我らの信仰体験こそ
社会の希望の光だ。
「屢談話を致さん」
対話の花咲く座談会から
広布と人生の春を!
最蓮房御返事 P1343
『我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ』
【通解】
私たちが住んで、法華経を修行する所は、どんな所であれ、常寂光の都となるであろう。私たちの弟子檀那となる人は、一歩も歩むことなくして、天竺の霊鷲山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復されるのである。
名字の言 子母沢寬の小説『大道』と戸田先生 2020年2月9日
江戸時代の初期、土佐藩で執政に就いた野中兼山は、新田開発や産業振興などで民の暮らしを豊かにした。しかし策略によって失脚し、汚名を着せられた▼子母沢寛の小説『大道』は、野中を描いた作品で、週刊誌で発表された。子母沢は北海道厚田村(当時)の出身。感銘を受けた同郷の戸田城聖先生は、単行本として世に出したいと伝え、1940年、大道書房を設立した▼『大道』は短編ながら印象深い場面が多い。小説は、野中の言葉で終わる。「俺は人間の大道を歩いてきた。命がけで真面目に信念の上を歩き、誠実の上を歩いて来た」「大道を歩いて来たものは強い」。戸田先生の「不惜身命」の信念と重なる。先生が出版を強く望んだのもうなずけよう▼道にもいろいろある。本道と枝道、正道と邪道、王道と覇道……。牧口常三郎先生と共に軍部政府の弾圧に抗して獄中闘争を貫き、戦後ただ一人、創価学会の再建に立った戸田先生には、我こそ大道を征くとの自負があった。その心を継いだ池田先生によって、世界広布の大道は今、洋々と開ける▼11日は戸田先生の生誕120周年。「地球上から悲惨の二字をなくしたい」――畜生道の地球を、平和と共生の菩薩道の地球に変えたいとの恩師の叫びに応えることが、私たちの進むべき道である。(芯)
寸鉄 2020年2月9日
何のために―この目的観で人生の価値は決まる。勇み自他共の幸福のため
たえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給う―御書。語った分、功徳は大
民音の日。人々結ぶ文化交流で平和世紀を!推進委員の皆様の献身に感謝
運動不足で死亡リスクは増加と。今日も友の元へ。学会活動に心身共の健康
急ハンドル、急加速など雪道や凍結路では「急」が付く運転は禁物。用心を
☆勇気の旗高く 池田先生が徳島の友に贈る指針 わが胸の信念を語れ!
◇反転攻勢の烽火
<本年は、池田先生の徳島初訪問から60周年。1960年(昭和35年)12月6日、先生は大阪から船で小松島の港に入り、徳島支部の結成大会に出席した。以来、60星霜――。徳島の同志は、苦難を乗り越えるたびに、師弟の絆を強めてきた。第1次宗門事件の余燼がくすぶる81年(同56年)11月には、先生は悪侶に苦しめられてきた徳島を訪れ、反転攻勢の烽火を上げた>
この信仰だけは、勇気をもってやり抜いてください。信心の根本は、御本尊と自分との関係につきます。枝葉のことに紛動されることなく、決して負けないで、勇気ある信心をしてください。勇気のなかに一切が含まれてきます。福運も慈愛も無事故・安全も含まれてきます。
人生には行き詰まりがある。その行き詰まりを全部打開するのが題目なんです。御本尊に祈ることです。生老病死の問題も、子どもの将来も、考えればきりがないでしょう。その中で、題目だけは生涯、永遠に行き詰まりがない。だから信心しかないのです。
徳島ここにあり、というものを日本中に示したいですね。徳島に行ってみたいな、徳島は生き生きしているな、徳島の人に会ってみたいな、と言われること自体が、依正不二で、皆さんの勝利なのです。大福運を積んでいる証拠なのです。その意味で、私は、徳島を応援したいのです。
◇開拓は一人から
<73年(同48年)に行われた徳島県幹部総会。池田先生は、新たな開拓が常に「一人」から始まることを強調した>
しょせん、新しきものの建設や開拓というものは、小さくとも大きくとも、全面的に個人の力に負うものであります。あくまでも、個人が原点である。集団というものは、それを応用し実用化していくことしかできません。
昔から、新しい真理や法則というものの発見は、全て、ただ一人の個人に負っています。当然それは、数多くの人々の努力の結晶とか、伝統とか、構築というものの歴史的背景はあると思いますが、背景は背景としましても、例えば、万有引力の法則は、ニュートン一人の発見であった。相対性原理は、かのアインシュタイン一人の発見であります。皆が寄ってたかって、つくりあげたものではない。
このように、新しいなんらかの創造というものは、常に個人の手によっている。皆さん方も「これだけ大勢いるからだれかがなんとかやる」というのでは、自分自身の"本有無作の当体の生命の輝き"にはならない。自分というものをどうするかが問題です。組織は手段といってよい。あくまでも自分が原点である。そこに仏道修行の、また人間の最高の生きがいの核心というものがあるのです。
◇開かれた心
<徳島は、日本で初めてベートーベンの「第九」(歓喜の歌)が演奏されたといわれる地。第1次世界大戦で捕虜となったドイツ兵が、徳島の収容所で演奏した。先生はその背景に、徳島の人々の「開かれた心」があったと洞察する>
なぜ、この徳島で日本最初の「第九」の演奏が行われたのか?
その理由として、第九を演奏した「板東俘虜収容所」の松江豊寿所長が立派な人格者であったこと、また人々のドイツ文化を愛する心が深く強かったことなど、さまざまな理由が挙げられている。
そのうえで、ただ一点、歴史上、私が強調しておきたいのは、その背景に徳島の人々の「開かれた心」があったということである。
徳島の清らかな心の庶民は、異国の捕虜に対しても傲慢に見下すことはなかった。反対に、臆病に敬遠することもなかった。そして、捕虜の人々の進んだ生活技術や教養を、謙虚に素直に学ぼうとしたという。よい意味の好奇心、探求心をもっていた。
エンジンなどの機械の技術、ジャガイモ、トマトなどの野菜の栽培、サッカーなどのスポーツ等々、徳島の純朴な村人たちはドイツの捕虜から生き生きと学んだ。
捕虜たちは、どこに行っても、村の子どもたちから、ドイツ語で「グーテン・モルゲン(おはよう)!」と声をかけられたと回想している。すごいことである。
こうした麗しい触れ合いのなかから、あの「第九」の演奏会も、自然な盛り上がりのなかで実現していったと考えられる。
ドイツの捕虜の一人は、この徳島の民衆との交流の喜びを、ゲーテの大作『ファウスト』の一節に託して書き残している。
「はやくも村人のどよめきが聞こえてくる、
ここは民衆のほんとの天国だ。
大人も子供も大満足で、歓声がしきり、
ここでこそ私も人間、私は人間でいられるぞ!」(山下肇訳『ゲーテ全集』3所収、潮出版社)
これが徳島の人々である。まさに人格に「徳」が輝いておられる。徳島が、また四国が、どれほど素晴らしき理想の天地であることか――。
◇歓喜の連鎖を
<池田先生は随筆の中で、「歓喜の歌」を高らかに歌いつつ前進する徳島の友に、万感の期待を寄せた>
本来、「第九」は、天界の喜びの花々に包まれて誕生したわけでは、決してない。
当時の社会を見れば、ナポレオン戦争が終わったあとの、反動的な権力政治が自由を圧迫した暗黒時代であった。自由を愛する共和主義者として知られたベートーベンには、常時、警察の監視がついていたし、一度などは、実際に留置されたこともあったようだ。
彼自身も、病苦やスランプや親族の悩みに悶えていた。
「喜びは、苦悩の大木にみのる果実」(アンドレ・モロワ著、辻昶・横山正二訳『ヴィクトール・ユゴーの生涯』新潮社)とは、文豪ユゴーの名言である。
ベートーベンは、懊悩の溶鉱炉から、永遠なる歓喜の宝光を輝かせていく。
今こそ、重き苦悩の雲を吹き払え! 鉄の鎖を断ち切れ!
断固として、夜明けの光を、新しき希望の歌声を!
彼は叫んだ。
――もっと快い、もっと歓びに満ちたものを歌い出そうではないか!
苦悩を突き抜けて歓喜へ!
「わが心は本来、仏なり!」「我ら広布の大使命に生まれたり!」と自覚することこそ、無上最高の喜びである。
それを、大聖人は、「歓喜の中の大歓喜」(御書788ページ)と仰せである。
「煩悩即菩提」である。試練に負けず、勇気をもって苦難に打ち勝つ、その時、自分らしい「歓喜の歌」が、わが生命の青空に轟き渡るのだ。
ベートーベンは、「心より来る! 願わくは更に心へと赴かんことを!」(原田義人訳『ベートーヴェンの言葉』創元社)と祈った。
「歓喜」もまた、心の奥からあふれ出し、心から心へ、友から友へ、飛び火していく。
歓喜は、勇気の火花であり、雄々しき戦いの閃光である。
わが胸の信念を語れ! 正義と真実を叫び抜け! 自由の炎で邪悪な壁を焼き尽くせ!
文豪ロマン・ロランは「フランス大革命は『歓喜』から発した」(「第九交響曲」蛯原徳夫・北沢方邦訳『ロマン・ロラン全集』25所収、みすず書房)と洞察した。
我らの妙法の広宣流布は、生命の「歓喜の中の大歓喜」に発して、全人類待望の「人間革命の世紀」「人間勝利の世紀」の無上の扉を開いていく行動である。
自分が存在するその場所で、断固として、正義の旗、栄光の旗を打ち立てながら!
徳島、万歳!