「いかに強敵重なるとも・
ゆめゆめ退する心なかれ」
広布は仏と魔との攻防戦。
勢いと粘りの対話で
激戦突破の歴史綴ろう!
上野殿御消息 P1527
『かくれての信あればあらはれての徳あるなり』
【通解】
今は知られなくとも誠意があれば、いつか外にあらわれての徳があるといわれているとおりである。
名字の言 琉球の外交史に刻まれた精神 2021年10月28日
琉球王国時代の440年余にわたる膨大な外交文書が収められた「歴代宝案」。諸外国との外交の歴史と共に、海の往来で起きた遭難に関する記録も多く残されている▼琉球には外国の漂着者を保護し、本国に送還する態勢が整っていた。ある時、救助した中国の漂着船に重病者がいた。琉球王府の医師が懸命に治療するが及ばず、遺体は手厚く葬られた。後に帰国した一人が、琉球での厚遇を伝え広めた▼一方、傍若無人に振る舞う外国人には、毅然とした態度で交渉した。交易国の間で琉球人は"正直で人を裏切らない"として、一目置かれたという。琉球の外交史には大国を相手に長期繁栄を築いた、生命尊厳と信義重視の精神が刻まれている▼池田先生は、外交で重要なのは「勇気」と「誠実」であると述べた。難しそうな相手にも胸襟を開いて率直に語り合う。そして"この人なら信じられる"と思われるような信頼関係を築くことである、と▼法華経に説かれる不軽菩薩は、万人に仏の生命が具わると確信し、礼拝行を続けた。相手にも自身にも仏性があるとの信念を貫いた精神闘争だ。ここに"創価の外交戦"の魂がある。「勇気の対話」「誠実の振る舞い」から、共感の万波は広がっていく。
寸鉄 2021年10月28日
「やすみぬれば火をえず」御書。中途半端で壁は破れない。悔い残さず拡大
大空知、留萌、サロベツに栄光の虹を!北海同志が猛追。日本中から大声援
公明、東京の12区と比例で追走。逆転へ議員が全力を!民衆の連帯で支援
公明党の「公約実現度」は8割超—NPO調査。コロナ克服の推進力たれ
歩きスマホの視界は通常の20分の1と。事故の元。"私は大丈夫"の油断排し
☆人間主義の哲学の視座 第12回 対談集「21世紀への選択」に学ぶ(下)
テーマ:安心と安全
池田大作先生の著作から、現代に求められる視点を学ぶ「人間主義の哲学の視座」。「安心と安全」をテーマに掲げ、前回に引き続き、マジッド・テヘラニアン博士との対談集『21世紀への選択』をひもとく。
【池田先生】
互いに「対話」に徹してこそ異文明の接触は創造的方向へ
【テヘラニアン博士】
平和を目指す私たちの挑戦は一人一人の人間革命が基軸に
◇崩壊か突破か
「私たちは歴史の転換点を迎えている」——グテーレス国連事務総長は、先月10日に発表した報告書「私たちの共通の課題」で、そう述べた。
創設75周年を迎えた昨年、国連では、全世界の150万人に対して、未来の優先課題や行動のアイデアに関する調査を実施。同報告書は、この調査結果やその後に行われた協議の内容を踏まえ、国連としてのビジョンを打ち出したものである。
事務総長は、気候変動や新型コロナ感染症といった共通の課題を前に、人類は「ブレークダウン(崩壊)かブレークスルー(突破)か」といった緊急の選択を迫られているとし、そうした選択をする同様の機会は「二度と訪れない」。つまり、手遅れになる前に行動を加速すべき時は「今」であることを訴えている。
◇想像力の所産
危機を前に、崩壊ではなく突破するための方途としてグテーレス事務総長が強調したのは、グローバルな連帯、多国間の協力の必要性であった。
もとより、連帯と協力は、人々の安心と安全を実現する上で最重要の課題の一つである。社会を分断し、混乱へと陥れようとする力が働く危機の時代にあっては、それらの価値をいやまして高めていく挑戦が不可欠だ。
池田先生とテヘラニアン博士との対談が行われた1990年代、宗教や民族の対立に端を発する紛争が、世界各地で発生していた。「文明の衝突」は、国際社会の論壇の主たるテーマとなった。
ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン博士は、衝突が不可避であるかどうか以前に、文明という側面で人間を「一面だけから見」「ひと括りにする」こと自体が、政情不安をあおると指摘した(東郷えりか訳『人間の安全保障』集英社)。この視点は、先生と博士の対談にも通底している。
先生は、紛争などの背景にある複雑な要因を「文明の衝突」という図式だけで捉えると、"文明が異なるのだから、対立は不可避である"といった見方が定着し、ゆえに、対立の真の原因が見失われてしまうと指摘する。
博士は賛同しつつ、ではなぜ、「文明の衝突」というテーゼが世界中の注目を集めたのかを語る。
——国民の団結を強めるために外敵を必要とした国々は、目に見える外敵がいない場合、新たに敵を想定しようとする。「文明の衝突」は、排他的な立場をとる人々にとって、都合のよい理論となった、と。
文明とは、分析上のカテゴリーとしての有用性を超えた、多様な人間が織りなす生き方や価値観の表現である——これが両者に共通する捉え方だった。
テヘラニアン 文化と文明はすべて、有限、はかなさといった人間の普遍的状況に順応しながら、その状況を変革し乗り越えようとする人間のイマジネーション(想像力)の所産であると、私は思うのです。
池田 限りある自己を乗り越えていく想像力、またその所産としての変革のダイナミズムにこそ文化や文明の生命があるという見解に、私も全面的に賛成です。
テヘラニアン それぞれの文化、それぞれの文明が、それ独自の生態的、歴史的状況のなかで「生の神秘」に向きあっているのです。
だからこそ、それぞれの違いは人間の天分の多様な表れとして尊重され、讃美されるべきです。
◇
文明間の出合いには、破壊的な関係だけでなく創造的な関係もありえます。おそらく、その両方と言ってもよいでしょう。
池田 異文明の接触によってもたらされるエネルギーを、真に創造的な方向へと生かせるかどうかはひとえに双方の努力、まさに「対話」にかかっている、と私は思うのです。
◇賢者の論
異なる文化や背景の人同士が、語り合い、学び合う中で、互いの世界観は大きく広がる。先生と博士の交流自体、そうした「文明間の対話」にほかならなかった。
先生は、文明間の対話を想起させる歴史的な事例として、仏教の古典である「ミリンダ王の問い」を紹介。力による「王者の論」ではなく、対話による「賢者の論」が重んじられた話を通して語る。
「『賢者の論』という象徴的な言葉に、時代を超えた普遍的な対話の要件、つまり、理性的で実りある対話を成立させる基本が示されていると思います。それはまた、平等で自由な対話を根本としてきた、釈尊以来の仏教者の姿勢でもありました」
さらに先生は、そうした「賢者の論」の精神と共に、互いの差異を乗り越える普遍性へのまなざしが、実りある対話には欠かせないと強調。国や民族の多様性の奥に輝く「人間性」という普遍の光を、人類の心に灯し、その輝きを高め合うことが、民族や文化・伝統といった多様性を真に生かす道であると訴える。
テヘラニアン 科学技術の大進歩は私たちの社会に絶え間ない変化をもたらしましたが、その一方で限りない欲望が人々の心を支配しているのです。
◇
そうしたなかで、人生の意味を探求する世界中の思慮深い人々は、自分たちのかぎられた文化の地平の彼方をのぞみ見て、他の文化や文明のなかに現在の難局を打破する答えを求めています。(中略)世界のどこを訪れても、排他的な民族主義、自民族中心主義、「文化の自己讃美主義」を超えることのできる普遍性が希求されているのを、つくづく実感するのです。
池田 私も1994年に行ったモスクワ大学での講演(「人間——大いなるコスモス」)で大要、次のように論じました。(中略)「普遍性」とは、人間と自然と宇宙が共存し、小宇宙(ミクロ・コスモス)と大宇宙(マクロ・コスモス)が一個の生命体として融合しゆく「共生」の秩序感覚であり、そうしたみずみずしい「普遍性」を生命に充溢させていくならば、たとえ属する集団が異なったとしても、対話も相互理解もつねに可能である——と、訴えたのです。
また先生は同講演を踏まえつつ、トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』をひもときながら、「内発性」こそが、人格的な価値の枢軸をなし、対話の要件ともいうべき謙虚さ、寛容さを生み出してきた母胎であったと述べた。そして、この内発性をおろそかにしたがゆえに、"宗教のため"に人間が傷つけ合うといった転倒が繰り返されてきたと指摘している。
池田 "宗教のため"ではない、いっさいの根本は"人間のため"という一点にある——私たちSGIがめざす「人間革命」運動は、こうした歴史の転倒を正し、ともに光り輝く地球文明を創出するための方途として、一人一人の人間生命の次元からの変革を第一義として掲げているのです。
テヘラニアン "宇宙船地球号"を文明間の平和、友好、超越をめざす私たちの共同の旅の乗り物と見なす「地球文明」は、(池田SGI)会長が主張されるように、まさに一人一人の「人間革命」を基軸として創造されなくてはならないのです。
【編集後記】対談集の終章では、書名に冠された「選択」の意味について語り合われる。選択とは「どちらかといえばA、どちらかといえばB」というような消極的なものではなく、「未来を敢然と開く人間の意志の力を示した言葉」(池田先生)であり、「人間が未来に対してなしうる大いなる挑戦の異名」(テヘラニアン博士)なのだ、と。社会の挑戦課題が複雑に山積する「歴史の転換点」にあって、最善の選択を共に求めゆく「対話」の重要性は、いくら強調してもし過ぎることはない。その対話の実践の中に、「安心と安全」の未来はある。
☆ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史 第13回 詩心とは「正義の闘魂」の異名なり(上)
◇高らかな喝采と凱歌をあげよ!
フランスのビエーブル市に立つその建物は、かつて「ロシュの館」と呼ばれていた。芸術や文学を語り合うサロンであった。文豪ビクトル・ユゴーも家族と共に足を運び、詩想を練ったという。
1991年6月、この「ロシュの館」が、「ビクトル・ユゴー文学記念館」として装いを新たにした。ユゴーの小説の下書き原本や直筆書簡など、約7000点を所蔵。そのうち、長編小説『レ・ミゼラブル』の校正刷り、『静観詩集』の校正刷りなど、5点がフランスの「国宝」に指定されている。
記念館の誕生から、さかのぼること10年。81年6月15日、池田大作先生はフランス上院のアラン・ポエール議長と会談した。その折、議長の厚意で、リュクサンブール宮殿を見学。一室がユゴーをたたえる部屋になっていた。
先生は同行の友に、「ユゴーも反対勢力によって、島流しにされた経験をもっているね」と語り、文豪の生涯に思いを巡らせた。
ナポレオン3世の弾圧によって、ユゴーが亡命を余儀なくされたのは49歳の時。迫害の渦中、ユゴーは『レ・ミゼラブル』やナポレオン3世を弾劾する『懲罰詩集』などを完成させた。試練が創造の魂を鍛えたのである。
先生のリュクサンブール宮殿の訪問は、10年後の「ビクトル・ユゴー文学記念館」の創立を着想するきっかけとなった。
先生がユゴーと同じ49歳の時、宗門僧は衣の権威をかさに、悪辣な学会批判を繰り返し始めた。宗門は先生に、"会合で指導してはならない""聖教新聞に出てはいけない"と制約をつけた。この師弟分断の謀略に対する本格的な反転攻勢が、開始されたのが81年である。
先生は1月の北米訪問、2月中旬からの北・中米訪問に続き、5月9日からは61日間で北半球を一周する平和旅へ。この時の思いを、「海外から日本を激励するんだ」と記している。
永遠の法をよりどころとしながら、縁に随って、最も適切に対応していく真実の自在の智慧を「随縁真如の智」という。聖教新聞の海外報道の記事は、日本の同志の歓喜となり、希望となった。それは、先生の「随縁真如の智」の励ましにほかならなかった。
帰国後の10月31日、先生は創価大学の第11回「創大祭」のオープニングセレモニーに出席。学生からの要請を受け、「歴史と人物を考察——迫害と人生」と題する講演を行った。
その中で、菅原道真や頼山陽をはじめ、ユゴーやルソーなど、古今東西の人物について言及した。苦難の渦中に信念を貫いた生き方に触れ、率直に真情を語った。
「私も一仏法者として、一庶民として、全くいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし、僭越ながら、この"迫害の構図"に照らして見れば、迫害こそ、むしろ仏法者の誉れであります」
「後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく糾弾していくであろうことを、この場をお借りして断言しておきます」
講演の会場となった中央体育館(当時)は、79年5月3日、第3代会長辞任後の本部総会が行われた場所だった。同じ場所で、先生は高らかに勝利を宣言した。
その日、フランスのソー市にあるパリ会館で、フランス青年部の大会が開催されることになっていた。1981年6月14日のことである。
宿舎を出た池田先生は、ルーブル美術館に隣接するチュイルリー公園沿いの通りを歩き、地下鉄の駅に向かった。構内に入ると、先生は語った。
「青年たちの新しい出発のために、詩を贈ろう」
ホームで口述が始まった。
「今 君達は/万年への広宣流布という/崇高にして偉大な運動の/先駆として立った……」
チュイルリー駅から三つ目のシャトレ駅で、郊外へ向かう線に乗り換える。待ち時間の間も、詩作は続いた。乗車後、しばらくして口述は終わった。
詩は走り書きのメモから、ノートに清書された。先生は車内で推敲を重ね、直しを入れていく。その時、「センセイ!」と呼ぶ声がした。3人のフランスの青年が立っていた。
その一人、ナタリー・パパンさんは、前年の80年に信心を始めたばかり。彼女は胸の内の悩みを口にした。
「私が住む町で信心しているのは、私だけです。座談会の会場まで数時間かかります。どうしたら、この仏法を広げていけるでしょうか」
先生は答えた。
「心配ありません。あなたがいるではありませんか。全ては一人から始まるんです」
「仏法を持ったあなたが、大樹のように、皆から慕われ、信頼されていくことが、そのまま仏法への共感となり、弘教へとつながっていきます」
師の励ましを原点に、ナタリーさんは劇作家として活躍。"私自身が地域の大樹になろう"と、地道に対話と励ましを重ねた。彼女が住む町サン・ブリューでは今、座談会が幾つもの会場で開かれている。
列車がソー駅に着く頃、詩は完成した。先生一行がパリ会館に到着すると、直しが入ったままの原稿が、翻訳のスタッフに手渡された。先生は翻訳の作業室に足を運び、一人一人に感謝を伝えている。
午後5時半、青年部の代表者大会の幕が開けた。先生の詩「我が愛する妙法のフランスの青年諸君に贈る」を男子部のリーダーが読み上げていった。
「君達よ/フランス広布の第二幕の/峰の頂上に立ちて/高らかなるかっさいと/凱歌をあげるのだ/そのめざしゆく指標の日は/西暦二〇〇一年六月十四日/この日なりと——」
詩の誕生から20年後の2001年6月。師との約束の時を迎えた青年たちは皆、フランス広布のリーダーへと成長した。
この月、先生は再び詩を贈った。タイトルは「希望のシャトー(大城)よ 永遠に輝け!」である。
「時は来た/勇敢に立ち上がれ!/満々たる希望をもて!/新鮮な光で身を包みながら/新しき世紀の城門を開くのだ」
「さあ 前進だ!/今再び/学会創立百周年の/二〇三○年へ/共に行進しよう!」
師が示した学会創立100周年の2030年へ——。フランスの友は「良き市民」として、社会貢献に力を尽くしている。
フランスの青年に詩を贈った2日後の81年6月16日、シャルル・ド・ゴール空港を出発した池田先生は、大西洋を越えて、アメリカ・ニューヨークに降り立った。
翌17日の朝、今度はアメリカの青年に指針となる詩を贈ろうと、先生は詩作に取り掛かった。詩が完成したのは、3日後の20日である。
この日、先生はアメリカの詩人・ホイットマンの生家を訪ねた。ニューヨークに到着した16日、青年たちからホイットマンについての評論集と、その日本語訳が届けられていた。
79年、一人の青年が古書店でホイットマンの評論集を手に入れた。時あたかも第1次宗門事件の渦中。余波は、ニューヨークにも及んでいた。その中で、青年たちが創価の旗を掲げ、学会の正義を語り抜いた。
"今こそ、自分たちの決意を先生に伝えたい"との一心で、翻訳を開始した。しかし、専門家ではない。有志も手伝い、2年越しでようやく完成した。
一緒に添えた手紙に、「ホイットマンの生家を、ぜひ訪問してください」とつづった。先生が生家に足を運んだのは、青年たちの苦労と真心に応えるためでもあった。
ホイットマンの詩集『草の葉』は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』などと共に、先生の青春時代からの座右の書である。
「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないのだ」(富田砕花訳)——78年2月19日、先生は東京・立川文化会館で開催された信越男子部幹部会で、『草の葉』にある「大道の歌」の一節を贈っている。折々にホイットマンの言葉を通し、励ましを送ってきた。
生家を訪れた先生は、生家協会の関係者から請われ、ノートに記した。
「我が青春の新鮮なる心を/いやがうえにも燃え上げた/ホイットマン生誕の家に今来る/詩人とは 詩心とはを/今再び/自然の心に戻りて/思索の一時を送る」
先生がホイットマンの生家を後にした午後4時ごろ、ニューヨーク市内の高校で、日米親善交歓会が行われていた。2人の青年が、先生が詠んだ長編詩「我が愛するアメリカの地涌の若人に贈る」を朗読した。
「私は広布への行動の一切を/諸君に託したのだ/一切の後継を信ずるがゆえに/今 世界のすみずみを歩みゆくのだ/君達が/小さき道より/大いなる道を創りゆくことを/私は信ずる/ゆえに/私は楽しく幸せだ」
朗読が終わると、会場は喝采に包まれた。ニューヨークの多くの友が、当時を振り返り、こう語っている。
「あの"魂の詩"で、ニューヨークの組織は蘇生したんです」
慈雨は大地に等しく降り注ぎ、万物を潤す。師の激闘によって、アメリカは第1次宗門事件という"干ばつ"に終止符を打ち、新たな黎明の時を迎えたのである。
先生がアメリカで激励を重ねていた81年7月1日、詩人の国際団体「世界芸術文化アカデミー」が、先生に「桂冠詩人」の称号の授与を決定した。
「桂冠詩人」として、先生が初めて作詞した学会歌は、四国で誕生した「紅の歌」。最初の長編詩は、九州・大分で詠んだ「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」である。