2022年10月28日金曜日

2022.10.28 わが友に贈る

"できない"ではなく
"やろう"と腹を決めて
苦手なことにも挑もう!
人間革命の劇は
そこから始まる!

四条金吾殿御書 P1111
『食法がきと申すは出家となりて仏法を弘むる人我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて名聞名利の心を以て人にすぐれんと思うて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくふべき心もなき人を食法がきとて法をくらふがきと申すなり』

【通解】
食法餓鬼という餓鬼は出家となって仏法を弘める人のうちで、自分が法を説けば人は尊敬するなどと思い、名聞名利の心をもって人よりも勝れようと思って今生をわたり、衆生を助けず、父母を救おうという心もない人を食法餓鬼というのである。

名字の言 弟が兄から受け継いだ"音楽への思い" 2022年10月28日
サクソフォン奏者の壮年が数十年前の高校時代、吹奏楽の全国大会で演奏する映像を見せてもらった。彼が手にする楽器は、思いのほか使い込まれていた。聞けば、10も年上の兄から譲り受けたものという▼兄は抜群の腕前で音楽家を目指していたが、病となり進路を変更。それでも楽器の手入れを怠らない兄の"音楽への思い"を、弟の彼が受け継ぎ、中学から吹き始めた。兄弟の心が宿る楽器を画面越しに見つめながら、名演を味わった▼学生部のある先輩と後輩は、しばしば連れ立ってメンバーの激励に歩いた。その中に毎回、家に行っても会うことを拒む学生がいた。それでも先輩は、持参した一筆箋に激励文をつづってはドアポストに挟んだ▼後年、先輩は大学を卒業し、就職で他県へ。後輩が当地のリーダーを引き継いだ。ある日、会えなかったその人から後輩に電話があった。「悩みを相談したい」。訪ねた部屋には、かつて先輩が書き続けた大量の置き手紙が大切に保管されていた。心を開いた友は信心で再起を果たし、苦悩を打開した▼自らかなえる願いもあれば、人に託し、時を経て花開く強き願いもある。その分、実った時の喜びは倍になり、志を立てた人、継いだ人の両方を輝かせる。

寸鉄 2022年10月28日
学会をつくったのは庶民—戸田先生。青年よ正義の言論で尊き和合僧守れ
東京「杉並女性部の日」。広布新展開の誉れの舞台連帯拡大を!幸の大輪を
「仏種は縁より起こる」御聖訓。妙法の種蒔く励ましの語らいを今こそ!(新1953・全1467)
SGIの友は良き市民として重要な貢献—エリース・ボールディング博士。地域に安心の光送る灯台
信号機のない横断歩道で60%の車が停止せずと。歩行者優先を互いに順守

☆「桜梅桃李」の輝き 池田先生の指導に学ぶ
◇光る人間の真価とは
創価大学の近くには、有名な東京純心女子大学があるが、その首脳の先生方とも、私たちは親交を結ばせていただいている。(中略)先日、高野(澄子)理事長から、一冊の貴重な書籍をいただいた。それは、『江角ヤス学園長先生 追慕の記』という本である。
江角ヤス先生は、東京純心女子大学の創立者であられる。(中略)
いただいた本には、江角先生を追悼して寄せられた百人以上もの多くの方々の声が収められている。さっそく感銘深く拝読させていただいた。
どの方も、江角先生を心から慕い、深い感謝をささげておられる。どれだけの人に尽くし、どれだけの人を励まして、どれだけの人の心の中に、自分の存在が刻まれたのか。ここにこそ、人間の真価が光る。
一人の教え子の方は、江角先生の忘れ得ぬ言葉として、こう紹介している。
「あなたがた一人一人は、個性を持って咲く花である。庭に咲くバラやゆりかもしれないし、野に咲く一輪の花かもしれない。そしてもし野の花がバラの花のようになりたいと思って、ひねくれた花を咲かせるより、自分自身の花を咲かせることに努めて野の花は野の花らしい花を咲かせた方が、どれ程価値があり美しいことか」(『江角ヤス学園長先生 追慕の記』純心女子学園発行。以下、引用は同書から)——と。
日蓮仏法の「桜梅桃李」に通ずる、すばらしい人生哲学である。

◇人生は、お金でも名誉でもない
また江角先生は、若き乙女たちに、「人生で、まことの勝利者はどんな人か」についてスピーチをされた。
今の多くの人々は、"人生の目的をお金と名誉と快楽とにおいている"。
しかし、「そこにほんとうの人生の勝利が得られるかどうか」「お金をたくさんもって、豪華な家を建ててる人、人臣をきわめた、総理とか大臣とか、社長とかの位についている人、その人達の晩年がほんとに喜びにみたされた生活であるかどうか」——と。
江角先生が作られた老人ホームには、立派な大学を卒業した人や、著名な芸術家や、お金には何不自由ない資産家なども、たくさんおられた。そのなかでもっとも幸福に暮らしていた人は、だれか?
それは、小学校しか出ておらず、若いころはお手伝いをしていた一人の平凡なおばあさんであると、江角先生は言われている。
おばあさんは、「どうしたら他人様をよろこばせることが出来るか」をつねに考えている方で、大病を患い自由に動くことができなくなっても、その人がいるだけで、雰囲気があたたかくなったという。
江角先生は、つくづくと語っておられる。「他人様のために、自分を忘れ働き他人様のためにつくした人のこの晩年の美しさ、幸福さを私はしみじみ思ってみているのです」と。
「生涯の終りの時に問われることは、どれだけ自分のまわりの者を愛したかということだけです」——これが江角先生の哲学であった。
皆さま方も、悩んでいる友のため、自他ともの幸福のために、わが使命の場所で、勇気ある慈悲の行動を生き生きと展開しておられる。その途中に、いかなる苦難があろうと、それはすべて、人生の最後を無量の幸福で飾っていくための「劇」なのである。
長い人生には、だれしもさまざまな起伏がある。しかし、何も悩みがないことが幸福なのではない。何があっても耐えぬいて、勝ち越えていけることが幸福なのである。
御書にも、「仏をば能忍(=よく忍ぶ人)と名けたてまつる」(全935・新1212)と仰せである。
いちばん苦労に耐え抜いた人が、いちばん幸福を勝ち取っていく。これが「煩悩即菩提」「変毒為薬」の妙法である。
いちばん誠実に生きぬいた人が、いちばん栄光に輝いていく。それが広宣流布の世界である。

◇植えておけば やがて花が、実が
別の教え子の方は、江角先生と一緒に汗を流して、柿や梅を植樹した思い出をしるしておられる。そのとき、江角先生は、「植えておけば少しでも花が咲くし、実がなるのよ。でもね、何もせず、植えなければ何もみのらないし、ゼロなのよ」と教えられたという。
何事であれ、「植える」「種を蒔く」という作業こそ、もっとも地味でありながら、もっとも尊い偉大な姿である。(『池田大作全集』第90巻 SGI公認通訳会議でのスピーチから)