師子吼の如し」
病魔に負けるな!
大確信で祈りで
生命力を奮い起こせ!
種種御振舞御書 P917
『釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり』
◇希望の明日へ
"行動の人"
"正義の人"
"先駆の人"
に、迫害は、つきものである。これは歴史の示す方程式である。学会に対しても、さまざまな、いわれなき迫害がある。私は、それらを一身に受け、すべての矢面に立ってきた。何百万という人々を守りぬくために−。仏法を正しく行ずる人に、魔が吹き荒れるとは、大聖人の仰せである。
☆第22回本部幹部会 1989.10.24
真の「人材」とは何か、「人材」を見る基準は何か、を述べておきたい。
それは、結論していえば「信・行・学」があるか、ないかである。社会的地位がある。有名である。人気がある——そんなものは信心とは関係ない。そんなことにとらわれて、人を判断しては絶対にならない。
あくまでも「信・行・学」が深いか浅いか。「法」のため、「広布」のために、どこまで戦っているかである。もっと具体的にいえば、一人の信仰者、修行者として、現実にどれだけ「折伏・弘教」をしたか。行学に励んでいるか。新聞啓蒙などによって、信心の理解を広げたか。また人々の激励にどこまで行動したか。その「力」こそが、真の広布の人材の「力」なのである。
根本の「信・行・学」を基準として、その上でさまざまな個性や特長を尊重していく。そこに社会的に活躍している人も、すべて生かされていくのである。しかし、「才能」や「学識」だけでは、広宣流布はできない。いわゆる"個性的な面白さ"だけでも、法は弘まらない。広宣流布は、そんなに簡単なものではない。
また、「人」をうまく動かす人を見て"あの人は力がある""人材だ"という人もいる。だが、根本の「信・行・学」を無視して、要領よく「組織」や「人」を動かし、それをもって、広布の"人材"と考えることは、大いなる誤りである。そういう人は、必ずといってよいほど、「人」を「人間」として見なくなり、「組織」の上にあぐらをかくようになる。そして、みずみずしい信心を失って、堕落と退転の道を歩むことになる。ゆえに「人を使う」ことだけがうまい幹部であっては絶対にならない。「組織」の長の立場にある皆さまは、この点をよくよく心に刻んでいただきたい。
人間を、その人の人間としての実力、人格、内実以外の基準で見ていくのは、根底は「人間」をバカにしていることになる。と同じく、「人材」を「信・行・学」以外の基準を根本として見ていくのは、信心と仏法、更には学会をバカにする心である。信仰者として、これは許されることではない。