士。我らの対話で拡大
「御書講義」が学会HPで配信。民衆救済の大哲理。激動の今こそ心肝に染め
いざという時に先駆ける人が一番偉いのだ—恩師真心の激励を幹部率先で
人は皆と一歩を踏み出す時に希望を感じる—心理学者。新たな挑戦を共に
読書は加齢による認知症リスクを低減と。良書は心を豊かに。開く習慣を
〈社説〉 2021・2・10 あす「国際部」結成50周年
◇"開かれた心"で友情の対話を
"グローバルな団結に、未来のあらゆる危機に対する勝利がある"——イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、昨年春の時点で、感染症と人類の闘争の歴史を紹介し、新型コロナウイルスの感染収束へ、各国が互いに、科学的情報の共有や医療提供等を行う重要性を主張。とともに、この連携がより緊密な国際協力を生み、将来襲い来る困難にも打ち勝つことができると訴えた(『緊急提言 パンデミック』河出書房新社)。
一方、昨年11月、日米中などの20カ国・地域首脳会議(G20サミット)は、感染症拡大、気候変動など、社会の諸課題の対応へ「多国間協力がこれまでになく必要との信念の下に結束」することを宣言した。ここでもグローバルな団結が求められている。
各国政府や市民社会などあらゆる次元で国際協調の流れを取り戻したい。それを確かなものにする原動力は、民衆の広範な連帯であろう。
今日の世界の状況下、仏法の平和主義を胸に、各分野で民間交流や国際貢献等に尽力する「国際本部」の友の使命はますます深い。
あす11日、その前身である「国際部」の結成から50周年を迎える。1971年(昭和46年)2月11日に発足した同部の淵源は、3年前の68年8月29日、池田先生が"これからは語学の時代"と、通訳や翻訳など国際舞台で活躍する同志を激励したことにある。
師の慈愛に包まれて誕生した同部は、現在、通訳翻訳部、国際ボランティア部、国際交流部、在日外国人部の4部で構成される国際本部に発展。一人一人が、世界広布の誓いに燃え、職場や地域で挑戦の日々を送りながら、国や立場を超えて信頼の連帯を広げている。
ある女子部国際部員は世界的な情報通信企業に勤務。日本政府も注力する事業や、会社役員とノーベル賞受賞者との会談で通訳を担当するなど、信頼を勝ち取ってきた。
学会活動にも率先し、昨年9月の世界青年部総会では、フィリピンの友人が視聴してくれるなど、国内外の多くの友に対話を広げた。"分断された世界を繋ぐことこそ、自分の使命"と定め、仕事と活動に朗らかに励む。
先生は小説『新・人間革命』第30巻<下>「勝ち鬨」の章につづっている。
「いつの時代にあっても、"開かれた心"をもつことこそ、国際人として最も大切な要件といえよう。真の国際化とは、人間は皆、等しく尊厳なる存在であるとの信念をもち、友情を広げていく心を培うことから始まる」と。
危機の時代の中、社会に分断や孤独が広がるなら、我らは一段と人と人の心を結び、力づけていこう。国際本部の友を先頭に、友情を広げる対話に挑戦したい。
☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第1回「二月闘争」 あきらめの"心の壁"を打ち破れ
「君も立て 我も立つ 広布の天地に 一人立て……」。「人間革命の歌」の歌詞には、一人立つことから広宣流布は開かれるとの、池田先生の確信が脈打つ。新企画「君も立て——若き日の挑戦に学ぶ」では、第2代会長・戸田城聖先生のもと、若き池田先生が一人立ち、広布の金字塔を築いた師弟の共戦譜を連載(毎月、最終土曜日付の予定)。輝かしいドラマの陰にあった先生の挑戦に光を当てながら、"勝利の鉄則""弟子の道"を学ぶ。第1回のテーマは「二月闘争」。
【先生が呼び掛けた実践】
一、祈りから始めよう
一、近隣を大切にしよう
一、体験を語ろう
(「随筆 希望の大道」<新時代の二月闘争�>から)
◇最前線の学会員が主役
「戸田先生の指導があって、今の私たちがあります。ご恩返しをするには、広宣流布の戦いしかない」
1952年(昭和27年)1月29日、蒲田支部の緊急組長会の会場に、若き支部幹事である池田先生の声が響きわたった。「戸田先生の52回目の誕生の月を、なんとしても歴史的金字塔で荘厳しましょう!」
そして、具体的な指標として、「組2世帯の拡大」を訴えたのである。「二月闘争」の火ぶたが切られた瞬間だった。
この8カ月前、戸田先生が第2代会長に就任し75万世帯の弘教を宣言したが、その年の12月の拡大は全国で466世帯。なかなか広布は進まなかった。翌年1月、戸田先生は、「いよいよ大を出すか」と、池田先生を蒲田支部の支部幹事に任命する。
池田青年が二月闘争で実践したのは、当時の組織の最も小さい単位である「組」(現在のブロック)を軸に、一人一人に光を当てることである。「『組』中心とは、形式ではなく、第一線の学会員が主役となって、自信満々と行動していくことである。勇気の対話へ一人立つ友がいるところ、そこが"広布開拓の主戦場"なのだ」
最前線の同志を一人ももれなく"幸福拡大の主役"に!——池田先生は、"広布の主戦場"である「組」を駆け回りながら、一人一人との絆を強めていった。
◇組織の人間化に挑む
「一緒に頑張りましょう!」
池田先生はニッコリとほほ笑み、優しく蒲田支部の婦人に声を掛けた。婦人は、なかなか弘教が進まず、しょんぼりと道を歩いていたところだった。先生の"励ましの一言"で、婦人の心に明かりがともった瞬間だった。
「優しさ」「ほほ笑み」——二月闘争を共に戦った草創の同志は、「闘争」という言葉とは、まるでかけ離れた池田支部幹事の印象を語っている。
先生の力強い姿や確信の言葉が、一人一人の心を打った場面もある。しかし、"広布拡大の証しをもって、戸田先生の誕生月を荘厳したい"との若き池田先生の強い思いは、同志に対する「慈愛」の表情・言葉として表れていった。リーダーの深い祈りがこもった、包み込むような励ましが、同志に勇気を送り、"心の壁"を打ち破る闘争につながっていったのである。
それまで、一つの支部で月に100世帯前後の弘教が限界だった。蒲田支部は2月の1カ月間で、201世帯の未聞の金字塔を打ち立てた。この二月闘争から、戸田先生の願業であった75万世帯の弘教達成へ、具体的な突破口が開かれていった。
先生は二月闘争の挑戦について語る。
「組織といっても、『人』である。『組』という小さな単位に光を当てた結果、一人一人に、きめ細かな激励ができた。納得し、心から立ち上がる人が増えてきた。その"新しい波動"が次の波動を呼び、組織全体がフレッシュに躍動しはじめた」
「組」単位を軸にした実践は、「いわば"組織の人間化"への挑戦であった。わが生命をふりしぼって、地域のすみずみにまで、清新な『信心』の息吹を脈動させていく。その戦いであった」。
小さな「組」中心という"新しい発想"と、"きめ細かな励まし"。そこから生まれた"新しい波動"——「組織」を、血の通った"強固なつながり"に変えた二月闘争の「小単位」「一対一の激励」は、学会の"励まし運動"の源流となった。
【「若き日の日記」1951年(昭和26年)6月6日から】
前進——この言葉の中には、成長がある。
希望がある。勇気がある。
若さがある。正義がある。——
25歳へ——二つの誓い
二月闘争の一年前の1951年(昭和26年)2月、池田先生は、25歳までに果たすべき二つの誓いを記している。「二十五歳までに、広宣流布に生命を捧げられる用意をなす事」「二十五歳までに、指導力を養い、先生の御意志を継げる決意を固める事」(『若き日の日記』、1951年2月18日)
それは、法華経に説かれた「不自惜身命」(自ら身命を惜しまず)の心を、現代によみがえらせる誓いでもあった。
ここに記された「25歳」という年齢に、大きな意味が秘められていた。池田先生は青春時代、病を抱え、医師からは「30歳まで生きられないだろう」と言われた。
「健康再び勝れず。苦しい」「身体の具合悪し。口をきくのも億劫なくらいである」——二十三、四歳当時も、体調不良と向き合う記述が数多く見られる。若き日の先生には、一年一年そして一日一日が、まさに命懸けだった。戸田先生は、そんな池田先生の体を誰よりも心配した。
52年(同27年)の12月、池田青年は、「本年も、三障四魔との戦闘の連続であった。而し、本年は、立派に勝ち通した」(同、52年12月8日)と、師に応えようと戦い抜いた一年の充実と、その勝利の喜びをつづった。
その10日後、こうとどめる。「先生を護ろう、力の限り。先生を護ろう、吾が生命のある限り」「師弟の道、師弟不二。人類最高の道を、私は、真っしぐらに進むだけだ」(同、52年12月18日)
「広布の道」「師弟の道」に"休み"はなかった。師匠のために、前進に次ぐ前進の連続闘争を起こしていくことこそ、先生にとっての弟子の道だった。年が明けた53年(同28年)1月2日、25歳の誕生日のその日、若き先生は男子部の第一部隊長の任を受け、恩師に報いる新たな闘争を始めるのである。
池田先生は述べている。
「前進を阻む最大の壁は、あきらめや臆病など自分の胸中にある。その心の壁を決然と打ち破れば、必ず新たな変革の大波を起こしていける。これが『一念三千』の大仏法だ」