「湿れる木より
火を出し」御聖訓。
信心とは不屈の精神だ。
強盛なる祈りで
逆境をはね返せ!
善無畏三蔵抄 P883
『日輪東方の空に出でさせ給へば南浮の空皆明かなり大光を備へ給へる故なり』
◇人生の座標
「成長しょう」と努力する女性は、人生のどんなときをも、最高に輝かせていける。反対に、自己の成長を願わず、目先の楽しみだけを追い求める人生の、どこが幸福であろうか。
☆100文字の幸福抄
真剣に誠実に生き切った
父母たちの尊き人生は、
家族という生命の大地に還る。
そして後継の世代へ、
永遠に豊かな心の滋養を贈っていく。
家族とは、志を同じくし、励まし合い、
助け合う人間の絆といってもよい。
☆希望の虹〜世界の偉人を語る〜 第13回 童話の王さまアンデルセン
この物語は、アンデルセンが、自分の人生をふりかえって書いたものといわれています。
アンデルセンは今から210年前の1805年4月2日、オーデンセという町に生まれました。まずしいくらしでしたが、両親の愛情をたっぷり受け、幸せな日々を送っていました。
お父さんは読書が好きで、幼いアンデルセンに『アラビアン・ナイト』などの本を読んでくれたり、おしばいに連れて行ってくれたりしました。だから、小さいころから本やおしばいが大好きになりました。
でも、お父さんはアンデルセンが11歳の時、病気で亡くなってしまいます。生活はさらに苦しくなりました。そのなかで、お母さんが必死に働いて、育ててくれたのです。
ある時、コペンハーゲンの劇団が町にやってきました。アンデルセンは、その劇に感動し、自分も役者になろうと決意しました。そして14歳で役者を目指し、コペンハーゲンへ、旅立ったのです。
しかし、その夢は、あっけなく消えてしまいます。どこにも、やとってもらえません。食べるものにもこまる日々が続きました。でも、アンデルセンは、へこたれません。
役者がだめなら、劇の作者になろう——彼は一生けんめいに、物語を書いて、劇場へ送り続けました。すると、その一つが認められ、学校に行かせてもらえるようになったのです。
この時、アンデルセンは17歳。学校では、四つも、五つも年下の子どもたちといっしょに、勉強をしなければなりませんでした。
一人だけ年上で、体が大きかったせいか、いじわるな先生にからかわれたり、いじめられたりしました。それでも、勉強を重ね、23歳で大学に合格することができました。そして、大学にいる時から、小説や詩、童話をたくさん書きはじめました。
失敗も多かったけれど、負けずにがんばるアンデルセンには、応援してくれる人がいっぱいいました。その人たちにささえられて書き続け、やがて、世界中の子どもたちに読みつがれる大作家へと成長していきました。
「みにくいあひるの子」のようにいじめられたアンデルセンが、みごとな「白鳥」となって、世界文学の大空へ羽ばたいたのです。
自分が人とちがうことで、いじめられることがあるかもしれない。しかし、そんな"いじめ"や"差別"は、絶対にまちがっています。だから、断じて負けてはいけない。
みんなは、自分にしかない、すばらしい"宝もの"をもっています。その"宝もの"を最高にかがやかせるのが、題目の力です。今は分からなくても、いつか、必ず分かる時がきます。
アンデルセンは記しています。「私の今までの生涯には晴れた日も曇った日もあった。けれども、すべてはけっきょく私のためになった」と。
どんな時も希望をもって挑戦する人が、偉い人です。何があっても挑戦を続ける人が、最後に必ず勝利する人です。夢をもち続け、へこたれないで努力するかぎり、苦しいことも悲しいことも全部、自分の成長の力に変えられます。
現在、アンデルセンの誕生日である4月2日は「国際子どもの本の日」となり、日本ではその日をはさんだ2週間を「絵本週間」として、絵本に親しむようにしています。
この4月2日は私の師匠・戸田城聖先生の亡くなられた日です。私は、戸田先生が経営する出版社で働き、21歳の時、少年雑誌の編集長になりました。子どもたちにとって、おもしろくて、ためになるものをつくり、夢と希望を送ろうとがんばりました。
私が、これまで童話をつくったり、こうして今、「希望の虹」を書いたりするのも、この時の誓いがあるからです。私の願いは、まったく変わりません。
いよいよ楽しい一学期です。
少年少女部のみなさん全員が、笑顔の1年間になるよう、私も妻も一生けんめいに題目を送ります。、
アンデルセンは書きました。
「小鳥のつばさが窓をうつ/外へ出よう、いますぐ!/知識の実は外になっている/健康のリンゴと共に/さあ飛んでいってその実をつもう/すべてのすばらしいもの、美しいものを!」
勉学第一、健康第一、そして、友情第一、親孝行第一でいこう!
みなさんの未来には、「すばらしいもの」「美しいもの」が、いっぱい待っているのだから!