2020年2月17日月曜日

2020.02.17 わが友に贈る

◇今週のことば
「一文一句なりとも
かたらせ給うべし」
声が仏の仕事を為す。
誇りと自信をもって
希望の大哲学を語れ!
2020年2月17日

同生同名御書 P1115
『人の身には同生同名と申す二のつかひを天生るる時よりつけさせ給いて影の身にしたがふがごとく須臾もはなれず、大罪小罪大功徳小功徳すこしもおとさずかはるかはる天にのぼて申し候と仏説き給う、此の事ははや天もしろしめしぬらん、たのもししたのもしし』

【通解】
人の身には、同生と同名という二人の使いを、天は、その人が生まれたときからつけておられ、(この二人の神は)影が身に随うように、寸時も離れず、その人の大罪・小罪・大功徳・小功徳を少しもおとさず、かわるがわる天に昇って報告していると、仏は説いておられます。このこと(=日眼女が夫の四条金吾を佐渡までつかわせたこと)は、すでに天も知っていることでありましょう。まことに、頼もしいことです。

名字の言 飛行機が飛べるようになったのは、なぜ? 2020年2月17日
上空に小さく見えるジェット機。なぜ、あんなに重そうな"機械"が空を飛べるのか不思議に思うことがある。ライト兄弟の有人動力飛行から117年。考えてみれば、人類史のほとんどで、人は空を飛べないのが"常識"だった▼有史以来、多くの人が空に挑んでは失敗し、嘲笑された。ライト兄弟の"成功"に対しても、飛行距離の短さや目撃証人の少なさから、当時の科学者やマスコミは"機械が空を飛ぶことは科学的に不可能"と冷淡だったという▼こうした歴史を踏まえ、神戸大学の中屋敷均教授は、理論的に飛行が可能だったから人が飛行機を造ったのではない、と強調する。「『分からないこと』を含んだまま、人は飛んだのだ」「人は飛べるから飛んだのではない。飛びたいから、飛んだのである」(『科学と非科学』講談社現代新書)▼先人の飽くなき努力を思うとともに、不可能を可能にする人の共通点に気付く。それは、困難の壁を前にしたとき、"突破できるかどうか"ではなく、"突破するにはどうするか"と考えていること。その胸には、やむにやまれぬ情熱が燃えている▼広布の道もまた、創価の師弟が誓願の祈りで、不可能を可能にしてきた歴史。まず"壁を破る"と決めて祈り、ダイナミックに行動しよう。(文)

寸鉄 2020年2月17日
本当の決意込めた題目を—戸田先生。壁破る秘訣ここに。必ず勝つと決め
男子部大学校・白蓮Gが各地で入卒式。新しい力の台頭。共に拡大に挑戦
農漁光部の日。食を支え、命を守る同志に最敬礼。健康・長寿・大福徳を祈る
流感と同様の対策が新型肺炎の感染防ぐ—専門家手洗い等励行。小事から
東京五輪を復興五輪に—期待の声高まる。東北と共に不撓不屈の心を発信

☆2月度「御書講義」の参考 諸法実相抄
◇人を救う使命に立てば勇気も湧くし力も出る
2月度の「御書講義」では「諸法実相抄」を学びます。拝読範囲は「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし……釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏菩薩・虚空にして二仏うなづき合い、定めさせ給いしは別の事には非ず、唯ひとへに末法の令法久住の故なり」(御書1360ページ6行目〜13行目、編年体御書549ページ6行目〜13行目)です。ここでは、学習の参考として、本抄の背景と大意、さらに理解を深めるための解説を掲載します。

◇背景と大意
本抄は、文永10年(1273年)5月、流罪地・佐渡で著され、最蓮房に与えられたお手紙とされています。
また、最蓮房については、天台宗の学僧でしたが、何かの理由で佐渡に流され、そこで日蓮大聖人と出会い、弟子になったと伝えられています。
追申に「日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ」(御書1362ページ)と記されているように、大聖人の仏法の肝要の法門が示されているのが本抄です。
はじめに、法華経方便品第2に説かれる「諸法実相」の法理に関して、"地獄界から仏界までの十界のあらゆる衆生と、その衆生の住む世界"(諸法)が、そのまま、ことごとく「妙法蓮華経」(実相)の姿であることが述べられています。
続いて、末法にあって、地涌の菩薩の上首(リーダー)である上行菩薩が弘通すべき妙法を、大聖人が弘め、御本尊を顕したことが示され、御自身が「地涌の菩薩のさきがけ」(同1359ページ)であると述べられます。
更に、大聖人と同じ心に立って、自行化他にわたる唱題の実践に励む人は皆、地涌の菩薩であり、「二人・三人」と妙法が弘まっていく「地涌の義」によって、必ず広宣流布が実現することは間違いないとの確信を示され、どこまでも法華経に身を任せていくよう促されます。
最後に「信・行・学」が仏道修行の根本であることを述べられ、信心強盛に行学の二道に励んでいくよう勧められて本抄を結ばれています。

◇参考1 地涌の菩薩
「地涌の菩薩」とは、どういう菩薩なのでしょうか。
法華経の従地涌出品第15で、突然、地から涌出した無数の立派な菩薩のことです。
涌出品で、説法の場に居た無数の菩薩が、"仏の滅後に、娑婆世界で法華経を弘通したい"と、釈尊に請います。
しかし釈尊は、"止めなさい。あなたたちに、この法華経を護持させるわけにはいかない"と、その願いを退けました。
そして"この娑婆世界には、私の滅後に法華経を説く、無量の菩薩がいる"と、末法に弘通を託すべき本物の弟子である菩薩がいることを宣言します。
そして、大地から立派な姿で涌出した菩薩が、「地涌の菩薩」です。
それぞれが六万恒河沙という無量の眷属(仲間)を率いています。
これらの無数の地涌の菩薩の上首(リーダー)が上行・無辺行・浄行・安立行という四菩薩です。
「地涌の菩薩」とは、仏滅後、なかんずく末法に妙法流布の使命を担い、この世に出現した尊い存在なのです。

◇参考2 難問答に巧み
なぜ釈尊は、他の菩薩に、滅後の弘通を託さなかったのでしょう。
それは、仏の滅後に法華経を受持することが、難事中の難事だからです。ゆえに釈尊は、自ら教化してきた直弟子の「地涌の菩薩」に末法悪世の弘通を託したのです。
法華経には「地涌の菩薩」の特質が記されています。「志が固い」「偉大な忍耐力がある」「蓮華が泥水に染まらずに咲くように、濁世にあって世俗に染まらない」「種々の法を説いて畏れる心がない」「難問答に巧みである」……。
悪世末法にあって、本抄に説かれるように「地涌の義」を現実にできるのは、これらの特質を具えた「地涌の菩薩」だからです。
法華経で妙法流布を託された通りに、末法の初めに出現して、南無妙法蓮華経を万人に説き、御本尊を顕され、不惜身命で弘通されたのが、末法の御本仏である日蓮大聖人です。
この意義から、大聖人御自身こそ「地涌の菩薩」、なかんずく上行菩薩に当たります。
さらに「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御書1360ページ)と仰せの通り、大聖人と同心で戦う同志も「地涌の菩薩」なのです。

◇参考3 仏と師弟不二
仏の願いは、「令法久住」、つまり未来永遠にわたって妙法が伝えられるようにすることです。
池田先生は語っています。
「仏という『一人』から『全民衆』への正法広宣流布を担うのは、いかなる国土であってもつねに『地涌の菩薩』なのです。
それはなぜか。『地涌の菩薩』とは、内証の境涯が『仏』と同じでありながら、しかも、どこまでも『菩薩』として行動していくからです。いわば『菩薩仏』です。
境涯が『仏』と師弟不二でなければ、正法を正しく弘めることはできない。しかも現実の濁世で、世間のなかへ、人間群のなかへと同化して入っていかなければ広宣流布はできない。この両方の条件を満たしているのが『地涌の菩薩』なのです」(『法華経の智慧』普及版<下>)
「地涌の菩薩」として、三世にわたる師弟の宿縁を自覚した時、宿命を使命と輝かせることができます。
どこまでも民衆の中に入って、目の前の一人に同苦し、救わんと奮闘する生命に、仏界が涌現するのです。

◇池田先生の指針から
1、同じ心で戦う人
日蓮大聖人は仰せです。
——このたび、信心をしたからには、いかなることがあろうとも、「法華経の行者」として生き抜き、「日蓮が一門」との最高の誉れの人生を歩み通していきなさい、と。
私たちは、ひとたび決めたこの道を、誇り高く厳然と進んできました。
そして「日蓮と同意」、すなわち大聖人と同じ心で広宣流布に戦う人は「地涌の菩薩」であり、「釈尊久遠の弟子」にほかなりません。
私どもも、何ものも断ち切ることのできない、永遠の生命の絆で結ばれた宿縁の師弟として、共に広宣流布の誓いに生き抜く同志であります。
まさに創価学会は、「日蓮と同意」のままに、大聖人の御遺命である広宣流布実現へ、不惜の行動を貫いてきました。
しかも、妙法五字を弘める地涌の大使命にあっては、「男女はきらふべからず」(御書1360ページ)と仰せのごとく、男女の分け隔てなど、いかなる差別もなく、万人が平等に尊い地涌の活躍の舞台を現出してきたのです。

2、なんと偉大な誓願
「時」をいえば悪世末法、その「国土」をいえば娑婆世界が、地涌の菩薩の使命の舞台です。一番大変な条件を選んで、一番苦しんでいる民衆のために"今ここで戦う"と立ち上がったのです。
仏法は「願兼於業」を説きます。
人々を救うために自ら願って困難なところに生まれたのであると、受動的な人生から、自発能動の人生に転換するのです。自らの誓願で「宿業を使命に変える」のです。
久遠の使命の自覚によって、新たな自分に生まれ変わる。自身の発迹顕本をして、本当の自分の力を解き放つのです。
地涌の生命に目覚めた人に、何も恐れはありません。多くの人を救う使命に立てば、勇気も湧くし、力も出る。
なんと不思議な宿縁でしょうか。
なんと偉大な誓願でしょうか。

◇ ◇ ◇
地涌の使命は、あまりにも大きい。あまりにも崇高です。民族や人種、国籍や性別など一切の差異を超え、生命の大地の奥深くに広がる大いなる創造的生命——人類共通のルーツに基づく使命といってもよい。それに気づくことを「地涌」というのです。
いかなる人も尊極の生命の当体です。互いに励まし合い、尊敬し合いながら、今この地上に生きる仲間として、自他共の無限の可能性を開き、幸福と平和という価値を創造する底力がある。偉大な使命があるのです。
その使命に生きることを誓って現実社会に躍り出たのが、私たちなのです。
(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第17巻)