青年が動けば
時代は必ず変わる。
新しい歴史は生まれる。
何事も諦めない執念で
勇敢に打って出よ!
三世諸仏総勘文教相廃立 P564
『心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う』
◇人生の座標
母は太陽です。太陽は輝いてこそ太陽です。
☆100文字の幸福抄
逃げ出したくなった時、
苦しさに負け、心を曇らせてしまうのか、
心を磨き輝かせていくのか。
その微妙な違いで、人生は大きく変わる。
目標を決めたら、まっすぐ進む。
その強気心が
家庭や子どもの未来を輝かせていける。
☆未来の翼〜世界が君を待っている〜 第13回 中国・桂林の山河�
新入生の皆さん、入学おめでとう! 進級した皆さんも、「いよいよ」の心で新出発だね!
皆さんは、一年ごとに、友情のスクラムを快活に聡明に広げゆく青春であり、人生であってください。その一つの秘訣があります。
それは、「古い友人を大切に、新しい友人をつくる」ことです。この世で最も尊く、最も美しいものは友情です。友情こそ人生の勝利と栄光の縮図でありましょう。
友情を大切にする人こそ、真の世界市民です。平和の創造者なのです。
一口に友情といっても、国と国の友情もある。政治や経済の次元での交流もある。それはそれで大事だが、それだけでは弱い。時に、力や利害が幅をきかせて、ぶつかってしまうことがあるからです。
だから、人と人を結ぶことです。文化や教育の交流で、人間と人間、民衆と民衆、青年と青年が友情で結ばれていれば、平和は揺るがない。私が、お隣の国・中国との友好を訴え、10回にわたり訪問してきたのも、この信念からです。
35年前の1980年の4月、私はお招きを受けて、5度目の訪中の旅に出ました。
連日、諸行事や会見が続く中、中国側のご配慮で景勝の地「桂林」を案内していただきました。
「桂林の山水は天下に甲(かん)たり」——その山水は天下第一なりと、讃えられた桂林です。地面から突き出たように天に伸びる山々が、漓江(りこう)の静かな流れを帯のようにまとっていました。
川下りの船着き場に下りていくと、岸辺で子どもたちが遊んでいました。一緒に記念のカメラに納まり、「一生懸命に勉強して、立派な人になってくださいね」と、一人一人に声を掛け、ささやかな日本のおみやげを渡しました。
船を待っていると、今度は、2人のかわいらしい薬売りの乙女に出会いました。
利発な彼女たちが、「薬は何でもそろっています。お好きなものをどうぞ」と言うので、私は自分の頭を指さしながら、ユーモアを込めて、「それでは、頭の良くなる薬はありませんか」と尋ねました。すると、にっこり笑って、こう言うではありませんか。
「その薬なら、たった今、売り切れてしまいました!」と。
明るい笑顔が広がりました。
あたりは春の雨で、煙っています。案内してくださった方が、「煙雨の桂林が、一番、美しいのです」と教えてくれました。
船に乗ると、中国の山水画そのものの世界が広がっていました。いつしか雨は上がり、霞がかった奇峰の数々が水面に影を落としていました。両岸には人々の生き生きとした生活がありました。
終点の陽朔(ようさく)に着くころには、時折、日も差してきました。漓江の川面が青磁色に光り始めました。晴れてもまた美しい桂林でした。
船着き場を下りて、名残を惜しんで漓江を振り返ると、戻る船が一艘、進んで行きます。
——旅人を楽しませる知恵、温かくもてなす心に満ちた中国の人と大地に感謝しつつ、私はシャッターを切りました。
実は、桂林の一帯は、3億年前は海底だったそうです。やがて石灰岩の巨大な大地が地殻変動で隆起し、水の浸食によって長い時間をかけて、不思議な形の山々が生み出されたといいます。
長遠な大自然の営みによってつくられた偉観を眺めつつ語り合った中国の友人が、お国の故事成句を教えてくれました。
「兼聴則明、偏聴則暗(あわせ聴けばすなわち明るく、偏り聴けばすなわち暗し)」——多くの人と出会い、広い心で意見を聞けば理解が深まる。一方の話だけ聞いているだけでは、物事は明らかにならない、という意味です。
悠久の中国の歴史が育んだ「平和の知恵」が光っていました。
思えば、1974年の5月から6月にかけて、私が初めて中国を訪れた時、首都・北京で私は一人の少女に、こう尋ねられました。
「おじさんは、中国に何をしに来たのですか?」
私は即座に答えました。
「あなたに会いに来たのです」
私の偽らざる真情でした。その通りに私は、中国の首脳や各界の指導者とお会いする一方、庶民の方々とも、青年や児童たちとも可能な限り語り合いました。
ある時は、大学で学ぶ学生たちと、またある時は、工場で汗をにじませて働く労働者とも。
全長約430キロの大河・漓江は、遠くから眺めると、流れているのかどうかわからないほどです。しかし、確かな大きな力で、岩を削り、大地を潤し、絶えず上流から下流へと進んでいます。
私が対談した大歴史家のトインビー博士は、真に歴史を創るものは、目立たない「水底(みなそこ)のゆるやかな動き」であると言われていました。世間をにぎわすニュースや出来事は、むしろ流れの表面にすぎないと達観されていたのです。
そして博士から私は、たとえ地味であっても、心と心を深く結びゆく対話と友情を、さらに世界へ広げることを託されました。
日蓮大聖人は、『他人であっても心から語り合えば、かけがえのない命にも替わりうるのである』(P1132、通解、「呵責謗法滅罪抄」)と仰せです。一対一の友情と信頼が集まれば、友好の大河となります。そこに、押しとどめようのない平和の流れが生まれます。新たな友情が、新たな歴史を創るのです。
中国の「人民の父」周恩来総理、「人民の母」�穎超先生ご夫妻と私は、黄金の友情を築くことができました。
中国は、日本と2000年以上のお付き合いがあり、漢字や仏教など、私たちがさまざまなことを学んできた「文化大恩の国」であり、「兄の国」です。
その国を第二次世界大戦で、日本の軍部政府は蹂躙しました。戦火は美しき桂林にも及び、5回の渡海の失敗を乗り越えて日本に仏教を伝えた鑑真ゆかりの寺も、大半を消失しました。この残酷な歴史を、私たちは決して忘れてはいけません。
1968年9月8日。私は信頼する後継の青年たちの前で、「日中国交正常化提言」を発表しました。当時の日本政府は中国を敵視しており、私は、世間から嵐のような非難中傷を受けました。
そんな中、私の提言に注目し、高く評価してくださった方が、周総理でした。後にそれが、両国の国交正常化(72年9月)のきっかけの一つとなりました。
総理は、中国とアジア、ひいては世界の行方を決定づけた「20世紀の諸葛孔明(『三国志』の名宰相)」ともいうべき方でした。
新中国が誕生した49年に、総理兼外務大臣に就任されました。「生命不息 戦闘不止(命ある限り、戦いを止めず)」との信念のまま、民衆に尽くし抜き、76年1月に逝去されるまで総理を務められたのです。