身の回りの総点検を!
慣れや油断を排し
火の元 火災に
厳重注意せよ!
四条金吾殿御返事 P1169
『吾方の人人をば少少の事をばみずきかずあるべし』
◇希望の明日へ
心というものは絶えず揺れ動いている。放っておけば、いつしか悪道のほうへと引きずられていってしまう。幹部は、その心をいかに確固として定め、成仏への最極の軌道から外れないようにリードしていくか、ここに信心指導の精髄があるといってよい。
▽御書「いよいよ強盛の御志あるべし」。苦難は境涯革命の絶好機!祈り勝て
☆第22回本部幹部会 1989.10.24
今はテレビ時代。このテレビとともに生きてきた世代を「"どう見えるか"の世代である」と言った人がいる。つまり何にせよ、その「内実がどうか」というよりも、「どう見えるか」を基準にしてしまう傾向が強い、というわけである。
確かに「どう見えるか」を気にする。「どう、いい格好をしようか」「どう自分を飾ろうか」との思いは、青年たちの心に強いかもしれない。もちろん、それは若い世代だけのことではない。人間の常であるといってもよい。
また「どう見えるか」が大事な場合も世の中にはあろう。だが、信心の世界だけは、「心こそ大切なれ」と仰せのごとく、「心が一切を決める」世界である。「一念三千」の法理で、「一念」つまり「心」が、「三千の諸法」——一切の現象を決めていく。
ゆえに「どう見えるか」という、自分を飾った「虚像」ではなく、自分の心が「どうあるか」という、自分自身の内実、「実像」が大事なのである。
私どもの青年時代を、現代の青年たちと、一概に比較できない面もあるが、草創の青年部は"どう見えるか"とか、外見など一切関係なかった。"創価学会とともに、どう人生を生きるか""どう広宣流布に戦うか"との一途の思いで進んできた。いわば殉教の精神であった。その決心でやってきた。
どんなに会合で上手に話をしたり、立派そうに見えても、それは成仏には結びつかない。信心とはまったく無縁のものである。そんな格好や、表面的な姿で信心が決まるものではない。
大事なのは、その人の「心」がどうかであり、一個の人間としての「振る舞い」「修行」が、どうかである。