あらゆる人々と
縁を結びゆく中で
人格が磨かれていく。
その積み重ねが
揺るがぬ自己を築く。
五人所破抄 P1613
『西天の仏法東漸の時既に梵音を飜じて倭漢に伝うるが如く本朝の聖語も広宣の日は亦仮字を訳して梵震に通ず可し』
【通解】
インドの仏法が次第に東方につたわった時、すでに梵語を翻訳して中国・日本に伝えられたのと同様に、日本の大聖人の金言も広宣流布する時には、また仮名文字を翻訳して、インド・中国に流通すべきである。
名字の言 日本人でアカデミー賞にノミネートされた特殊メークのプロフェッショナル 2020年2月2日
第92回アカデミー賞の「メーキャップ&ヘアスタイリング部門」で先日、カズ・ヒロ(辻一弘)氏が4回目のノミネートを果たした。今月の授賞式で、2度目の受賞に期待が高まる▼独創的な特殊メークを武器に、米国の映画界で活躍してきた氏。近年は肖像美術の創作活動に力を注ぎつつ、欧州や日本など各地で特殊メークの講習会を開いては、自ら実演して見せる▼"秘密にするべき技術を、なぜ惜しげもなく見せてしまうのか"と驚かれることも多い。だが、氏は語る。「技術を秘密にして、それに凝り固まってしがみついていたら、自分の成長はそこで止まってしまう」「知識を分け合ってお互いに成長していくことが大事」と(『顔に魅せられた人生』宝島社)▼万事、"従来のやり方"を繰り返していれば、失敗は少ないかもしれないが、新たな発見も発展も望めまい。守るべきものは守りつつ、変革すべきことは断行する。意見の異なる人とも対話を恐れず、切磋琢磨する。挑戦また挑戦、前進また前進——その積み重ねこそが確かな成長の軌道だ▼池田先生は「成長の止まった人間は、人に触発を与えることはできない。人を育てるには、まず自分が戦うことだ」と。人材育成も地域の発展も、大胆な"私自身の挑戦"から始まる。(誼)
寸鉄 2020年2月2日
ここで戦い、ここで勝つ—これ「本有常住」の仏法の生き方。今を悔いなく
まず"私はこうする"と決め切るのだ—戸田先生歴史開く率先の一人たれ
「御書を心肝に」が学会の魂。教授登用・教授講座が全国で。生涯求道の人と
新型肺炎、WHOが緊急事態宣言。呉々も冷静に。手洗い・咳エチケットを
レジ袋、年450億枚を国内で使用。1人が毎日1枚換算。意識改革から
☆「二月闘争」特集 報恩の一念が壁を破る
「令和」の時代に入り、初となる「伝統の2月」を迎える。1952年(昭和27年)2月、池田先生は東京・蒲田支部の支部幹事として指揮を執り、当時の支部の限界を打ち破る「201世帯」の弘教を達成し、広宣流布の突破口を開いた。「新時代の二月闘争」の開幕に当たり、池田先生の指針を通して、勝利の要諦を学ぶ。
◇わが胸に、友の心に広布への情熱の炎を!
<1951年(昭和26年)5月3日、戸田城聖先生が学会の第2代会長に就任。「75万世帯の弘教」を宣言した。しかし、広布は遅々として進まず、翌52年(同27年)1月、戸田先生は池田先生を蒲田支部の支部幹事に任命。大田区の集会所で行われた蒲田支部の緊急組長会で、池田先生が最初に訴えたことは「報恩」の一念だった>
「二月闘争」の発火点。それは、1月29日、第一線のリーダーたちが集った緊急組長会であった。私は、寒風を突いて参加してくれた130人の同志と心一つに誓い合った。
——2月は、日蓮大聖人の御聖誕の月であり、戸田先生の誕生の月でもある。
大聖人が御出現され、戸田先生が広宣流布に一人立たれたゆえに、私たちは妙法に巡りあうことができた。その御恩返しのために、2月を折伏の美事な勝利をもって飾ろう!——との一点で心を合わせたのである。
「報恩」の一念に徹する時、人間は人間として、最も美しく、強くなれる。
私は心に期していた。
——戸田先生は、戦前、ただ一人、牧口先生直結の「師弟の道」を歩まれた。いついかなる時も、「牧口先生! 牧口先生!」と叫び続けていかれた。
戸田先生が広布の大師匠として立たれた今、いったい誰が「戸田先生! 戸田先生!」と叫び抜いて、真実の「師弟不二の道」を示すのか。
「人能く道を弘む」とは、中国の孔子の至言である(『論語』)。
弘める人なくして、道はない。すべては人で決まる。
この「二月闘争」を起点に、創価の師弟に流れ通う「絶対勝利の血脈」を、学会総体にみなぎらせるのだ——。
御聖訓には「よき師と・よき檀那(=弟子)と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(御書550ページ)と説かれる。
「師弟不二ならば、一切を勝利できる」——これが、仏法の要諦であり、学会精神の真髄である。
◇「新しい力」を信じて
<池田先生は現在の「ブロック」に当たる「組」に焦点を当て、明確な目標を掲げた>
当時、どんなに頑張っても、1支部で「月に100世帯」ほどの折伏が限界だと、皆が思い込んでいた。
しかし、私たちは、今でいえば最前線のブロックに光を当て、「組で2世帯」という折伏目標を掲げた。
そして、私は具体的に
一、祈りから始めよう
一、近隣を大切にしよう
一、体験を語ろう
と呼びかけた。
——いずれも、私自身が実践してきたことである。
戦いの第一歩は、明確な目標を決めることだ。
目標が漠然としていては、誰もが"自分の挑戦課題"として受け止めることができない。ゆえに結局は、真剣になれないものである。
また、目標を押しつけてはいけない。皆が「よし、やろう!」と納得できるようにすべきである。
それには、中心者自身が、自分の責任で、たとえ一人になっても、掲げた目標は断じて達成するとの、決意を定めることだ。その決定した心に燃え盛る情熱の炎が、皆の胸に、広布に戦う心を燃え上がらせていくのである。
<24歳の池田先生は、率先して同志の輪の中に入り、目の前の「一人」に励ましを送り続けた>
「新しい人」だからこそ、「新しい力」を発揮できる——これが私の変わらざる確信である。
1952年、蒲田支部で私が広布拡大の突破口を開いた「二月闘争」も、「新しい人」を見つけ、眼前の友の「新しい力」を信じて、励まし抜く戦いであった。
仏法では、「一身一念法界に遍し」(御書247ページ)と説かれる。
一人の「一身一念」は、家族にも友人にも、職場にも地域にも、さらには国土、世界にまでも波動を起こしていけるのだ。
「一人」から始まる。
「一人」から変わる。
「一人」から開ける。
ゆえに、まず一人と「会う」ことだ。「語る」ことだ。そして「一緒に行動する」のだ。
「少子化」の時代であるからこそ、むしろ一人の青年を大事にできる。さらに今度は、その一人から、次の新しい青年を呼んでいくのだ。
そして「従藍而青」と示されている通りに、「自分以上の人材」を澎湃と育て上げるのだ。この精神で学会は進んできたからこそ、今がある。
当時の蒲田の支部幹部では、私が一番若かった。人を集めて偉ぶって指導しても、誰が信用するか。自分が足を運び、顔を合わせ、寒風の中を一緒に歩く以外にない。
一回の座談会、一軒の個人指導、一通の激励の手紙……すべてが私の主戦場と思って真剣に取り組んだ。
折伏が進まないメンバーがいれば、私自身の対話の姿を見せた。また私一人で話さず、同席した友にも、どんどん体験や教学の基本を語ってもらった。その中で、皆が自信と確信を深めていったのだ。
◇異体同心の団結が要
<「二月闘争」は、「異体同心の団結」が広布拡大の推進力であることを示した戦いでもあった>
私は、皆が持ち味を発揮し、尊敬し合って団結できるよう、人知れず心を砕き、指揮を執っていった。
とくに青年には、生活に根ざした体験を持つ壮年・婦人の先輩方と一緒に折伏に取り組むように訴えた。共に動き、共に走った。悩める友がいると聞けば、対話の輪ができた。抜苦与楽の座談会が毎日のように開かれたのである。
ある時、入会まもない婦人部の方が意を決して知人の折伏に行くということで、私が付き添ったことがあった。道すがら緊張のあまり、足もすくんでいる様子であった。
私は「学会歌を歌って、楽しく行きましょう!」と申し上げた。最初はか細い声であったが、何回も「同志の歌」を共に口ずさんでいくうちに、みるみる元気になっていった。
結局、その日の対話は実らなかった。しかし、それを機に発奮し、地方の友人たちへの折伏を次々に結実させていったのである。
副役職の方々をはじめ、中心者を支える先輩・同志は、「異体同心」の要だ。
私は、蒲田支部の「二月闘争」の時も、さらに文京支部の「大前進」の折も、正役職ではなかった。副役職の支部幹事であり、支部長代理であった。しかし、「必ず日本一の支部長にします!」と、真剣に守り抜き、誠実に支え切った。
心臓部は目に見えない。それでいて皆に力を送る。自分は脚光を浴びなくとも、友をもり立てて、目覚ましい躍進を成し遂げていく人は、最も気高き陰徳を積んでいるのである。
厳寒に負けじと、紅梅が鮮やかに咲き誇る。さあ、我らも希望の春へ!(池田先生撮影。2011年2月、都内)
厳寒に負けじと、紅梅が鮮やかに咲き誇る。さあ、我らも希望の春へ!(池田先生撮影。2011年2月、都内)
<日本一の弘教を達成した蒲田支部は、その後も壁を破り続けた>
もしも、この「二月闘争」の目覚ましい勝利が、その時だけで終わっていれば、本当の意味で「壁を破った」とは言えなかった。
しかし、蒲田支部は、その後も200世帯を突破し続けた。「三月闘争」も勝った。「四月闘争」も勝った。
そして、戸田先生の会長就任1周年の5月には、大歓喜の勢いで初めて300世帯に到達し、11月には、2月から倍増となる400世帯を突破したのである。
この蒲田の大躍進に負けじと、他の支部も次々に壁を破った。神奈川を地盤にした鶴見支部もやがて月間300世帯へ飛躍し、さらにほとんどの支部も悠々と100世帯、150世帯を超えるようになっていった。そこには、東北の仙台支部と関西の大阪支部も、新たな力として隆々と台頭してきたのである。
なお、勢いに乗り遅れた文京支部が、支部長代理となった私と共に、「前進!」を合言葉に、最強の組織へと一変したのは、この翌年のことであった。
ともあれ、青年の私は、「二月闘争」を起点として、全学会の前進・勝利の方程式を作った。
表面的な方法論ではない。学会は「一人立つ信心」そして「師弟共戦の信心」で勝つ、という永遠の軌道を固めたのである。