子どもの幸福に尽くす
教育本部の皆様の
尊き汗に最敬礼!
その慈愛の行動こそ
社会を照らす太陽だ。
寺泊御書 P953
『日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる』
◇希望の明日へ
凡夫である一人一人も、御本尊に照らされた生活は、根底的には、すべて成仏へ、絶対的な幸福へと向かう一日一日であることを疑うまい。ゆえに、信心の眼で見るならば、すべてに意味がある。信心があるかぎり、そのときはわからなくとも、必ずや自分自身の最高の人生を築く勝利へのバネとなり、一里塚となっている。このことを確信するならば、学会員の一生は、根本的に大歓喜の人生である。
平2・10・10
☆女性に贈ることば 三月十九日
観念だけでは、真に人間を育てることはできません。実際に体を動かし、汗を流し、ともに泣き、ともに笑い−−そうした人間同士の打ちあいのなかでこそ、人は磨かれていくものです。
☆今日のことば 三月十九日
物事がわけがわからなくなったときには、原点にもどって、素朴に素朴にと考えれば、意外と本質が明らかになるものです。それを入れ物の小さい頭で、溢れているのも気づかずに、更に詰め込んで考えようとするから、みんな問題の本質がどこかへ逃げていってしまうのだ。
☆100文字の幸福抄
過去にとらわれて悩んだり、
未来の不安に苦しんだりするのは愚かである。
大事なことは、
「きょう」という一日を、
いかに価値あるものとするかである。
そのために一生懸命に、
そして、丁寧に生ききることである。
☆我らの勝利の大道No.099 福光燦たる東北(下)
◇全ては「一人」から
作家の徳冨蘆花は「一は無窮の始ぞや」と言った。
全ては「一」から始まる。「一」には無限の可能性が秘められている。
象徴的にいえば、「辛(シン・つらい)」という字も、「一」を加えれば「幸(コウ・しあわせ)」に変わる。
「もし私が一人の生命の苦しみをやわらげ/一人の苦痛をさますことができるなら/気を失った駒鳥を/勢にもどすことができるなら/私の生きるのは無駄ではない」
これは米国の詩人エミリ・ディキンスンが詠った、私も大好きな詩である。
どこまでも「一人」を大切にし、誠実に、苦悩の友の命を希望の光で照らしゆく東北の同志こそ、偉大な「福光の英雄」なのである。
東北が一つになって、共に生き、共に進むことを約し合うため、毎月十一日を「福光・前進の日」に定められたと伺った。
あまりにも重い現実を眼前に、「前進」という言葉自体が負担に感じられる時もあるだろう。
だが、それでも、あえて自身に「一歩前進」と言い聞かせながら、前へ踏み出し続けている父たち母たちを、私は知っている。片時も忘れたことはない。
「誓いとは、前進への秘訣である」と、非暴力の行進を貫き通したマハトマ・ガンジーは語っている。
これまでも、秋田の友は、月々の十一日に「負げでらんね」との思いを込めて、幾度となく、真剣な祈りを捧げ、被災した友に熱いエールを送ってこられた。大雪にも怯まず、集い合った日もあるという。
阪神・淡路大震災を乗り越えてきた兵庫県西宮市のある地区の同志は、聖教新聞で、岩手県の陸前高田市にも、同じ名前を冠した地区があることを知った。それをきっかけに連携を取り、心通う交流を重ね、兄弟姉妹のように、励まし合ってこられたという。
東日本大震災で甚大な被害を受けた千葉県や茨城県はじめ関東の同志たちも、言い知れぬ瑕難を堪えながら、深き大きな連帯の心で、東北と一体不二で復興の歩みを進めてこられた。
◇その人の歩幅で
私たちは、「信心」という、最も強く、最も美しい人間の絆で結ばれた「創価家族」である。
大聖人は、「(衆生を救う)慈悲の極理は唯法華経にのみとどまれり」(御書九ページ)と仰せである。
創価家族の励ましの交流には、この慈悲の精神が生き生きと脈打っている。
だからこそ、決して焦らなくともいい。前を見て、今を生き抜くこと、今を歩むこと、それ自体が尊く、偉大なことなのだ。
一人ひとり、自分の歩幅がある。その歩みの傍らには、広宣の同志が、いつもいてくれる。共に歩み、声をかけ、一緒に涙を流してくれる。私も厳然と祈り、見守り続けている。
春が巡ってくる。希望の春の足音が聞こえてくる。
私は、大震災が発生した年(二〇一一年)の九月から十一月にかけて、小説『新人間革命』に「福光」の章の連載を続けた。
私は幾多の広布の歴史を刻んできた福島、東北を、そして健気にして勇敢な、縁深き同志を思いながら、第一回の冒頭に綴った。
「春を告げよう!
新生の春を告げよう」
「民衆の凱歌轟く、勝利の春を告げよう!」と。
来る年来る年、厳冬を耐え抜き、苦難の風雪を乗り越えようと、逞しく立ち上がる民衆の輪が広がるところ、笑顔輝く「福光の春」は必ず訪れる。
◎千葉県総会、おめでとうございます!
お詫び:昨日の「福光燦たる東北」は一昨日とダブってしまい、すみません。