2022年10月13日木曜日

2022.10.13 わが友に贈る

日蓮仏法は「万年の外
未来までもながるべし」
世界の同志と共に
「立正安国」の大道を
誇りも高く歩もう!
(新261・全329)

如説修行抄 P502
『万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり』

【通解】
すべての人々が一同に南無妙法蓮華経と唱えるならば、吹く風は穏やかで、枝を鳴らさず、降る雨も土壌を砕かず、代は羲農(昔の中国における伏羲や神農)の時代のような理想社会となり、人々は今生には不幸な災難を払い、長生きできる方法を得て、人法ともに不老不死であるという道理がはっきりとあらわれてくるのである。その時をおのおの見てごらんなさい。「現世安穏」という証文の正しさは疑いないのである。

【先生の指導から】
学会は、「三類の強敵」「三障四魔」を打ち破りながら、世界広布を成し遂げてきた。平和と文化を花開かせてきた。
「心こそ大切」である。広布のために、喜んで戦い、喜んで努力すれば、必ず、生々世々、大功徳に包まれる。才智だけでは人生は勝てない。自分が決めた広布の道を、愚直に貫き通した人が、最後は勝つ。幸福になる。
このことを深く確信し、最高の栄光輝く人生を、晴ればれと生きぬいていただきたい。

名字の言 日本のキンモクセイが広がった理由 2022年10月13日
壮年部の同志と一緒に訪問・激励に歩いていると、甘く優しい香りに包まれた。九里香とも呼ばれるキンモクセイ。古代中国の1里は約400メートルというから、4キロ近くまで届くほど"強い香り"ということだろう▼日本のキンモクセイは種ができないという。雌雄異株のキンモクセイには雄株と雌株があり、種ができるのは雌株。つまり日本のキンモクセイは全て雄株。江戸時代に中国から渡来したのは雄株だけだった▼種ができないのに各地に広がったのは、人間が主に「挿し木」で人工的に増やしていったから。植物生理学が専門の田中修さんは、キンモクセイを「人間との出会いによってつながり広がってきた」代表植物と紹介している(『植物のいのち』中公新書)▼現在のキンモクセイが人間との出会いの結果と思うと、会うことの大切さを改めて感じる。私たちの人生も同じ。良き出会いが人生を豊かに彩る。「良き友」との出会いを仏法では「善知識」といい、御書に「仏になるみちは善知識にはすぎず」(新1940・全1468)と▼挿し木したキンモクセイは、黄金色の花が咲くまで5年ほどかかる。「一人」と徹底して関わり、幸福の花を咲き薫らせる善知識の存在でありたいと思った。

寸鉄 2022年10月13日
「青年の一番の宝は信頼」恩師。誠実な振舞が礎に。一日一日の積み重ねこそ
山梨の日。新時代の広布拡大に勇躍!地域を照らす希望の民衆城を盤石に
若い時に叩き込んだ事はいつまでも残る—哲学者ショーペンハウアー 時を惜しんで行学二道を
座り過ぎ防止へこまめな軽い運動が大切と。30分に1度は立つ等少しずつ
暖房器具は使用前に点検たまった埃は出火の原因にも。「前々の用心」で

☆希望の指針——池田先生の指導に学ぶ 任用試験に向けて(中)
◇御書を心に刻む——それが自身を輝かせる
【妙一尼御前御消息】
『法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」ととかれて候。』(新1696・全1253)

◇一人も残らず幸福に
試練の厳冬の中にある誰もが、一人残らず幸福勝利の大歓喜の春を迎えられるように!——この御本仏の大慈大悲が胸に迫ってならない。
戸田先生は、こうした御聖訓を通されながら、「大聖人が、功徳の出ない、境涯の開けない戦いをさせるわけがないんだよ」と言われていた。
御書には、一人にここまでも心を配られるのかという、大誠実の「人の振舞」が随所に示されている。
その究極の人間主義を深く学びながら、私たちも、一人ひとりを大切にし、一人ひとりと仏縁を結んでいくのだ。
(『随筆 輝く民衆の大城』、65ページ)

◇試練の冬に挑みゆけ
冬の間にこそ、どう戦い、どれほど充実した時を過ごすか。必ず来る春を確信し、どう深く生きるか——そこに勝利の要諦がある。
法華経の信心は「冬」のようなものです。
その厳しい宿命転換の戦いがあって初めて「春」を到来させ、福運を築くことができる。ゆえに試練の冬を避けてはならない。
鍛錬の冬に挑戦しゆく勇気があれば、私たちは、成仏という「偉大な春」へ、広宣流布という「最高の春」へと、無限に前進していくことができます。
(『希望の経典「御書」に学ぶ』第2巻、22ページ)

【一生成仏抄】
『衆生というも仏というも、またかくのごとし。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬えば、闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。
深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり。』(新317・全384)

◇一念の変革こそ重要
日蓮大聖人は万人が成仏を成し遂げるために御本尊をあらわされ、「南無妙法蓮華経の唱題行」を確立されました。全民衆が等しく実践できる仏道修行の道を開いてくださったのです。まさに、偉大な宗教革命です。
日蓮仏法においては、「わが一念の変革」こそが重要であると明かされているのです。
一般的に「衆生」と「仏」とは、かけ離れた存在と考えられがちです。しかし大聖人は、両者に隔たりはなく、「迷い」と「覚り」の違いにすぎないと仰せです。
この「迷い」の生命を、そのまま「覚り」の生命に変革する方途が唱題行です。
(『信仰の基本「信行学」』、46ページ)

◇生命を「磨く」唱題行
曇れば鏡としての用をなさない。だから絶えず磨かなければなりません。ゆえに、放置しておけば無明に覆われてしまう衆生の生命を鏡に譬えるのです。
そして、鏡本来の働きを取り戻すためには「磨く」という行為が不可欠です。また、鏡は、一度だけ磨けばそれでよいということもありません。磨き続けることが大事です。そして、磨けば常に明鏡として鏡の特性を発揮し続けることができます。
まさにこの譬喩が的確に物語っているように、私たちの唱題行は、無明の汚れを払い、法性の輝きを増していく生命錬磨の戦いなのです。
(『一生成仏抄講義』、90ページ)

【開目抄】
『我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし。』(新117・全234)

◇師弟一体の仏法精神
普通の宗教者であれば、「我が弟子たちよ」と一方的に呼びかけるにとどまるところです。ところが大聖人は「我並びに」と仰せです。「私もそうだ」と語りかけるお心に、師弟一体の仏法の精神が込められています。
そして、その師弟を貫く強靱な核が「不惜身命」です。師である日蓮大聖人御自身もまた法に対して「不惜身命」であられるがゆえに、仏法を万人に開く民衆の指導者たりえるのです。弟子もまた、弟子の次元で法を弘通するために、師と同じ「不惜身命」の実践で戦い抜いていかなければなりません。
(『開目抄講義』〈下〉、127ページ)

◇今こそ「まことの時」
師の指導を、わが身に引き当てて、真摯に姿勢を正していくのか、他人事のように聞き流していくのか——。この「如是我聞」の一念の厳しき差に、師弟を貫いていけるか、愚かなる人間と堕ちていくか、全く厳しい勝敗の分かれ道がある。ゆえに、仏法は「勝負」だと仰せなのだ。
「まことの時」との御聖訓は、「いつか」ではない。
常に常に、また常に、「今」である。
「今から」なのである。
(『池田大作全集』第137巻、320ページ)