リーダーが常に学び続け
新鮮な言葉で語ってこそ
同志の心に響く。
求道の息吹みなぎらせ
新たな価値創る日々を!
衆生身心御書 P1595
『法華経の行者はいやしけれども守護する天こわし、例せば修羅が日月をのめば頭七分にわる犬は師子をほゆればはらわたくさる』
【通解】
法華経の行者は卑しい身分ではあるけれども、守護する諸天は強い。たとえば、修羅が日月を呑むと頭が七分にわれ、犬が師子を吠えれば腸がくさる。
名字の言 ある個人会場での座談会終了後のこと 2022年10月18日
ある作家の講演を録音したカセットテープを地域の資料館で借りた。聞き終え、"次に聞く人のために"と再生機の巻き戻しボタンを押す。くるくると巻かれていく様子に懐かしさを感じた▼スマホやタブレットなら、こんな気遣いは無用だ。映像も音源も、希望する時点へ瞬時に飛べる。それと比べれば手間暇はかかるが、テープが冒頭まで巻き戻る、しばしの間、聞いた内容を思い返し、より理解を深められたのは有意義だった▼ある個人会場での座談会終了後のこと。"次の使用者が気持ちよく会合を行えるように"と、参加者が清掃とアルコール消毒を始めた。手を動かしながら、皆、マスク越しに座談会の感想などを語り合った▼「多宝会の○○さんが数年ぶりに出席したのは、お孫さんの『一緒に行こうよ』の声に押されたからだそうですよ」「御書講義を初めて担当した男子部員は、地区リーダーと5回も勉強会を持ったと聞きました」「今日の女性部の方の体験を聞いて"私ももう一度、唱題に挑戦しよう"と決意しました」……▼会合はオンラインを併用する場合もある。効率等を考え、形を模索することも一つの価値創造だ。その上で、足を運んで、会って語り合う時間の価値は計り知れない。
寸鉄 2022年10月18日
信心は万人ができる実践方法—牧口先生。全ての人の幸福を開く信仰なり
民音創立記念日。文化の花咲く平和の時代創造へ 推進委員の献身に大拍手
京都の日。威風堂々たる広布の人材城。大関西に輝く常勝の新章節を頼む
幹部は一度の訪問・激励に真剣勝負で。共に前進を誓う有意義な語らいを
ごみ処理費増大。削減は市民の協力が不可欠と。水気をよく切る等、賢く
☆全国男子部幹部会 池田主任副会長のあいさつ
◇不退の大闘争を師と共に
一、大成功の全国男子部幹部会の開催、誠におめでとうございます。
無限の希望——これが真実の仏法の証しであり、なかんずく男子部魂であると思います。池田先生も19歳の時、希望を胸に信仰の道を歩み始められ、本年8月で75周年となりました。
先生が20歳の時、信心を始めて1年目の心境を書かれた、当時の"わら半紙"があります。ここにつづられた清新な決意は、新出発する男子部へのエールにも通じると拝されますので、ここで、ご紹介させていただきます。
冒頭、先生は「真実なる宗教の追求に進まんと決意」し、昭和22年(1947年)8月24日、「御本尊を戴く」と書かれています。
また、折伏を受けている中で、深遠な哲理と、熱烈にして強固な信念を持って進みゆく姿に、何か厳粛にして尊きものを直覚したこと。そして、自らの観念の遊戯にとどまる心情を強く反省させられ、苦しかったが、「当たって砕けよ」の意気で信仰の門に入ったことを、率直に述べられています。
入信の動機としては4点、挙げられています。「第一に、敗戦国日本の建設のすべての根本たる思想を樹立したかった」「第二に、自身を自覚し、真の生命の実相を実感したかった」「第三に、混濁の波に流れゆく全人類に、新たなる生命の息吹と曙光(夜明けの光)とを与え得る様な不滅の文芸作品を送りたかった」「第四に、大きな意味に於ける正義と善悪の基準を知りたかった」——この4点です。
さらに「それには、先ず自分自身が高い人生を生きる事だ。否、最高の真如(真理)の世界に進むべし」とあります。
そして"人類を覚醒せしめ得る真の原動力は、ここにある"と確信して、「弱き自分をむち打ちつつ、折伏に信仰に」一歩一歩、進んでいると結ばれ、最後に、昭和23年7月14日の日付と「現在、大世学院政治経済科在学中」と書かれてあります。当時、先生は病弱に苦しむ中、昼は働きながら大世学院(現・東京富士大学)夜間部に学んでいました。
若き先生も、皆さんと同じように、一青年として、悩み、苦しみ、もがきながらも、この妙法の信仰に「人間のための宗教」を見いだし、広宣流布という"生き方"を選び取られたのです。
先生は、75年間の不退の大闘争を貫き通して、入信の時に志した「平和と繁栄の社会の建設」も、「生命尊厳の思想の樹立」も、「全人類への貢献」も、そして「正義の民衆勢力の構築」も全て成し遂げられました。
なかんずく、小説『人間革命』(全12巻)、さらに『新・人間革命』(全30巻)は、全世界の青年たちへのかけがえのない贈り物となっています。
師弟は不二なるがゆえに、「創価の信仰」を自ら選び取った地涌の青年の皆さん方に、先生が体現された「人類を覚醒せしめ得る真の原動力」が発揮できないわけがない。
否、「従藍而青」の後継として、偉大なる「人間のための宗教」の力で、いやまして地球民族を結び、高めていくのが、新時代の山本伸一たる皆さんであると申し上げたいのであります。
一、池田先生を師と定め、人類のため、平和のために行動する陣列は私たちだけにとどまりません。文化や言語、国境の壁を超え、今や宗教の枠すら超えて、世界中に広がっています。
アメリカ南部アトランタ市の名門・モアハウス大学のキング国際チャペルのカーター所長も「池田会長には弟子たちがいますが、私自身もその一人だと自任しています」と語るお一人です。
同大学は、アメリカ公民権運動のリーダー・キング牧師の母校として知られ、その名を冠した国際チャペルの責任者であるカーター所長も、キリスト教バプテスト派の牧師です。池田先生とは2000年、02年と対話を重ねられました。
私も、たびたびお会いしましたが、所長から"インド独立の父・ガンジー、キング牧師、そして池田会長の三人を並べる展示会を実現したい"と初めて伺った時は、正直言って大変に驚きました。
所長は私に力説されました。「ガンジーとキングの二人は、後世の人々によって少しずつ"神格化"されています。二人とも、そんなことは全く望んでいなかった。私は、その二人と同じ目的に向かって歩み続ける"生きた模範"こそ、池田会長であると確信しています」と。
非暴力で「権力」や「分断」に立ち向かい、社会を変革したガンジーとキング。現代において二人の理想と深く共鳴するのが創価学会、SGIの民衆運動である——これがカーター所長の確信でありました。
所長の熱意で実現した「ガンジー・キング・イケダ——平和建設の遺産」展は、2001年4月にモアハウス大学を皮切りとして、アメリカ国内のみならず世界中を巡回し、100万人以上が観賞しました。
いまだ暴力と差別が渦巻く21世紀にあって、池田先生と創価学会こそが人類の希望である——この信念を込めて所長が提唱してくださった展示は、世界中で大きな反響を呼びました。
師の思想を観念でなく、実践で受け継ぐ弟子がいる。業績を継承するだけでなく、さらに発展させゆく若き後継の情熱がある。ここにカーター所長は刮目し、私たちの前進に全幅の信頼と期待を寄せてくださっています。
一、日蓮大聖人は「我が末弟等を軽んずることなかれ。進んで過去を尋ぬれば、八十万億劫供養せし大菩薩なり。あに熙連一恒の者にあらずや。退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備うべし。天子の襁褓に纏われ、大竜の始めて生ずるがごとし。蔑如することなかれ、蔑如することなかれ」(新270・全342)と仰せです。
御聖訓に照らして、広宣流布に、日々の学会活動に、真剣に取り組んでおられる若き皆さんほど、尊貴な人はいません。その自分自身の大きな使命を、無限の可能性を、信じ切っていただきたいのであります。
世界中の池田門下の人間革命への挑戦が、一対一の誠実の語らいが、必ずや混沌とする世界を平和へ導きます。この確信に立ち、一人一人が広布後継の道を朗らかに、堂々と歩み抜かれることを念願し、祝福のあいさつとさせていただきます。
☆法華経に勝る兵法なし 千葉への指針から 第9回
◇信仰は"義務ではなく権利"
深遠なる仏法を弘め、広宣流布の歩みを世界へと進めているのが、わが創価学会である。ゆえに、学会とともに広布に邁進していけば、松にかかったツタが千尋の高さを登ることができるように、おのずと幸福への道が開けていくことは間違いない。
ともかく、信仰は「権利」であり、「義務」ではない。
退転だけは絶対にしてはならない。少しでも信心の息吹にふれようという求道心は失ってはならない。信心の心を失えば、歓喜がなくなり、生き生きした生命の躍動がなくなる。福運が途絶えてしまう。功徳を消してしまう。それでは、自分自身はもとより、家庭や一族の方々がかわいそうである。(中略)
大切なのは、強い「信心の心」である。戸田先生はよく"信心は学会のためにするものではない。自分自身のためにするのだ"と話されていた。
どうか、自身のため、一家のため、そして一族の未来永遠の繁栄のためにも、勇気ある信心を粘り強く貫いていかれんことを、重ねて念願するしだいである。(1990年5月、第2回千葉県記念総会でのスピーチ、『池田大作全集』第74巻所収)
◇転倒の世にも信念はゆずれない
私はかつて、中国の友人から、書を頂戴した。「衆人皆酔 我独醒」としたためてあった。今も、ある会館に大切に掲げてある。いうまでもなく、司馬遷の『史記』にも収められた屈原の詩である。
挙世皆濁 我独清(世を挙げて皆濁り、我独り清めり)
衆人皆酔 我独醒(衆人、皆酔いて、我独り醒めたり)
——世の中はすべて濁っている。私だけが清らかに澄んでいる。人々は皆、酔っている。私だけが醒めている——。
一般に、この句は、陰謀によって祖国(中国・戦国時代の楚の国)を追放された屈原が、晩年に書いたとされている(「漁父の辞」)。社会の大勢に順応すべきだと説く漁師に対して、"自身の正しさが濁れる世には受け入れられなかったのだ"と指摘しているのである。
世は挙げて正義に背こうとも、わが信念はゆずれない。だれ人も濁らせることはできない——。屈原の偉大さとともに、その孤独感がにじんでいる詩でもある。
私どもに対しても、さまざまな無理解はある。しかし、私どもは決して孤独ではない。だれがわからなくとも、御本仏の御照覧は絶対である。また全宇宙の仏菩薩がつねに私どもを守り、たたえ、ともに行動してくださっている。さらに真実の幸福を求める全世界の民衆の最大の友となり、味方となって進んでいるのが私どもなのである。(同)