2015年6月24日水曜日

2015.06.24 わが友に贈る

広布の城を支える
「守る会」の友に感謝!
暑い日は水分補給など
熱中症の対策を万全に。
どうか健康第一で!

上野殿御返事 P1561
『とにかくに死は一定なり、其の時のなげきはたうじのごとし、をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへちりを大地にうづむとをもへ』

◇人生の座標
人間主義、人間原点の社会をつくるには、指導者が本格的な大文学を読んでいかなければならない。これは非常に重要なことなのです。海外の人は、よく読んでいます。日本人は「読んだふり」をしているだけの人が多い。

☆こころに響く言葉
私には絶望がない

私にはけっして絶望がない
無限に開く
信仰があるからだ

☆「生きる」とは戦うこと 第1回
池田名誉会長は綴っている。「人生には、困難も波瀾もある。病に倒れることもあれば、仕事のうえでの行き詰まりもある。職場、地域、家庭での人間関係で悩むこともある。生きることは戦いであり、人生は戦場である」(小説『新・人間革命』第26巻 「法旗」の章)と。連載「生老病死を見つめて」では、今回から「『生きる』とは戦うこと」をテーマに、病や苦難にも屈しない学会員の「心の強さ」について考察していきたい。

◇突然の「宣告」に動揺
突然の病を宣告された時、人はその事実を受け人れられず、驚き、呆然としてしまう。
″なぜ、自分が?″″家族は、仕事はどうするのか?″……。
不安や恐怖などの感情が入り交じる中で、「死」という現実が迫ってくるのも、この時だ。こうした苦難に直面した時にこそ、人間の真価は現れる。現実を受け入れて病に挑むのか、それとも、諦めて逃げるのか???。

今回、取材した中嶋保富さん(兵庫・東神戸総県副総県長、66歳)は、2001年(平成13年)、「悪性リンパ腫」と診断された。 病状は、全身のリンパ節が「がん細胞」に侵されていて末期状態だった。医師からは「生存率は低く、手術ができないため、抗がん剤治療しか方法はない」と説明されたが、その言葉は途中から耳に入ってこなかった。

1963年(昭和38年)に入会した中嶋さんは、「高等部1期生」の誇りを胸に、71年から小学校の教員に。その後、妻・房子さん(総兵庫婦入部副総合長)と結婚し、1男1女に恵まれた。病気が判明した当時、学会では区長を務め、職場では教頭として多忙な日々を送っていた。
「健康にだけは人一倍、自信があったので、ショックでした。主治医の説明を聞きながら、『なんで自分が?』との疑問が浮かんできました。『このまま死んでたまるか』と思う半面、『職場はどうしよう』といった不安が交錯し、しばらく混乱状態でしたね」

◇病気は仏のお計らい
病気は、一般的には悪い状況と捉えられがちである。しかし、日蓮大聖人は『この病は仏のお計らいだろうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には、病がある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである』(P1480、通解)と仰せである。
病気を患うことによって、人間は人生の意味を見つめ、生命の尊厳に目覚め、充実した人生を歩むきっかけにしていくことができる。それが、この信心の偉大さでもある。
医師からの宣告後、中嶋さんは自宅に戻って妻と唱題に励んだ。しかし、不安や疑問は完全には拭いされなかった。そんな時、先輩幹部から指導を受ける機会があった。
先輩は先の御文を通して、病気になった「意味」を語ってくれた。さらに病を乗り越え、宿命転換していく祈りの観点を教えてくれたという。
「第1に、『転重軽受への感謝の題目』 第2に、『過去世の謗法に対する懺悔の題目』。第3に、『生涯、広宣流布のために戦うという誓願の題目』です。
さらに先輩は、『″広布に戦うため、健康で福運ある人生を歩ませてください″ ″広布を阻む一切の障魔を打ち破り、わが身から病魔よ出ていけ!″と、強い祈りを込めた題目を唱えていこう』と励ましてくれました」
病になって感謝する−本来、これほど矛盾する話はない。中嶋さんも、「『感謝の題目』と言われた当初は、意味がよく分からなかった」と振り返る。
だが、祈りが深まるにつれて、「病気になったことも、全て転重軽受なのだ」と思えるようになり、「病気になったことが不幸ではない」と思い始めた。
「唱題を続ける中で、自身の来し方を見つめ直し、自分がいかに多くの同志に支えられてきたのかを実感しました。また、信心に巡り合えた喜びと感謝が勇き起こってくると同時に、教育者として広布に生き抜くという使命を果たすためには、『絶対に負けられん』『死ぬわけにいかない』と腹が決まったのです」

◇「必ず生き抜く」と決意
抗がん剤治療では不思議と副作用はなく、3ヵ月で退院できた。その後は、自宅療養と通院治療をしながら、完治を祈り続けた。
中嶋さんの病を機に長女・華子さん(関西女子部主任部長)と長男・光弘さん(男子部部長)も、これまでにない唱題に挑戦。「一家で信心に励めるようになったのも、病のおかげかもしれません」と中嶋さんは語る。
入院から半年後には、医師から「寛解」との診断が。さらに翌年、中嶋さんは教頭として新たな職場に復帰。その後、校長に昇進することもできた。

実は、がんなどの闘病で、精神的なショックが大きいのは「再発」だといわれる。
中嶋さんが校長になって2年目の冬、恐れていた再発が分かった。この時は5日間の入院で済み、通院しながら抗がん剤治療を続け、寛解を勝ち取った。
2度目の再発は、2007年12月、定年まで残り1年という状況で、大腸に新たな腫瘍が発見された。それでも中嶋さんの心に、動揺はなかったという。
「使命の自覚は人を強くします。最初の宣告で、あれほど心が乱れたのに、再発の時は冷静でした。とにかく、『病に立ち向かっていこう』『使命を果たすために生き抜こう』という気持ちだけで、死の恐怖はありませんでした」

一方、妻・房子さんはこう振り返る。
「正直言って、2度目の再発はショックでした。同時に″宿命との戦いは、簡単には終わらないのだ″と実感しました。だから、病に打ち勝つまで祈り抜き、戦い抜こうと決意したのです」
幸い、大腸の腫瘍は、これまで同様のリンパがんであると分かり、抗がん剤治療に取り組んだ。
時を同じくして、池田名誉会長からは「生き抜けや/断固生き抜け/勝ち抜けや/一家の幸福/我も祈らむ」との和歌が届き、大きな心の支えとなった。
2度目の再発から7年。現在、中嶋さんは元気に広布の第一線を歩き、同じ病で悩む友に、自身の体験を通して励ましを送る。仕事も定年まで校長を務め上げ、その後は児童館館長などを歴任。今も、子どもたちの育成に全力で取り組んでいる。
「闘病の中で、私は人生で一番大事な『感謝の心』を学びました。信心の素晴らしさや学会と共に生き抜くすごさを、あらためて実感したのも、全て病のおかけです。病が私自身の人生を変え、わが使命を教えてくれたのだと思います」