2022年10月1日土曜日

2022.10.01 わが友に贈る

飛躍を遂げる秋!
いよいよの決意と
ますますの祈りで
励ましの対話を!
心軽やかに進もう!

諸法実相抄 P1361
『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』

【通解】
行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法はなくなってしまう。自分も実践し、人にも教え、勧めていきなさい。行学は信心から起こるのである。力があるならば、一文一句であっても人に語っていきなさい。

名字の言 Vサインをする息子を見て、胸を熱くした夫妻 2022年10月1日
「学会に出あえて勇気百倍です」。障がいのある息子がいる夫妻が語っていた。先ごろ、親子3人で入会したばかり。きっかけは、知人の誘いで参加した座談会▼皆が家族のように温かく歓迎してくれた。ある女性は「お子さんの笑顔、本当に素敵。ご一家のヒーローね」と。息子さんの肩を抱き、「頑張っとるんやな。おじちゃんも負けんからな」と語りかける壮年も。Vサインをするわが子を見て、夫妻は胸を熱くした▼これまで「大変でしょう」と同情してくれる人は多くいた。夫妻は「そうした心遣いはありがたいのですが……。この子は何をするにも一生懸命で、それを見て私たちは毎日、感動しているんです。苦労の何倍も、親としての喜びがある。この気持ちを分かってくださる世界に出あえたことが本当にうれしかった」と▼東京大学大学院の松井彰彦教授が本紙で述べている。「障害者/非障害者」「支援すべき人/しなくてもいい人」のように「人々を区別し、分類してしまう、社会の"ふつう"を問い直す」べきだ、と▼誰もが相手の個性を尊重し、可能性を信じ、同じ人間として励まし合う。それを"ふつう"の感覚として、心の絆を広げる友の歩みが、地域・社会の希望となる。

寸鉄 2022年10月1日
広布の大行進に連なれば必ず幸福に—戸田先生。一人でも多くの友を糾合
「学術部の日」50周年。民衆のために戦う知性の勇者。希望送る灯台たれ
国際高齢者デー。孤立化防ぐ地域のネットワーク強化今こそ。社会全体で
ネット中傷投稿者の特定が迅速に—改正法施行。誹謗や嘘許さぬ思潮更に
水害の偽画像がSNSで拡散。不安を煽るデマに警戒。発信元の確認徹底

〈社説〉 2022・10・1 あす「世界平和の日」
◇「対話の力」を信じ抜く
あすは10・2「世界平和の日」。1960年(昭和35年)10月2日、池田先生が初の海外訪問へ出発した。第3代会長の就任から、わずか5カ月後のことであった。この日を起点として、先生はこれまで世界54カ国・地域を歴訪。「対話の力こそが、時代を開く平和力となる」との信念のもと、国家指導者、大学首脳、学識者、文化人らと誠実な語らいを重ねていった。
74年には、東西冷戦のさなかで一触即発だった中国、ソ連(当時)を相次ぎ訪問。両国の首脳が互いに戦争の意思がないことを確認し、双方に伝えた。さらに翌年にはアメリカへ。国連に核兵器廃絶への1000万署名を届け、米国務長官とも会見した。ゴルバチョフ元ソ連大統領は「鉄のカーテンのもとでも、平和への対話や民間外交が可能であることを証明しました」と明言している。
今ほど"対話による平和構築"という命題に人類が刮目すべき時はなかろう。池田先生はつづる。「ひとたび紛争や戦争が起こり、報復が繰り返され、凄惨な殺戮が恒常化すると、ともすれば、対話によって平和の道を開いていくことに無力さを感じ、あきらめと絶望を覚えてしまいがちである。実は、そこに平和への最大の関門がある」(小説『新・人間革命』第29巻「清新」の章)
池田先生が示してきたのは、目の前の一人一人との誠実な対話の広がりが世界平和の道へと重なっていった厳然たる事実である。
対話によって状況を打開した事例はほかにもある。62年の"キューバ危機"では、核戦争が危ぶまれたが、当時のアメリカのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ首相が書簡を通じて意見交換。衝突を回避した。また、内戦が約50年続いた南米コロンビアでは、サントス元大統領が粘り強い対話によって国内最大の武装組織との和平交渉を成立させた(2016年にノーベル平和賞を受賞)。元大統領は「戦争は対話で解決できる」と高らかに述べている。
危機の時代を迎える現代にあって、対話の重要性を叫び抜く意義はますます大きい。立正安国論に「汝、すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を祷るべきものか」(新44・全31)と。私たちの目の前の一人との語らいが、平和の世紀の実現につながっていることを確信し、"対話の秋"を堂々と歩みたい。

☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第20回 「葛飾総ブロック長」 日本一の幸せあふれるわが地域に
模範の地域建設への実践
一、「誓願の祈り」
二、「御書根本」
三、「異体同心の団結」
(「随筆 永遠なれ創価の大城」〈「行学の闘士」の誉れ〉から)

◇勤行・唱題の実践
「夜、葛飾ブロックの会合に出席」「体当たりで指導」(『若き日の日記』)——1957年(昭和32年)9月25日、29歳の池田先生は日記にとどめた。
この日、東京・葛飾区の亀有で、総ブロックの結成大会が開催された。葛飾の初代総ブロック長に就任した先生は、自らの誓いをこう語った。
「私が葛飾に来たのは、ただ任命を受けたからではありません。私はこの葛飾に、全国に先駆けて、模範的なブロックをつくるために来ました」
学会に、地域を基盤としたブロック制が敷かれたのは、55年(同30年)5月のことだった。新入会者が紹介者の組織に所属する「タテ線」に比べ、ブロックの連携は希薄で、毎週水曜日の「ブロックの日」は熱が入らない状況があった。ブロック組織の強化は課題となっていた。
57年8月、ブロック強化を目的とした「夏季ブロック指導」が行われた。池田先生は、荒川区の最高責任者として指揮を執り、8日から14日の間で、二百数十世帯の弘教を成し遂げた。
同月28日、本部幹部会が豊島公会堂(当時)で開催された。席上、従来のブロック制を改革し、東京23区に総ブロック制を設置することが発表される。新たな出発を開始する幹部会で、先生は「葛飾総ブロック長」の任命を受けた。
総ブロック長の先生が、葛飾で呼び掛けたのは、信仰の基本である"勤行の実践"だった。結成大会で訴えた。
「模範のブロックをつくるには、どうしたらよいか。まず、全会員が、しっかり勤行できるようにすることです」
「宿業の転換といっても、人間革命といっても、その一切の源泉は、勤行・唱題にほかなりません」
葛飾区の中には、先生が住んでいた大田区から2時間近くを要する地域もあった。青年部の室長として全国を東奔西走しながら、勇んで駆け付けた。

【「若き日の日記」1958年(昭和33年)4月29日から】
戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。
一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて。

◇水曜日の男
「自転車をかり、葛飾のブロックを回る」(『若き日の日記』、1957年10月30日)
亀有、立石、金町、細田——池田先生は、時には自転車で、また時には同志のトラックに同乗し、訪問・激励や一対一の対話を重ねていった。
先生は、「私は、皆さんにとっては、『水曜日の男』だね」と、ユーモアを込めて、葛飾の同志に語ったことがある。水曜日の「ブロックの日」を中心に、訪れることが多かったからである。
葛飾の友にとって、水曜日は恩師の心を体現した池田先生から、広布の要諦を学ぶことができる絶好の機会だった。ある時、先生は葛飾のリーダーと共に個人指導に歩き、訪問・激励の心構えについて次のように語った。
「もうこの人には二度と会えないかもしれません。ありったけの思いやりで、精いっぱい真心の指導・激励をしましょう。それが仏の使いです」
「指導とは思い切り聞いてあげることです」
先生は、"高みから教える"のではなく、"同じ目線"で同苦した。激励に当たって心肝に染めるべき御文として、「十法界明因果抄」の一節を拝した。
「もし、自分が彼より立派であるという思いに耐え、乗り越えることができなければ、人を下に軽く見て、トンビのように高い所から人を見下げる行動をとってしまう」(新464・全430、趣意)
自分が偉いと錯覚し、横柄な態度で会員に接することは、すでに仏法者ではないことを訴えたのである。
また、励ましの"スピード"を重視した。ある時、悩みを抱えているメンバーの報告を聞くと、「よし、すぐ行こう」と、自転車に飛び乗った。後日、葛飾の同志が、そのメンバーの家を訪ねると、先生からの手紙が届いていた。皆、先生のこまやかな心配りに胸を熱くした。
「思い切り聞く」「スピード」「心配り」——先生の慈愛の激励を通し、葛飾の同志は、"創価の励ましの魂"を身をもって学んだ。
さらに、葛飾の友が、先生の姿から心に刻んだのは、誠実な振る舞いの大切さである。
個人会場の近隣にある寿司屋から苦情が出たことがあった。会場に多くの同志が集い、騒がしく感じたのである。その報告を聞いた先生は、即座に店主のもとを訪ね、丁寧に事情を説明した。
1958年(昭和33年)9月26日から27日にかけて、狩野川台風が日本を襲った。この台風によって、都内では30万戸以上が浸水の被害に遭った。葛飾でも多数の浸水家屋が出た。
台風が近づいていた25日、先生は大阪事件の第8回公判に出廷。26日の帰路、台風で足止めに遭い、列車内で1泊する。27日、帰京すると、疲労の体を押して、葛飾へと向かったのである。

◇信心とは無疑曰信
葛飾に到着した池田先生は、長靴に履き替えると、同志と共に中川の土手に足を運んだ。豪雨で足元が緩くなった土手沿いを見回り、土のうを積む人を見掛けると、ねぎらいの言葉を掛けた。
先生には、学会員も会員でない人も、分け隔てはなかった。地域のために行動する人をたたえた。この行動こそ地域友好を開く要諦——葛飾の友は、先生の実践を模範とした。
先生が葛飾で総ブロック長として指揮を執ったのは、1957年から59年(同34年)7月の約2年である。
この間、戸田先生の生涯の願業である75万世帯の達成に向けて死力を尽くした。「3・16」の"広宣流布の記念式典"など、恩師の戦いの総仕上げの時にあって、先生が葛飾で強調したのは「師弟直結」である。
「皆さんと戸田先生との間には、なんの隔たりもありません。皆さん方一人ひとりが、その精神においては、本来、先生と直結しているんです」
池田先生の激励によって、葛飾の同志は、師匠・戸田先生に心を合わせ、自発能動の挑戦に奮い立っていった。
58年(同33年)4月2日に恩師が逝去し、先生は同年6月から、総務として学会の舵取りを担った。
激闘に次ぐ激闘の中、先生は葛飾に模範のブロック組織を築いていった。
「葛飾のブロックに出席」「『佐渡御書』を講義」(同、58年5月28日)
「夜、葛飾のブロックに出席」「『星落秋風五丈原』を歌いながら帰宅」(同、同年7月23日)
59年7月に葛飾総ブロック長の役職を離れた後も、先生は葛飾の友を見守り続けた。その深い慈愛に包まれた葛飾は、地域広布の水かさを増し、60年(同35年)12月、3総ブロックへと発展した。
先生は葛飾の青年たちに、大切な指針を残している。
一つは、「無疑曰信」(疑い無きを信と曰う)。
ある時、先生は男子部員に、「信心とは何ですか?」と質問した。「勝つことです」と答えるメンバーに、「間違いではないが」と前置きし、「信心とは無疑曰信です」と語った。
もう一つは、扇子に揮毫した「断は確信に通ず」との言葉である。
どんな困難が競い起こっても、広布の戦いをやり抜くとの決断。それこそが、自らの境涯を開き、人間革命を成し遂げる原動力である。
今月、先生の葛飾総ブロック長就任から65周年の佳節を刻む。葛飾総ブロック結成大会で、先生は「この葛飾を、皆で力を合わせ、東京一、いな、日本一の、幸せあふれる地域に」と望んだ。その呼び掛けをわが誓願として、葛飾の同志は使命の天地を駆ける。
葛飾は、先生が手作りで育んだ広布の天地——との誇りに燃えて。

☆大白蓮華巻頭言2022年10月号 「民衆仏法」の本懐いよいよ
日蓮大聖人が「民が子」として「民の家」に聖誕されてより八百星霜−−。太陽の「民衆仏法」が混沌の闇を打ち払って、いよいよ地球民族に平和と希望の大光を贈りゆく時である。
戸田先生の最晩年、師弟して語り合った。
−−あの鎌倉幕府の武家政権下で、熱原の三烈士をはじめ、何ものにも屈しない「師子王の心」の民衆が屹立した。ここに御本仏の「出世の本懐」の成就があり、この直系こそ創価学会に他ならない。だからこそ、戸田の命より大切なのだ−−と。
これほど確固たる生命尊厳の哲理と人間への信頼で結ばれた善なる民衆の連帯は、もう二度と築けないであろう。
「総勘文抄」には、「只今こそ打ち返し、思い直し、悟り返せば、即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ」と仰せである。
その通りに、創価の民衆の学びと励ましの大地から、どれほど多くの庶民が「わが生命こそ妙法の当体なり」と立ち上がり、「大間革命の蘇生の大生を歩んできたことか。
今や、まぎれもなく内証は仏である地涌の菩薩の群像が、全世界に躍り出ていることが、我らの誉れである。
六十年前、より良き社会の建設に挑めば挑むほど、定見のない批判が強まると憂える英才に、私は言った。
−−私たちは行動者だ。大哲学を実践し、民衆に貢献している。だから強い。無責任な傍観の言説にも、若き君たちが自信をもって、堂々と見事な論陣を張っていくのだ−−と。
人類史の宿命的な苦悩の流転を押し止め、分断の悪縁に引き裂かれずに、民衆を結び高めるのが、中道の智慧である。
熱原の法難の折の御聖訓に、「恐れてはならない。いよいよ強く進んでいくならば、必ず何らかの現証が現れる」とある。
気収らず偉ぶらず、我らは無冠の人間王者として、勇敢に楽しく笑い合いながら、広布と人生の本懐を果たしゆこう!

十方の
 星のごとくに
  後継の
 地涌よ凛々しく
  民に勇気を

☆2022 10月の学会史
◎10・1「学術部の日」50周年
1972年(昭和47年)10月1日発行の「大白蓮華」誌上での、池田大作先生のてい談「生命論」(後に『生命を語る』として出版)の連載開始が淵源。本年で50周年を迎える。

◎10・2「世界平和の日」
1960年(昭和35年)10月2日、恩師・戸田城聖先生の構想実現のため、池田先生が初の海外訪問へ出発。北・南米へ世界広布の第一歩が踏み出された。その日が、後に「世界平和の日」に。
※参考資料=小説『新・人間革命』第1巻「旭日」、第24巻「母の詩」

◎10・5 池田先生の欧州初訪問
1961年(昭和36年)10月5日、池田先生が欧州を初訪問。9カ国を回る平和旅で、欧州広布の礎が築かれた。
※参考資料=『新・人間革命』第4巻「大光」

◎10・7「勝利島部の日」
1978年(昭和53年)10月7日、約120の島の友が集った離島本部(当時)の第1回総会を記念して、「離島部の日」が制定。後に「勝利島部の日」となった。※参考資料=『新・人間革命』第28巻「勝利島」

◎10・8「中国・師弟原点の日」
1956年(昭和31年)10月8日、青年部の室長だった池田先生は岡山を初訪問し、中国方面に広宣流布の第一歩をしるした。

◎10・9「山口開拓指導」開始の日
1956年(昭和31年)10月9日、池田先生は山口へ。戸田先生の命を受け、山口開拓指導が始まる。翌年1月までの計22日間で、当時の山口の会員世帯数を約10倍に拡大する弘教を達成した。
※参考資料=『人間革命』第11巻「転機」

◎10・18「民音創立記念日」
1963年(昭和38年)10月18日に行われた、民主音楽協会(民音)による初の記念演奏会に由来する。
※参考資料=『新・人間革命』第8巻「清流」

◎10・24「社会部の日」
1973年(昭和48年)10月24日、職場・職域を同じくする同志が、自身を磨き、互いの成長を図ることを目的に結成された。
※参考資料=『新・人間革命』第24巻「灯台」

◎10・30「クーデンホーフ=カレルギー伯爵との初会談」55周年
1967年(昭和42年)10月30日、池田先生は"欧州統合の父"クーデンホーフ=カレルギー伯爵と東京・信濃町で初の会談を。本年が55周年。