一人の確信の声が
皆に納得と希望を送る。
「師子王は百獣におじず」
人間主義の新たな未来を
勇気の言論で開こう!
(新1620・全1190)
種種御振舞御書 P910
『肝心諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども(和党共)二陣三陣つづきて迦葉阿難にも勝ぐれ天台伝教にもこへよかし』
【通解】
法華経の肝心、諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法のはじめに全世界に広まっていくべき瑞相として、日蓮が先駆けをしたのである。わが門下よ、二陣三陣と続いて、迦葉・阿難にもすぐれ、天台・伝教にも超えていきなさい。
【先生の指導から】
戸田先生は厳しく言われた。「大勇猛心と大闘争心なくしては、広宣流布はできぬ!」
権威の命令でもない。要領でもない。指導者の不惜身命、死身弘法の行動によって道は開かれた。それが、この五十年の学会の勝利を可能にしたのである。
まず自分自身が祈り、動き、語り、叫び、戦う。この率先垂範の勇気の行動によって、「新たな五十年」の完勝の金字塔も、わが大関東から築きゆくことを誓いあいたい。
名字の言 "心の声"に耳を澄ます 2022年10月23日
世界的ジャズピアニストであるハービー・ハンコックさんが出演した音楽祭をかつて取材した。時に情熱的に、時に優しく、語りかけるような演奏に、ぐいぐい引き込まれていった▼ハービーさんは言う。「鳥の鳴き声、風の音、葉っぱの揺れ動くささやき、小さい虫から大きな動物にいたるまで、生き物が発する音も、ある意味で音楽といえます」。日頃、何げなく耳にする自然の物音さえ、研ぎ澄まされた感性の人には違って聞こえるのだろうと、驚きと感動を覚えた▼真心の対話で多くの人を発心させた壮年の話。実は生来の口べた。だから、とことん相手の話を聞くことに努めた。すると"心の声"まで感じられることがあるという▼彼が大切にしているのは普段の茶飲み話。友と会話する際、励ます側と励まされる側といった関係ではなく、友人同士として接する中で、時折、相手がポツリとつぶやく言葉がある。「そのポツリが本音だったり、一番言いたいことだったりするんです。それを敏感にキャッチすることが大切」と▼友が胸にしまい込んだ悩みや苦しみが、時につぶやきとなってこぼれる。それを逃さず聞き取る力を磨きたい。そのためにも日々、祈り、心のアンテナを広げ、対話に励みたい。
寸鉄 2022年10月23日
学会には安心の居場所を人に提供する力が—教授 共生時代へ励まし今日も
「人の多きをもって本とすることなかれ」御聖訓。青年よ正義貫く勇者たれ(新572・全493)
宗教の社会的存立の意義は人と世を救う事—牧口先生。広布の大道を堂々
違法な誇大広告減らず。楽に痩せる…等の甘言に注意。契約の時は要確認
感染増加傾向の地域も。会話時のマスクなど基本対策を再確認。油断せず
☆勝ちゆく君へ 第32回 「御書根本」の幸福の大道
◇「実践の教学」の体現者に
学生部の「御義口伝」講義から60年。「御書根本」の精神は、学会の永遠の伝統です。
御義口伝に「南無妙法蓮華経は、自行・化他に亘るなり」(新1042・全747)と。
御本仏の民衆救済の大闘争を心肝に染め、一騎当千のリーダーに成長してもらいたい。
勇気と確信を奮い起こす教学。友を励ます教学。人生を勝ち抜く教学——「実践の教学」こそ、人間革命の大道です。
教学実力試験への挑戦をはじめ、行学錬磨の汗を流す求道の友に、恩師・戸田先生の言葉を贈ります。
「一行でも、二行でもよい。御書を拝して、自らの境涯を、もう一歩、開くのだ!」
◇対話で生命尊厳の世界を
「いのちと申す物は、一切の財の中に第一の財なり」(新2052・全1596)
日蓮大聖人は、生命は全宇宙のいかなる財宝よりも尊い、と大宣言されました。
この生命尊厳の哲学を掲げ、民衆の平和運動を確かに継承しているのが、広島・長崎・沖縄、さらに神奈川をはじめ、創価の若き世界市民の連帯です。
恩師が「原水爆禁止宣言」を青年への遺訓と託されて65年。
核兵器の廃絶へ、いやまして不屈の闘志で、万人の仏性を呼び覚まし、人々の心に「平和の砦」を築く対話が重要です。
若人の信念の声で、憎悪を慈愛へ、不信を信頼へと転じ、生命尊厳の思想を時代精神に!
(創価新報2022年8月17日付より)
☆「桜梅桃李」の輝き 池田先生の指導に学ぶ 2022年7月8日
◇多様な人材から最大限の力を
ここで(武田)信玄の幅広い人材観にふれておきたい。
彼は、一種類の性格の侍を好んだり、似たような態度、行動のものばかりを大事に召し使うことを大いに嫌った。彼は言っている。
「たとえば蹴鞠の遊びの会を開くときには、庭の四隅に四種の木(桜・柳・カエデ・松)を植える(それが蹴鞠の取り決めとなっている)。
とりわけ春は桜の色は華やかであり、(その華やかさに対して)柳は飾り気のない緑である。春が過ぎれば花と柳の競い合いは終わってしまう。こうして夏も過ぎ秋になれば、(その葉が)散るのが物悲しげである。カエデが紅葉して、夕霞にかすみ、秋雨にうたれていくと、様々に歌に詠まれるが、冬になると、これもまた、すっかり散ってしまって残るところがない。そうしているうちに、常に変わることのない松の緑が、いよいよ現れる。(中略)」と。
人間は、えてして自分の気の合う人や、使いやすい人ばかり周囲に集めがちである。信玄の言葉は、指導者としての大切な戒めである。
◇御義口伝に説かれる法義
このことに関連して、有名な「桜梅桃李」の法義にふれておきたい。
「御義口伝」の「無量義経六箇の大事」のうち「第二 量の字の事」(全784・新1090)には次のように仰せである。これは無量義の三字のなかの「量」の一字についての御義口伝である。
まず「御義口伝に云く量の字を本門に配当する事は量とは権摂の義なり」と。
すなわち「無量義」の三字をおのおの法華経の迹門、本門、観心に配当するとき、「量」の字は本門に配される。それは「量」には、一切のものをはかり、包含するという意味があるからである。
一切をはかり包含する義が、なぜ本門にあたるかが、次に述べられる。
「本門の心は無作三身を談ず此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず、森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり」と。
——本門の元意は無作の三身を説きあらわすところにある。しかし、この無作三身とは、たんに仏のことばかりをいうのではない。本門では森羅万象、一切の生命活動を、すべて自受用身という如来の生命の顕現であると説く。すなわち妙法に照らされて、一切の生命活動が自体顕照となり輝くのである。ゆえに迹門において明かされた不変真如の理円(理の一念三千)を、そのまま改めないで、すべての事象のおのおのの当体が無作三身であるとする。これが本門の事円の三千(事の一念三千)の元意である——というのが、この御文の意味である。
続いて「是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」と。
——桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、一切の生命がおのおのの当体を改めずして、そのままの姿で無作三身の仏と開見していく。これこそ一切をはかり包含することであり、「量」の義である——。
◇広宣流布を進める意義
法華経は、すべての生命を、あますところなくつつみこみ、おのおのが尊極の仏であると説く。草木も国土も無作三身の仏である。人間も無作三身の仏である。この卓越した思想が世界に広まるとき、戦争など起こしようがない。人間が殺しあうことなど、ありえないにちがいない。広宣流布を進める重大な意義がここにある。
さらに大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり云云」と仰せになっている。
御本仏の、まことにありがたい御言葉である。(中略)
大切なことは、自身が成長することである。限りなくわが境涯を開きゆくことである。境涯を開いた分だけ、人生に価値が生まれ、勝利が輝く。また法のため、広布のために、わが人生を捧げ、生きぬいた分だけ福運と功徳がついてくる。つねに「現当二世」の信心で、朗らかに前に進んでいっていただきたい。(『池田大作全集』第68巻 富士宮圏記念幹部会でのスピーチから)