感染症対策を油断なく!
寒暖差も大きい時期だ。
入念な手洗い・うがい
マスク着用の励行で
健康管理を万全に!
上野殿御返事 P1540
『千丁万丁しる人もわづかの事にたちまちに命をすて所領をめさるる人もあり、今度法華経のために命をすつる事ならばなにはをしかるべき、薬王菩薩は身を千二百歳が間やきつくして仏になり給い檀王は千歳が間身をゆかとなして今の釈迦仏といはれさせ給うぞかし、さればひが事をすべきにはあらず、今はすてなばかへりて人わらはれになるべし』
【通解】
千町・万町を治める人でも些細なことにたちまちに命を捨て、その所領を取り上げられてしまう人もいる。このたび、法華経のために命を捨てるということならば、何が惜しいことがあろうか。
薬王菩薩は身体を千二百歳が間、焼き尽くして仏になられ、須頭檀王は千年の間、身を床として今の釈迦仏といわれるようになったのである。したがって、心得違いをなすべきではない。今、信心を捨てたならば、かえって人に笑われることになるであろう。
名字の言 精神科医が勧める三つの上手な聴き方 2020年2月18日
「人は、言葉によって成長します」。そう語るのは、精神科医でカウンセラーの育成・教育に携わる高橋和巳氏だ▼例えば乳幼児期の"嫌だ"は、他人(親)とは違う自分を発見しているから。思春期の"放っておいて"は、精神的な自立の始まり。子どもは新しい言葉で表現することによって、新しい自分を見いだす。大人も、そうした"新しい言葉"を見つけることができれば、人生は劇的に変わり得ると氏は強調する▼そこで重要になるのが、聴き手の姿勢。氏は、三つの上手な聴き方として「賛成して聴く」「黙って聴く」、そして「世界を代表して聴く」を挙げる。大げさに感じるかもしれないが、自分の気持ちや悩みを語る時、人は必ず相手を選んでいる。「その時、聴き手は話し手にとって、『世界を代表する人』として選ばれているのです」(『精神科医が教える聴く技術』ちくま新書)▼相談は、相手からの信頼の証し。忙しい日々の中でも一人一人、心を込めて向き合いたい。法華経に説かれる観世音菩薩は、人々の悩みや苦しみの声を聴き、それに合わせて33の姿を現じて法を説く。あらゆる苦悩を救う力があり、大慈悲心の体現者とされる▼全ては「聴くこと」から始まる。"観世音の心"で、友の声にじっと耳を傾けよう。(誼)
寸鉄 2020年2月18日
腹を決めよ!決まったら勇ましく進め—戸田先生誓願の友に破れぬ壁なし
「九州壮年部の日」。誠実の振舞で信頼結ぶ広布の黄金柱。先駆こそ誉れと
火災多発。暖房使用時は確認また確認。ストーブなどは完全消火を絶対に
75歳以上の運転による死亡事故が依然深刻。「人命第一」で懸命な判断を
成田空港で覚醒剤の密輸摘発が過去最多と。人生狂わす魔物だ。断固、根絶
☆戸田城聖先生 生誕120周年 記念特集
◇元初の誓い貫いた妙法の巌窟王
戸田先生が生まれたのは、1900年(明治33年)2月11日。二つの世界大戦に象徴される激動の20世紀を生きた恩師は、「この地球上から悲惨の二字をなくしたい」と願い、妙法流布に一人立ち上がった。ここでは、池田先生がかつて、戸田先生の生涯について言及した三つのテーマをもとに、恩師の足跡を紹介する。
◇広布の大願に一人立つ
今から120年前の1900年(明治33年)2月11日、戸田先生は石川県・塩屋村(現・加賀市塩屋町)で生まれた。
その後、北海道・厚田村(現・石狩市厚田区)へ移り、20年(大正9年)に上京するまで北海道で暮らした。
厚田の尋常高等小学校で学んでいた時のこと。成績優秀で、よく読書にも励んでいた戸田先生には、意外な"あだ名"があった。
「ナポレオン」である。
世界史の授業の折、教師がフランスの英雄・ナポレオンについて説明したが、その中に間違いがあった。戸田先生が誤りを指摘し、教師に代わって講義したことから付けられた。
戸田先生の胸には、ナポレオンのごとく、必ず何かを成し遂げるとの情熱が赤々と燃えていた。16歳の時に詠んだ歌には、当時の大きな志が表れている。
「太平洋 我漕ぎ出でん 小舟にて 決心かたし 岩石よりも」
戸田先生は、尋常高等小学校を首席で卒業した。だが、家計を助けるため、進学を断念。札幌にある雑貨問屋に年季奉公に出た。朝から夜遅くまで働きながら、寸暇を惜しんで勉学に打ち込んだ。
17年(同6年)に尋常小学校准教員の検定試験に合格。真谷地(現・夕張市内)の尋常小学校に奉職した。
19歳の時に上京した戸田先生は、生涯の師となる牧口常三郎先生と出会う。戸田先生の母は、旅立つわが子に、「どんな苦しいことがあっても、これを着て働けば、何でもできるよ」と、夜を徹して縫い上げたアツシのはんてんを贈った。母の慈愛がこもった織物は、先生の生涯の宝となったのである。
�師弟
◇「報恩の誠」を尽くし抜く
池田先生は、戸田先生の生誕110周年の折、恩師の生涯について、三つの視点で言及した。
1点目は「師弟」である。
創価学会の創立記念日は11月18日。1930年(昭和5年)11月18日、『創価教育学体系』の発刊が淵源である。
牧口先生の教育学説を集約した『創価教育学体系』出版のために、戸田先生は原稿の整理や資金の提供を申し出た。完成した『創価教育学体系』の表紙の題字と牧口先生の著者名は、金文字で飾られた。そこには、師の学説を宣揚しようとする、戸田先生の弟子としての赤誠が込められていた。
28年(同3年)、牧口先生と戸田先生は、日蓮仏法に帰依している。当初、2人の師弟は教育改革をもって、人々の幸福、社会の繁栄と平和の実現を目指していた。しかし、「教育革命」の根底には、真実の仏法がなければならないことを自覚して、「宗教革命」への道を進んだ。
だが、やがて軍部政府が思想統制を強めていく。迫害を恐れた日蓮正宗の宗門は43年(同18年)6月27日、牧口先生、戸田先生らを呼びつけ、「神札を受けてはどうか」と迫った。牧口先生は言下に拒否し、同年7月6日、牧口先生と戸田先生は、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕された。
過酷な獄中闘争の中、戸田先生は一日1万遍の唱題を重ね、法華経の精読を始めた。そして、44年(同19年)春、「仏とは生命なり」と覚知する。さらに、獄中での唱題が200万遍に達しようとしていた同年の11月中旬、「われ地涌の菩薩なり」との悟達を得る。
この恩師の「獄中の悟達」について、池田先生は小説『新・人間革命』第22巻「新世紀」の章に、こうつづった。
「創価学会の確信の精髄は、戸田城聖の『獄中の悟達』にある」
「『われ地涌の菩薩なり』との悟達こそが、学会の魂である。その戸田という師に連なる時、学会は広宣流布を使命とする『創価学会仏』たり得るのである」
戸田先生は、法悦に身を震わせながら、「これでおれの一生は決まった。今日の日を忘れまい。この尊い大法を流布して、おれは生涯を終わるのだ!」と、「地涌の菩薩」の使命に生涯を捧げることを決めた。元初の誓願に一人立ったのである。
この年の11月18日、牧口先生は獄中で生涯を閉じた。45年(同20年)1月8日、その事実を知らされた戸田先生は、心に誓った。
"よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう"
同年7月3日、生きて獄門を出た戸田先生は、広布の大願に一人立った。師への報恩の誠を尽くす誓いの炎は生涯、燃え続けた。
牧口先生の三回忌法要の席上、戸田先生は語った。
「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」
ここに、学会の師弟の真髄がある。師弟とは、弟子の自発的な意志があってこそ成立する「魂の結合」なのである。
�民衆
◇苦労した人の味方となれ
2点目は「民衆」である。
戸田先生は常に、民衆の中に飛び込んでは、一人一人が抱える悩みに耳を傾けた。会合や御書講義の折には質問会を持ち、信心への確信を呼び覚ました。
第2代会長に就任した後、東京・市ケ谷にあった学会本部の分室には、恩師の指導を求め、多くの会員が訪れるようになった。
ある日、農業を営む壮年が「幸せになれそうもありません」と打ち明けた。対話に歩いても歩いても、誰一人として聞いてくれないという。戸田先生は語った。
「折伏ということは、難事中の難事だと大聖人もおっしゃっている。生命力を強くして、焦らず、弛まず、やらなければならない仏道修行なんです。2、3カ月で落胆するようでは、生涯にわたる信仰者の態度とはいえない。しかし、あなたは、もう既に折伏を実践しているではないか。それだけでも大したことなんです」
だが壮年は、うなだれたままだった。長年、出自による、いわれなき差別を受けていたのである。壮年が苦悩を明かすと、戸田先生は抱きかかえるように励ました。
「世間が、どんなにあなたを迫害しようが、創価学会には、そんな差別は絶対にありません。戸田は、あなたの最大の味方です。また困ったことがあったら、いつでも私のところに来なさい」
病苦や経済苦、子どもの非行など、悩みは千差万別であった。時には、学会のリーダーの姿もあった。戸田先生は、どんな人であれ悩みがあって当然だと、大きく包容した。
戸田先生自身、幾多の辛酸をなめてきた。24歳の時には、生後7カ月の長女を亡くした。
そのつらさを知る先生は、子どもを亡くした東北の同志に手紙を送り、「可愛さのため死んだ子を夫婦で抱いて寝た時の悲しみと苦しみは、今なお胸の中に生きている。さぞ君も悲しかろう。殊に奥様の心を思えば、なんとなぐさめて上げてよいか解らない」と、深く寄り添っている。
学会本部の分室の個人指導は、本来は午後2時から午後4時まで。だが、午後5時を回るのが常だった。
連日のように、戸田先生は3時間を超す真剣勝負の個人指導を続けた。それは、激しい疲労を伴った。まさに自らの生命を削って、一人一人に"希望の光"を届けたのである。
恩師が個人指導に力を注いだことを通し、池田先生は小説『新・人間革命』第26巻「勇将」の章に、こう記している。
「幹部の皆さんの、会合での指導と、個人指導の比率は、八対二ぐらいではないかと思う。しかし、二対八を目標にしていけば、もっと人材が育ちます。学会も強くなっていきます」
苦しむ人の味方となり、立ち上がるまでエールを送り続ける——この「励ましの世界」こそが創価学会であることを、戸田先生は示したのである。
�青年
◇偉大な弟子を育てた
3点目は「青年」である。
「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」
この「青年訓」を戸田先生が発表したのは、男女青年部が結成された2カ月後の1951年(昭和26年)9月である。
当時、男子部の班長だった池田先生は、恩師の言々句々を心に刻みつけた。同年11月、学会の第6回総会の席上、池田先生は「青年の確信」と題して発表した。
「じつにじつに宗教革命の道のいかに苦難であるかは、覚悟のうえです」
その宣言は、「青年訓」に対する弟子としての"報恩の決意"にほかならなかった。
翌52年(同27年)、蒲田支部の支部幹事の任命を受けた池田先生は、2月に一支部で「201世帯」という日本一の弘教を達成。戸田先生の生涯の願業である「75万世帯の弘教」の突破口を開いた。
この月、戸田先生は青年部の教学研さんの成果を競う第1回「研究発表会」に出席し、全人類が一つの地球民族であるという「地球民族主義」の理念を提唱した。
また、57年(同32年)9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で開催された「若人の祭典」では、青年への「遺訓の第一」として、「原水爆禁止宣言」を発表した。
「地球民族主義」も、「原水爆禁止宣言」も、戸田先生が発表の場に選んだのは、青年部の集いであった。その恩師の思想を、池田先生は世界に宣揚し続けてきた。
戸田先生が青年に強く望んだのは、広布に「一人立つ」ことである。54年(同29年)に発表した「国士訓」で、「青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう」と訴えた。
この一人立ち上がった青年こそ、池田先生である。恩師が心血を注いで薫陶した不二の弟子は、文京、札幌、大阪、山口など、各地で勝利の金字塔を打ち立てた。
58年(同33年)3月16日、6000人の青年が集い、広宣流布の記念式典が挙行された。戸田先生は「未来は、君たちに任せる。頼むぞ、広宣流布を!」と、池田先生をはじめとする青年たちに、後事の一切を託した。
同年4月2日、元初の誓いを貫いた恩師の崇高な生涯は、58年で幕を閉じた。この日、池田先生は日記に「われは立つ」と書きとどめている。「妙法の巌窟王」の精神を継いだ、池田先生の不惜身命の闘争によって、創価の人間主義の連帯は今、世界192カ国・地域へと広がった。
小説『新・人間革命』第2巻「先駆」の章につづられている。
「"後継"と"後続"とは異なる。後方の安全地帯に身を置き、開拓の労苦も知らず、ただ後に続く"後続の人"に、"後継"の責任を果たすことなどできようはずがない。"後継の人"とは、勝利の旗を打ち立てる"先駆の人"でなければならない」
広宣流布は「一人立つ」青年から始まる——いかに時代が変わろうとも、この方程式は不変である。