忙しい時こそ
朝の祈りを大切に!
満々たる生命力で
目標を明確に定め
清々しく一日を出発!
崇峻天皇御書 P1174
『されば王位の身なれども思う事をばたやすく申さぬぞ、孔子と申せし賢人は九思一言とてここのたびおもひて一度申す』
【通解】
されば、天皇の御身であっても思っている事を、たやすく言わぬものである。
孔子という賢人は九思一言といって九度思索して後に、一度語ったという。
名字の言 栗を見て思い出したゲーテの話 2022年10月20日
学生時代の友人から「今年も家の庭で採れました」と、栗が送られてきた。つやつやした一粒一粒に見入る中、ある話を思い出した▼ゲーテがある時、言った。「世界を広くしよう。テルトオ(=地名)のかぶら(=カブ)は大層、美味である。栗と一緒に食べたなら、実に何とも言えぬ味がする。しかし、この貴重なものは、二つとも互いに遠く離れた土地の特産である」(大山定一訳。現代表記に改めた)。食通だったゲーテの話は"交流を通し、自分の世界が広くなれば、より豊かになる"という真意だろう▼先の友人は知識欲が旺盛で学校では級友たちの会話に加わらず、いつも読書に熱中していた。そこで、声をかけてみた。「本の内容を僕たちにも教えてよ」▼以来、友情が広がった。読書の楽しさを知ったクラスメートに本を読む習慣がついた。一方、友人は"人との出会い"という財産をこれからも大事にしたいと、後年、教師に。さらに学会員でもある職場の同僚と交友を結ぶ中、入会した▼栗の花言葉の一つは「贅沢」だという。サン=テグジュペリの言葉に「真の贅沢はひとつだけしかない。それは人間関係という贅沢だ」(山崎庸一郎訳)と。"実りの秋"に、友情を育み続ける喜びを改めて感じた。
寸鉄 2022年10月20日
法華経は「讃むる言こそ多く候え」御書。信心の喜びを語り合う座談会に(新1713・全1242)
広島の日。人類の融和と平和の哲学を世界に発信 草の根対話で連帯を拡大
「若き力によってこそ大事業は成就」戸田先生。青年よ創立100周年を拓け
「手足口病」の感染者数が高止まりと。タオル共有避け、手洗いなど徹底を
身近な努力が地球環境を守る。循環型社会へ共に一歩。「リサイクルの日」
〈社説〉 2022・10・20 連載「One and Only」に反響
◇人生への全肯定を勝ち取る姿
マスメディアでは「かわいそうな障害者」像や「困難に負けず、けなげに努力する障害者」像がアピールされがち——。そう記したライターの渡辺一史氏は「その根底には、障害者が努力して障害を克服しようとする姿に感動を覚え、賞賛するという、医学モデル的な障害観がひそんでいます」と訴える(『なぜ人と人は支え合うのか』ちくまプリマー新書)。
医学モデルとは、障がいはあくまで個人の心身機能が原因と捉える考え方。一方、社会モデルは社会や環境の仕組みによって障がいが生じると考える。社会モデルは、障がいを克服すべきなのは個人ではなく、社会の側という発想の転換をもたらすものだ。
本紙の連載「One and Only——かけがえのない命」では障がいをテーマに創価学会員の生き方を描いている。自らの葛藤、周囲からの差別、社会の制度……あらゆる壁に向き合う姿は大きな反響を呼んでいる。
寄せられた声には、自身の気付きを記したものも多い。ある読者は、町で障がいのある人が大声を出すのを見ると、怖いと感じ、かわいそうと思っていた。しかし、連載を読んで、「障がいがあってもなくても、みんな平等なんだと、お互いを認め合える社会に変わるために、まずは自身の捉え方を変えていこうと思います」と。
他にも、低身長の人を「好奇と偏見、同情のような感情の目で」見ていた自分を省み、差別の心と向き合う決意も届いた。生き生きとした表情への感動の声も。
何かを成し遂げること。克服すること。それも一つの信仰の証し。その上で、今ある命を生き抜き、苦楽共に楽しむ姿が心を打つ。世間では、成仏とは死ぬことや亡くなった人を指しているが、戸田先生は「生きていること自体が、楽しくて、楽しくてしょうがないという境涯である」と語った。
一人ももれなく胸中に具わる仏の境涯は、相対的なものではない。障がいの有無や度合いの比較などを超越し、"私"という存在そのものに最高の価値がある。他者からの差別、自己への劣等感にとらわれず、人生への全肯定を勝ち取る姿こそ、希望なのだ。
個々の境涯革命の歩みは、自ずと社会の課題へ光を当てながら、時代変革の先頭を進んでいる。人間革命のドラマを綴る一人一人こそ、共生社会を開く旗手である。
☆御書と未来へ 第41回 唱題の人に行き詰まりなし
〈御文〉
『夫れ、仏道に入る根本は信をもって本とす。』〈法華経題目抄(妙の三義の事)、新532・全940〉
〈通解〉
仏道に入る根本は信心である。
〈池田先生が贈る指針〉
題目は「八万聖教の肝心」であり「一切諸仏の眼目」である。その無量無辺の大功力を発揮させるのが「信」なのだ。
唱題の人に行き詰まりなし。どんな悩みも祈りに変えて、希望へ勝利へ転じ、境涯が大きく開ける。「いかなる病さわりをなすべきや」である。
今日も我らは、妙法流布の祈りと共に一生成仏の大直道を!
☆10月度「御書講義」の参考 佐渡御書
◇宿命を使命に変える生き方を
10月度「御書講義」の拝読御書は「佐渡御書」。範囲は「日蓮もまた、かくせめらるるも、先業なきにあらず……ひとえに、先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし」(御書新版1287ページ8行目〜1288ページ2行目、御書全集958ページ8行目〜16行目)です。ここでは学習の参考となる解説を掲載します。「大白蓮華」10月号とともにご活用ください。
�其罪畢已
日蓮大聖人は、拝読範囲の冒頭で、「日蓮がこのように迫害されるのも、過去世からの業がないわけではない」と、大難を受けられている因を示されます。
その上で、迫害の意味を、法華経の常不軽菩薩品第20に説かれる「其罪畢已」との言葉を通して、教えられます。この経文は「過去の罪の報いを受け終わって」との意味です。「過去の罪」とは過去世に法華経を誹謗した罪であり、「其罪畢已」は、過去の罪を受け終わって不軽菩薩が得た功徳も表しています。
"常に人を軽んじなかった菩薩"である不軽菩薩は、全ての人々を敬いながら、「あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができる」との言葉をかける礼拝行を貫きました。この言葉は、経文では漢字24文字でつづられていることから「二十四文字の法華経」といわれています。
対して、増上慢の人々は、その言葉を信じようとせず、瓦や石を投げたり、杖や木などで不軽菩薩をたたきました。不軽菩薩は、それを避けて、遠く離れながらも、礼拝行を止めることなく、人々の仏性を信じて敬い続けたのです。
その実践は、生まれるたびに続きました。そうして不軽菩薩は、多くの仏に会い、多くの人のために法華経を説くことで、過去の重罪を一切消し去って、功徳を成就し、仏に成ることができました。
同様に、幾重もの大難に立ち向かわれた大聖人の御闘争は、不軽菩薩に連なる仏法の実践です。
ここに、宿命を単に堪え忍ぶのではなく、幸福境涯を築くために、自身の宿命に立ち向かう力強い生き方が示されているのです。
�凡夫成仏
本抄で大聖人は、御自身の身分などについて「貧しく卑しい身分の者であり、旃陀羅(低い身分)の家の出身である」「体は人間に似ながら畜生の身である」とつづられ、自身は一人の人間——すなわち「凡夫」であることを強調して述べられています。
むしろ大聖人は、そのような身を誉れとし、一切衆生を幸福へと導く大法を説き、末法の御本仏としての御境涯を顕されたのです。
ここに日蓮仏法の根幹を成す「凡夫成仏」の法理が示されています。これは、凡夫が自身に本来そなわっている仏界を顕現させて成仏することです。その一生のうちに、その身のまま成仏することから「一生成仏」「即身成仏」ともいいます。
法華経の教えは、この「凡夫成仏」を説いたという点で、それ以前に説かれた爾前経とは大きく異なります。
爾前経では、煩悩を断ちきり、九界を離れることによって初めて成仏できると説かれます。九界の衆生と仏は断絶しており、仏を人間離れした特別な存在として捉えているのです。
一方、法華経における成仏とは、自身の内に本来具わる仏の生命境涯、すなわち仏界を開くことです。
十界の生命はそれぞれ十界の生命を互いに具している(十界互具)ので、煩悩に覆われた、いかなる迷いの境涯の衆生であっても、正法の実践によって成仏することができると説いています。
大聖人は、御自身があくまで庶民の出身であることを強調することで、そこに連なる弟子も皆、偉大な境涯に至ることができる道を開かれたのです。
�宿命転換
佐渡流罪をはじめ、これまで多くの迫害に遭われてきたことを大聖人は本抄で、「過去世の業の重罪を今世で消し、後生の三悪道の苦しみを免れるためのもの」と仰せです。
仏教では、過去世の行為が因となって今世に結果として現れ、同様に今世の行為が因となって未来世の結果を決定づけると説きます。自身の運命は自身の行いによって決まるのです。
しかし、過去世の悪業の報いを今世で直ちに変革する方途がなければ、生死を繰り返しながら一つ一つの罪業を消滅させていくことしかできません。
この従来の因果の法則を打ち破ったのが、大聖人の「宿命転換」の仏法です。
大聖人は、万人を成仏へと導く法華経を信じず、誹謗することが、根本的な罪業であると明かしました。
故に、法華経を信じ、守り広めていく正法の実践こそが、宿命を今世で転換する直道であると教えられたのです。その途上には、必ず難が競い起こります。その難は、過去世の重罪の報いを転じて軽く受けたもの(転重軽受)です。過去世からの罪業を一生のうちに軽く受け、転換できると教えているのです。
その上で仏法では、菩薩が人を救うため、あえて宿業を背負い、願って悪世に生まれてくる「願兼於業」の法理も説かれます。
池田先生は、この法理を「宿命を使命に変える」生き方であると教えています。大聖人が凡夫成仏の道を開かれたように、学会員一人一人が自らの宿命に立ち向かい、難を乗り越える姿はそのまま、苦悩に覆われた人々の希望になるからです。そうして励まされた人はまた、周囲の人々を励ます存在に変わっていきます。この励ましの連帯がより良い世界を築く原動力であることは間違いありません。
宿命転換に挑む日蓮仏法の信仰によってこそ、限りない希望の未来が開かれていくのです。