勝利の要諦は異体同心。
広布のため団結しよう!
この一念と努力に
自らの人間革命もある。
朗らかな行進を共々に!
生死一大事血脈抄 P1337
『日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し』
【通解】
日蓮の弟子の中に異体異心の者があれば、それはたとえば、城の内部の者が城を破るようなものである。
名字の言 後世のために書き残す 2021年2月12日
釈尊の過去世の姿である雪山童子は、人々を幸せに導きたいと修行に励んでいた。そこに帝釈天が身を変じた鬼神が現れ、「そのための教えを聞かせてやる」と言う。ただし、"命と引き換え"を条件にし、求道心を試した▼雪山童子はためらうことなく教えを求めた。そして聞き終わるや、周囲の石や木々に次々と書き付けた。"何としても人々のため、後世のために真実の法を書き残さなければならない"と▼この仏法説話を思い出すたび、本紙通信員が脳裏に浮かぶ。先月、通信員制度発足67周年を刻んだ。今や全都道府県で活躍している。自身の仕事や生活の現実的課題に挑みつつ、"何としても、わが地域や同志の感動のドラマを書き残す!"との真心を原動力に奮闘されている▼世界広布の前進を知る手だてとして、本紙の役割は大きい。また「地域密着」「具体的」「等身大」の同志の話題を満載する方面・県版への期待も、同様に高い▼一般的に2月は「立春」を迎えても"春は名ばかり"。「二八」とも称され、コロナ禍ならずとも経済も冷え込む時期。だが、寒風の中を本紙配達に奔走する「無冠の友」に感謝し、通信員の方々と団結して、春を呼び、春に立つ創価の友の雄姿を書き残す「伝統の2月」を進みたい。(代)
寸鉄 2021年2月12日
仏法は現当二世。何があろうと信心で再び立ち上がれる。常に今ここから
青年の活躍の陰には必ず育てた人がいる—恩師。人材育む聖業に福徳燦然
大なる危機に大なる勇気を知る—劇作家。苦闘を勝ち越え真金の勇者たれ
風疹"ゼロ"へ抗体検査と接種が重要と。妊婦に移さぬ為にも。流行防ごう
「あおり運転」後絶たず。急な進路変更等はしない—誘発せぬ運転を心掛け
〈社説〉 2021・2・12 あす「世界ラジオデー」
◇惜しみなき"励ましの声"を
あすは「世界ラジオデー」。世界で幅広く利用されているラジオの重要性について意識を高める意義で、2011年にユネスコによって制定された。
日本における、ラジオ放送の始まりは1925年(大正14年)。以降、ライフラインの一つとして人々の生活を支えてきたラジオだが、テレビやパソコンの普及により、情報を受け取る媒体としての役割が薄まり"ラジオ離れ"が進んだ。
それでも、ラジオは時代とともに変化し、人々の身近な存在であり続けている。現在は、ラジオアプリ「radiko(ラジコ)」の登場でスマートフォンが"受信機"となり、一人1台、誰もが気軽にラジオを持ち歩けるように。そうした背景やコロナ禍による外出自粛の影響もあり、今、ラジオを聴く人が増えている。ラジコの提供データによると、昨年、コロナの感染拡大が問題化していた2月から3月にかけて、約750万人だったユーザーが、1カ月で約910万人まで増加したという。
茶の間で家族と見るテレビとは違い、ラジオは1人で聴くケースが多い。その分、発信側との距離は近く、ハガキやSNSなどを利用し、双方向的なやりとりも行える。過日取材したラジオ関係者は「ラジオは"皆さん"ではなく、"あなた"に届ける。そういう意識で制作しています」と語っていた。さまざまに制約され、孤独を感じることも多い社会状況の中、ラジオの持つ力が多くの人の心を癒やしている。
そんなラジオの特性を生かした取り組みが東京・創価高校で行われた。コロナ禍で長期の自粛期間が続いた3年生の生徒たちに、同級生の有志が励ましを送ろうと、ビデオ会議システムを活用して、ラジオ番組「ラジオニア」を配信した。
同番組の内容は、リスナーから届いた「おうち時間の過ごし方」などの便りを紹介するコーナーや、教員をゲストに迎え、「先生に聞きたい10の質問」など。直接会えない友人たちのはつらつとした声を聞き、多くの生徒の気持ちが和らいだという。
コロナ禍は私たちに不安や不自由をもたらすだけではなく、こんな時だからこそできる"何か"を問うているともいえるだろう。会合や訪問・激励などの学会活動が制限されることのある私たちも、SNSや電話などの通信手段を駆使して、心を込めた言葉を友へ送れるはずだ。
池田先生は「現実に生きゆく人々に、希望と勇気を送るのは、真心からの『励ましの声』である」と語っている。一対一の対話を根本に、一人でも多くの"あなた"へ、惜しみなき"励ましの声"を届けていきたい。
☆ロータスラウンジ——法華経への旅 第22回 如来寿量品第十六�
◇妙法に根ざした生と死は永遠常住の大生命を舞台とした歓喜のドラマ
■大要の続き(�から)
「私が成仏してからこれまで、実に久遠の時が経過している。その寿命は無量阿僧祇劫という長遠な時間であり、この世界に常住して滅することがない」
「私が菩薩の道を行じて成就した寿命は、今なお尽きていない。にもかかわらず今、真実の滅度ではないが、まさに、"仏は入滅するだろう"と言うのである」
その理由について語ります。
「如来は、この方便をもって衆生を教え導くのである。その理由は何であろうか。
もし仏が久しく世の中に住するならば、徳の薄い人は、善根を植えようとしないだろう。
また、貧しく賤しい生活に落ち込み、欲望に執着し、間違った思想の網の中に入ってしまうだろう。
もし如来が、常にこの世にあって入滅しないと見れば、すぐに驕りや、怠る心などを抱いて、仏に対して"なかなか会えない"と慕う思いや、敬う心を生ずることができないだろう。だから如来は、方便として『諸仏の出現に会うことは、難しい』と説くのである。
それは、福徳の薄い多くの人は、無量百千万億劫という長い期間を過ぎても、仏を見る人も、仏を見ない人もいるからである。ゆえに私は言う。『仏に会うことは難しい』と。
衆生たちは、このような言葉を聞いて必ず、"仏には会い難い"という思いを生じ、心に恋慕を抱き、仏を渇仰して、善根を植えるようになるであろう。
この故に如来は、実際は滅しないが、滅するというのである」
「あらゆる仏は、皆、このように(方便をもって)法を説くのである。これは、衆生を正しく教え導くためであるから、皆、真実であり、ウソではない」
◇
ここから有名な「良医病子の譬え」が始まります。
——譬えば、智慧が聡明で、病気の診断と薬の処方に熟練し、多くの病気を治すことができる名医がいたとします。その人には、十人、二十人、ないしは百人のたくさんの子どもがいました。
良医は所用で、遠く他国に出掛けていました。その間に、子どもたちは、他の人の作った毒薬を飲んでしまい、毒が回って、悶え苦しみ、大地を転げ回っています。そこに、父が戻って来ました。
子どもたちは父を見て、大歓喜し、合掌し、ひざまずいてお願いします。
「私たちは愚かなことに、誤って毒薬を飲んでしまったのです。どうか救って、寿命を与えてください」
父は、子どもたちが苦しんでいる姿を見て、良き薬草を求め、つき、ふるい、調合し、飲ませようとします。
父は子どもたちに語ります。
「この大良薬は、色と香りと良きき味の全てを具えているから、この薬を飲みなさい。そうすれば、すぐに苦悩が除かれ、かずかずの病気にわずらわされることはなくなる」
正気を失っていない子どもは、薬の色や香りが良いのが分かって、すぐにこれを飲んで、苦しみが除かれます。
ところが、正気を失った子どもたちは決して薬を飲もうとしません。
そこで父は考えます。
"かわいそうだ。毒で心が転倒している。私が帰ってきたのを見て喜び、治療を願っているのに、この良薬をどうしても飲もうとしない。私は今、方便を用いて、この薬を飲ませよう"
父は言います。
「いいか、私は、老いてしまって死期が迫っている。この素晴らしい良薬を置いていくから、飲みなさい。苦痛が癒えないことを心配しなくていいよ」。こう言い残して、他国に行きます。
そして、家に使いを出して語らせます。「あなた方のお父さんは、すでに亡くなりました」
この時、子どもたちは思います。
"もし父がいたら、私たちを慈しみ、あわれんで、救ってくれただろう。今、父は遠い他国で亡くなった。私たちには、頼れるものがなくなってしまった"
子どもたちは嘆き悲しみ、ついに心が目覚めます。そして、父が置いていった薬は、色も香りも味わいも良いことが分かり、すぐに飲み、毒の病が全て治ります。
父は、子どもたちが治ったと聞いて家に帰り、皆の前に姿を現しました——。
◇
釈尊は語ります。
「良医にウソをついた罪があると説く人がいるだろうか」
菩薩たちが答えます。
「いるはずがありません」
そこで釈尊は言います。
「私も(この譬え話と)同じである。
私は成仏してからすでに無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫もたっている。
しかし、衆生のためを思い、方便の力によって、まさに入滅するであろうと説くのである。
したがって、私がウソをついたと言って、型どおりに、その罪を言う者はいないであろう」
(�に続く)
◇なるほど
寿量品で説かれる久遠実成によって明かされた成仏の因果を、本因本果と言います。
寿量品に「我は本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶未だ尽きず」(法華経482ページ)と記されている通り、久遠に菩薩道を行じてきたことが成仏の本因であり、その菩薩の生命は成仏してからも尽きることなく具わり、常住であると教えています。
さらに「我は成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず」(同ページ)と、本果である仏界の生命も常住であると説きます。
このことによって「九界即仏界」「仏界即九界」が明かされたので、大聖人は「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(御書197ページ)と仰せられました。
本因本果が明かされることによって、一切衆生が凡夫のままで一生成仏を実現する道が開かれたのです。
【『法華経の智慧』から】 凱歌の軌道を歩む
"生と死はない"というのは、生命の常住の側面を強調しているわけです。
その面だけにとらわれると、ある意味で抽象論になってしまう。
"生と死がある"のは人生の現実だからです。その現実から逃避しては観念論になる。
大聖人は、もう一歩深く、「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(御書724ページ)と仰せです。
妙法に根ざした生と死は、「法性の大地」すなわち永遠常住の大生命を舞台としたドラマなのです。ドラマを演じていると思えば楽しいでしょう。生と死が苦しみでなく、楽しみになる。「生も歓喜」「死も歓喜」となっていくのです。
妙法は、生死の苦しみを乗り越える大良薬です。寿量品に「是好良薬(是の好き良薬)」(法華経487ページ)とあります。
法のため、友のために——くる日もくる日も、心を使い、体を使いきっている学会の同志は、永遠にわたる「生命の凱歌」の軌道を歩んでいるのです。(普及版<中>「如来寿量品」)
【コラム】是好良薬——どこまでも自発を促す
「良医病子の譬え」で、毒を飲んで苦しんでいる子どもたちの中に、なぜか良薬を飲もうとしない子がいました。
その時、父親の良医は、力ずくで薬を飲ませることはしませんでした。その代わりに、どうすれば子どもたちが良薬を飲もうとする心が起こせるかと、智慧を湧かせたのです。
教え導くことは、どこまでも相手の求道心を呼び覚ますことが大切であることを教えていると言えるでしょう。
どんなに素晴らしい良薬、私たちでいえば仏法であっても、それを無理強いすることではなく、"やってみよう""信じよう"という自発を促していくことです。
どんなにそれが困難に思えたとしても、良医が智慧を尽くしたように、相手の成長と幸福を心から願う時、計り知れない仏の智慧を発揮していくことができるのです。この慈悲の振る舞いこそ、仏の振る舞いなのです。