新聞休刊日
佐渡御勘気抄 P891
『いたづらにくちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金をかふるにあらずや、各各なげかせ給うべからず』
【通解】
むなしく朽ちるであろうこの身を法華経のために捧げることは、ちょうど石を金に替えるようなものではないか。あなた方は嘆いてはならない。
◇社説 2020・2・9 11日は「恩師の生誕120周年」
座談会から「二月闘争」の勝利を
ほのかに漂う磯の香り。潮騒が時折、心地よく耳に響く。石川県の最西端に位置する加賀市塩屋町。古くは、日本海を往来した「北前船」の寄港地として、大いに活況を呈した。
1900年(明治33年)2月11日、創価学会第2代会長の戸田城聖先生は、この地(当時は塩屋村)で生まれた。
幼年期に、一家で新天地を求めて北海道・厚田村(当時)に移住。その後、苦学に苦学を重ねて尋常小学校准教員の検定試験に合格し、夕張の真谷地に赴任した。大志を抱いた戸田青年は19歳で上京。牧口常三郎先生と、運命的な師弟の出会いを結ぶことになる。
度重なる病魔や経済苦、妻子との死別……戸田先生の青春時代は、悪戦苦闘の連続だった。特に、家族の死に相次いで直面して以来、「絶えず道を求めてきた」と真実の信仰を希求し、牧口先生に続いて日蓮仏法に帰依した。
戸田先生は後年、草創期を振り返りつつ、"座談会が何といっても中心だ。私もそこから立ち上がったんだから"と語っている。少人数の座談会が、戸田先生にとっても原点だったといえよう。
思えば、19歳の池田大作先生が初めて戸田先生と出会ったのも、大田区内の座談会(1947年8月14日)。「201世帯」の金字塔を樹立した蒲田支部の「二月闘争」(52年2月)でも、やはり小単位の座談会が連日各地で活発に開催され、爆発的な拡大の原動力となった。
一人と会い、一人と語らい、一人と友情を結ぶ。心通う"少人数の集い"を大事にする。これが、学会創立以来の伝統であり、未来永遠に変わらぬ広布伸展の方程式であろう。
人間関係の希薄化や孤立化が憂慮される現代社会にあって、創価の座談会運動の意義は、時とともに、いやまして希望の光彩を放つ。今、国内外の数多くの識者が高い評価を寄せている。
ジャーナリストの田原総一朗氏も、その一人。"学会を発展せしめている要因は、座談会にある"と洞察する。氏は実際、何度も足を運び、取材を重ねた上で、「座談会に出ると気持ちが前向きになる」「何でも話せる。心から信頼できる相手がいる。これが大きい」とも。
恩師の生誕120周年に迎える今年の「二月闘争」も中盤戦に入る。
"戸田先生の誕生月を広布拡大でお祝いしよう!"——若き池田先生の師子奮迅の激闘と、それに呼応した草創の友の「壁を破る」戦いに学び、各人が「令和初の二月闘争」を勝ち飾りたい。
生命を潤すオアシスであり、歓喜が歓喜を呼ぶ座談会で、勝利のリズムを刻みながら——。
☆世界写真紀行 パラグアイ川の夕日 93年、池田先生は大河のほとりに立った 2020年2月4日
◇真面目な人が最後に勝つ
南米パラグアイの首都アスンシオンは「森と水の都」とうたわれる。
その近郊を滔々と流れる南米有数の大河・パラグアイ川は、ひときわ美しい。
パラグアイ広布の礎を築いたのは戦後、移住した日系人である。
彼らは、原生林から木を切り出し、自分たちで家を建てるところから始めなければならなかった。
その大半のメンバーは移住地に渡ってから学会に入会。皆、貧しかった。病と闘う友も多かった。
それでも、御本尊を抱き締めるように祈り、仏法を語り歩いた。彼らにとって、創価の哲学は、唯一の希望の光だった。
草創のパラグアイ広布に生き抜いたマツタロウ・ナガサワさんの思いを、長女のユウコ・クリタさん(総合婦人部長)は、こう述懐している。
「私が13歳の時に一家で移住しました。財産も、保障もなく、あるのは苦労ばかり……。わが家の生活は、父が折伏を受け、家族で入会してから、少しずつ、良い方向に変化していきました」
父は、子どもたちに「勇気の信心」さえあれば、道は開けることを教えた。口数は決して多くなかったが、真面目に信心に励む父の背中は、子どもたちの心に刻まれた。
こうした草創の同志の奮闘があり、広布の水かさは増していった。皆が功徳を受け、その歓喜が友から友へと広がったのである。
池田先生が、この地を訪問したのは、1993年2月のこと。
滞在期間は2月20日から23日までの4日間だった。
先生は、過密な日程の合間をぬって、何度もパラグアイ川のほとりに立ち、カメラを向けた。パラグアイ総会(2月21日)の席上、その心情を語っている。
「私はパラグアイ川を金色に染めながら地平線に沈みゆく荘厳な夕日を見た。
いじらしいほど真面目に信心を貫いているパラグアイの皆さま方が、その太陽のごとく、堂々たる勝利の人生を飾りゆかれることは、絶対に間違いない」
「信仰という、最高に赫々たる太陽を燃やしながら、『私は勝った』と言いきれる一生を、生き抜いていただきたい」
総会には、ナガサワさんをはじめ草創のメンバーの姿があった。"堂々たる勝利の人生は、間違いない"——師の言葉に皆、目頭を熱くした。
ナガサワさんが50年前にアスンシオンで始めた小さな食料品店は、やがてスーパーマーケットに拡充。地域の人気店として、住民から広く親しまれている。
2002年、ナガサワさんは79歳で尊い生涯を閉じた。亡くなったその日は、パラグアイ川に沈みゆく夕日が美しかったという。茜色に染まる空を見つめて、ユウコさんは亡き父に語り掛けた。
「お父さん、パラグアイに連れてきてくれて、ありがとう。私たちは、パラグアイに連れてきてもらったことを、誇りに思います。こんなに素晴らしい場所はありません。ここが、私たちの故郷です」
ナガサワさん一家は、全員が広布のリーダーとして活躍し、その孫たちも、広布後継の道を歩んでいる。
御書には「大木の下の小木、大河のほとりの草は、大木が受ける雨の恵みを直接、身に受けず、大河の水を直接、得ることはないけれども、(自然のうちに)伝わる露を得、水気を得て、栄えていく」(1170ページ、通解)と仰せである。
広布に生きる人は、生命力の「大樹」であり、「大河」の存在である。
「一人立つ信心」がある限り、必ずや、一家を照らし、地域社会をも潤していける。ここに、広宣流布の不変の原理があろう。
来る日も来る日も、人のため、地域のために、尽くし抜いた広布の足跡は、荘厳な夕日のごとく、永遠に色あせることはない。
父母から子や孫、ひ孫へ——滔々と流れるパラグアイ川と共に、後継の人材の大河が築かれている。