2020年2月8日土曜日

2020.02.08 わが友に贈る

宝の未来部を大切に。
「応援しているよ!」
との励ましの声こそ
大樹と育ちゆく滋養。
成長を信じ抜こう!

教行証御書 P1282
『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』

【通解】
日蓮の弟子等は、臆病であってはならない。

名字の言 森繁久彌さんの舞台での痛恨の思い出 2020年2月8日
ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」で主役を演じた俳優の森繁久彌さんには、痛恨の思い出があった。地方公演でのこと。客席の前列に座った少女がずっと下を向き、居眠りしている様子。不快になった森繁さんたちは、彼女のそばでわざと声を張り上げ、床を強く踏み鳴らし、"起きろ"と言わんばかりの芝居をした▼芝居が全て終わった時、やっと顔を上げた少女。その両目は閉じられていた。居眠りに見えたのは、盲目ゆえに、神経を耳に集めて聞き入っていたから。"なぜ気付けなかったんだ"。森繁さんは自らを恥じ、心で泣いた(『人師は遭い難し』)▼ある地区の座談会。いつも来ている女子部員の姿がない。"あら?"。気になった地区婦人部長が、座談会を終えた足で女子部員が暮らすアパートへ。すると部屋で一人、ふさぎ込んでいた。仕事で失敗し、苦しかったという▼地区婦人部長は懸命に激励した。女子部員は「すぐに駆け付けてくれた真心がうれしくて」と涙。そして笑顔を取り戻した▼友が発する言葉、しぐさ、表情、行動……。その小さな変化に大きな意味が隠されていることがある。だからこそ、絶えず一人一人の幸福を祈り、心のアンテナを広く張り、励ましを送りたい。皆が人材、皆が宝なのだから。(誠)

寸鉄 2020年2月8日
腹を据えよ。何があっても戦うとの心が一番大事—恩師。まずは祈りから
きょう沖縄の日。模範の友好広げる広宣の同志よ勇気の対話で勝利の舞を
偉大な精神は偉大な精神で形成—詩人。広布の組織は己磨く善知識の集い
"脱プラ"の取組が拡大。エコバッグ、マイボトル等、できることから実践
各地でひったくり頻発。鞄は建物側、自転車には防犯網を。絶対無事故で

☆心に御書を 第19回 苦難に揺るがぬ大境涯を
〈御文〉
『今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり』(御義口伝、750ページ)

〈通解〉
今、日蓮と門下が妙法蓮華経を修行するのに、難が襲ってくることをもって、安楽であると心得るべきである。

〈池田先生が贈る指針〉
若き日、日記に書き留めた一節である。男子部大学校や白蓮グループなどで奮闘する尊き後継の若人に贈りたい。
青春時代の鍛錬は一生の財宝だ。なかんずく、どんな苦難にも揺るがない仏の大境涯を築きゆけるのが仏道修行である。
創価の道を最高の同志と恐れなく! 無上の充実と永遠の福徳を勝ち開いてくれ給え!

☆2月度座談会拝読御書 諸法実相抄
拝読御文
『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』(御書全集1361ページ11行目〜13行目)

◇[池田先生の指針から] 自らの全力を尽くす
信・行・学の大道を、喜び勇んで前進したい。そのなかで、新しい人材を育てていきたい。折伏は、難事中の難事である。たとえ、思うような結果がすぐには出なくとも、くよくよする必要は、まったくない。
戸田先生は、厳然と断言なされていた。
「苦しみにあえぐ民衆を、永遠に根本から救うことは、平凡な動機などでは考えられぬ大事業だ。これ以上の大事業がどこにあるのか!」
最極の仏の聖業を成し遂げていく誇りに燃えて、伸び伸びと、また朗らかに、そして自信に満ち満ちて、「幸福」と「希望」と「平和」の対話を、幾重にも広げてまいりたい。
(『池田大作全集』第100巻所収、婦人部代表幹部協議会でのスピーチ)

◇ ◆ ◇ ◆ ◇
牧口先生は、この「諸法実相抄」の「行学の二道」が示された御書のページに、二重丸を付けられていました。
戸田先生も、御書全集の「発刊の辞」で「創価学会は初代会長牧口常三郎先生之を創設して以来、此の金言を遵奉して純真強盛な信心に基き、行学の二道を励むと共に如説の折伏行に邁進して来たが、剣豪の修行を思わせるが如きその厳格なる鍛錬は、学会の伝統・名誉ある特徴となっている」と、つづられています。
学会に、大聖人の峻厳なる精神が流れ通ってきたのは、ひとえに「行学の二道」に邁進してきたからです。

◇ ◇ ◇ 
自行化他にわたる行学の実践こそ仏法の魂です。
宗教とは、自分だけが信仰すればいいというものではありません。自分だけが覚り、あとの人のことは知らないという、自分勝手な仏などいない。仏の智慧は、どこまでも全民衆を幸福に導くためのものだからです。
牧口先生・戸田先生の獄中での行学の実践こそ、創価学会が大聖人直結である、明確なる証です。わが学会は、この御文の通りに永遠に「実践の教学」の団体です。
「行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」とも仰せです。「信」は、行学という具体的な実践に現れます。
「力あらば」とは、力があるとか、ないとかなどではありません。「力の限り」という意味です。自らの全力を尽くすのです。
教学が苦手だからと、臆する必要もない。自分が御書を拝し感動したこと、仏法を実践して学んだことでよいのです。「信心は楽しい」「願いは絶対に叶う信心です」等と、一言でもいいから、語っていくことです。(『信仰の基本「信行学」』)

◇「信心は楽しい」と一言でも語ろう
◇[キーワード1]行学錬磨で前進
信心の実践にあっては、信行学が基本です。
その中でも御本尊を信じる「信」がその根本です。「信」が大事であるといっても、形として目で見ることはできません。だからこそ「信」を日々、強く、深くしていく具体的な修行が大切なのです。
大聖人は本抄で、"行学の二道の実践がなければ信心ではない"と、具体的な修行の大切さを訴えています。
行学といっても、信心の発露として現れるものです。
その上で、自行化他にわたる唱題行、そして教学の研さんに励む中で、身をもって妙法の偉大さ、正しさを知り、信心を深化していくことができます。
さらに、信が深まれば、"もっと唱題に励みたい""教学を学びたい""あの人に信心の話をしよう"と、行学実践の勢いが増します。
このように、信から行学の実践が生まれ、その修行によって信が深まり、深まった信によって修行への情熱がわくのです。
信行学という基本に徹する時、私たちは信心を常に磨き輝かせていくことができるのです。それは常に人間革命し、成長していく姿に他なりません。
行学錬磨に励む人は、日々、前進の人です。ゆえに、あらゆる障魔を打ち破り、明るく朗らかに、輝いていくことができるのです。

◇[キーワード2]大聖人直結の生き方
今回拝する「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」は、本抄の末尾の一節で、門下に弘教の実践を促している箇所です。
「力あらば」とは、私たちの信心の実践で拝せば、力の限り、全力を尽くすという意味です。随力演説であり、随力弘通です。一人一人が持てる力を奮って語りに語っていくのです。
"そんな力は私にはない"と思う人もいるでしょう。大聖人は他の御書で、「師子王の心を取り出して」(1190ページ)と仰せです。だれもが汲めども尽きぬ仏の智慧と力を具えています。生命から力を取り出すカギは、大聖人直結の信心です。
本抄の追伸で大聖人は、「日本国の男女を・みちびかんとおもへばなり」(御書1361ページ)と、民衆救済の慈悲心から筆を執られたと述べられます。
さらに「まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う」(同1362ページ)と仰せです。大聖人の弟子であることは、深き縁で結ばれているのです。
大聖人直結の信心とは、この師弟の宿縁に目覚め、大聖人と同じように慈悲の心で、妙法を自分の持てる力の限り、語り抜いていく菩薩の生き方に脈打つのです。
現代にあっては、全民衆の幸福と世界の平和を願い、広宣流布に邁進する学会の同志こそが、大聖人直結の生き方を貫いていることは間違いありません。