磨かれた人格の輝きは
百万言の雄弁に勝る。
真心と誠実の振る舞いは
皆を味方に変える。
朗らかに! 堂々と!
同一鹹味御書 P1447
『夫れ味に六種あり一には淡二には鹹三には辛四には酸五には甘六には苦なり、百味の?膳を調ふといへども一つの鹹の味なければ大王の膳とならず、山海の珍物も鹹なければ気味なし』
【通解】
味に六種がある。一には淡、二には鹹、三には辛、四には酸、五には甘、六には苦である。たとえ百味の料理を調えたとしても、一つの鹹の鹹味がなければ大王の膳とはならない。山海の珍物も、鹹がなければ何の風味もない。
名字の言 じっくり一歩ずつ 2021年10月17日
先日、知り合いの夫妻に子どもが生まれた。その時に思った。赤ちゃんが母の胎内にいる期間を俗に「十月十日」という。そして誕生し、成人するまで20年……実に長い▼社会にはスピード重視の分野も多い。おかげで便利を享受できる面がある。ただ、人間の心身の成長は"じっくり一歩ずつ"が望ましいと感じる▼信仰も同じだ。問題の解決を祈った途端、ぱっとかなってしまえば、本物の信心は築けない。ある女性部員の話。彼女は、故郷から離れた山村に住む未入会の男性と結婚した。同居家族、集落の人は信心に無理解だった。"私の宿命か……"と苦悶した▼だが祈るほどに心が変わった。"この悩みは信心の素晴らしさを証明するための「私の使命」だ"と。以来、誠実に一家和楽と地域発展に尽くした。やがて家族から「自慢の嫁」、周囲では「立派な女性」と口々に言われるようになった。そして家族全員が入会。足かけ10年の勝利の実証だった▼御聖訓には「地獄の苦しみがぱっと消えて」(御書1000ページ、通解)とある。これは"ぱっと"解決するというより、一念が変わった「瞬間」を意味する。それを裏付けるように彼女は語った。「宿命を使命に変えた瞬間からの10年間は『宝の歳月』でした」
寸鉄 2021年10月17日
「かしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ」御書。果敢な行動力で圧倒せよ
大東京よ爆発的拡大を。本陣には喜び勝たなむ力あり—今こそ本領発揮!
新潟、長野、石川、富山、福井よ押しまくれ!ここから渾身の攻めで逆転を
徳島、香川、愛媛、高知が力闘。執念で正義を叫び、新たな勝利の暁鐘鳴らせ
相手に与える印象は表情や声で9割が決まると。一瞬の出会いも真剣勝負
☆ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち 第12回 ローザ・パークス
〈パークス氏〉
ウィ・シャル・オーバーカム!
私たちは必ず勝利する。決意すれば恐れることなど何もないのです。
今から65年前の1956年1月、池田大作先生の師子吼が関西本部に響きわたった。「今度の関西の戦いは勝った!」——広布史に燦然と輝く「大阪の戦い」の出発である。
若き指導者の大確信に呼応して、関西では5月に大阪支部が「1万1111世帯」という未曽有の弘教を達成。7月には世間をあっと言わせる"まさかが実現"の金字塔を打ち立てた。
その勢いはやがて、新たな民衆勢力の台頭を恐れた権力による弾圧を呼び起こす。ここから、創価の人権闘争が本格的に始まったのである。
「大阪の戦い」の開始に先立つこと1カ月。太平洋を隔てたアメリカでは、一人の女性が正義の人権闘争に立ち上がった。「公民権運動の母」と敬愛されるローザ・パークス氏である。
当時のアメリカ社会には人種差別がはびこり、黒人への暴力や殺人が横行していた。
55年12月、アラバマ州モンゴメリーで市営バスに乗車していたパークス氏は、運転手から白人乗客に席を譲るよう恫喝される。しかし彼女は「ノー!」と拒否。駆け付けた警官に逮捕されてしまう。
この勇気ある行動は民衆の心に火をつけ、M・L・キング博士を中心とした「バス・ボイコット運動」へと発展。その後、公民権運動は各地に広がり、63年には20万人による「ワシントン大行進」が行われ、「ウィ・シャル・オーバーカム(私たちは必ず勝利する)」の歌声が轟いた。そして翌64年7月、人種差別を撤廃する公民権法が制定されたのである。
後に氏は自らの半生をこう振り返っている。「私は長年の経験から、『決意すれば、恐れる心を打ち消すことができる』ということを学びました。何をすべきかわかっていさえすれば、恐れることなど何もないのです」
あの日、もし彼女が決意の声を上げなければ、差別の壁は動かなかったかもしれない。
「一人の勇気」が社会を変える——人権闘争の歴史は、それを雄弁に物語っている。
〈パークス氏〉
希望を捨ててはいけません。
未来の世界がどうなるかは、今の自分の行動にかかっています。
パークス氏の人権闘争のルーツは、偏見にさらされた苦悩の実体験にある。
青春時代を過ごした祖父母の家は、黒人差別の強い地域にあった。祖父は銃を側に置いて眠りにつき、彼女はいつ白人に襲われても逃げられるように、服を着たまま寝かされた。
白人と黒人の"違い"を意識するようになったのは、学校に通い始めた頃。黒人学校には窓ガラスがなかった。徒歩で通学中、バスに乗った白人からゴミを投げ付けられもした。多感な少女の心は、差別に対する憤りでいっぱいになった。
19歳の時、全米黒人地位向上協会(NAACP)のメンバーだったレイモンド・パークス氏と結婚。人権運動に身を投じていく。
1940年代に入ると、人種差別は一段と激化。公共のバスは座席の前部が白人用、後部が黒人用に区別された。黒人は前方のドアで運賃を支払った後、一度降車して、後方のドアから再び乗車することを義務づけられた。
43年の冬のある日のこと。パークス氏は前方ドアからバスに乗り、乗客をかき分けて後方へと移動した。拳銃を持った運転手は後方ドアからの乗車を命令。拒否すると威嚇され、強制的にバスを降ろされた。車内の人種隔離の規則を作るなど、運転手には警察的権限が与えられていたのだ。
後に氏が逮捕された際のバスを運転していたのも同じ男だった(55年12月)。12年の時を経ても、黒人への不当な扱いは何ら変わっていなかった。
「よく人は、あの日私が席を譲らなかったのは、疲れていたからだと言います。しかし、それは違います。(中略)私が疲れていたのは、白人のいいなりになることに対してだったのです」——彼女の不服従の行動に端を発し、「バス・ボイコット運動」の波は急速に拡大。怒りを爆発させた人々は抗議のためにバスを拒み、来る日も来る日も歩き続けた。さまざまな脅迫も妨害も、目覚めた民衆の行進を止めることはできなかった。
「強くありつづけなければなりません。希望を捨ててはいけません。そうすれば、きっと打ち勝つことができます」
56年11月、連邦最高裁は"公共の交通機関における差別は憲法違反"との歴史的な判決を出す。バス・ボイコット運動が勝利を収めた瞬間だった。
その後、氏は公民権運動の精神を継承しゆく青少年の育成などに力を注ぎ、87年に「ローザ&レイモンド・パークス自己開発教育センター」を設立する。
92年12月には、講演会に招かれてアメリカ創価大学ロサンゼルス・キャンパス(当時)を訪問。語学研修中の創価女子短大生と交流し、学生の純真さに心から感動した氏は、翌月、訪米した創立者・池田大作先生と会見する。
〈パークス氏を語る池田先生〉
生きている限り、前進する。
人間を差別し、見くだす邪悪は絶対に許さない。
この強き心で民衆の世紀を照らしゆけ!
1993年1月30日。アメリカ創大ロサンゼルス・キャンパスに到着した"人権の母"を出迎えたのは、あの日、「ワシントン大行進」でキング博士らと共に歌った「ウィ・シャル・オーバーカム」の大合唱だった。
「会ってすぐに、これほどまでに親しみを覚え、『友人だ』と実感できる人には会ったことがありません」。和やかな語らいが弾む中、パークス氏はそう述べると、アメリカで『写真は語る』という本が出版されることに言及した。各界の著名人が"人生に最も影響を与えた写真"を選んで掲載する企画で、彼女にもその依頼があったのだ。
当初は、バス・ボイコット運動の写真にしようとした。だが"池田会長との出会いこそ、人生に最も大きな影響を及ぼすに違いない"と考えた氏は、会見での写真を載せたいと切望。その要請に池田先生は笑顔で応じた。
「きょう会長にお会いしたことによって、『世界平和』への活動という新しい側面が、私の人生に開けてきたような気がします」——新たな展望を口にした氏は、翌94年5月、81歳で初めて太平洋を渡り創価大学へ。訪問の翌日には旧・聖教新聞本社で、先生と再会を果たした。
先生は、氏の歩みや公民権運動における女性の貢献に触れ、女性部をはじめ使命に生きる創価の友にエールを送ってきた。
「パークスさんは語っている。『私が生きている限り、私が動ける限り、偏見や人種差別、人々を後退させる悪に対して戦い抜いてまいります』
生きている限り、前進する。人間を差別し、民衆を見くだす邪悪は、絶対に許さない。この強き心が、民衆の世紀——21世紀を希望で照らす」(2003年8月21日、21世紀女性研修会でのスピーチ)
「パークスさんは、『未来の世界がどうなるかは、私たちが今どのように生きるかにかかっています』と強調されていた。
未来のために、今、自分に何ができるか。一流の人物は、この一点を見つめながら、命ある限り行動を続ける」(07年11月24日、婦人部最高協議会でのスピーチ)
「歴史を変える民衆運動の根幹には、女性の『励まし』がある。我ら創価の広宣流布の運動もまた、女性たち、母たちの『励まし』の力で朗らかに勝ってきた。これからも徹して励まし合いながら勝ち続けていくのだ」(本紙13年2月9日付「随筆 我らの勝利の大道」)
正義が栄え、民衆が輝く未来——立正安国の凱歌を開くのは「勇気の行動」「真心の激励」、そして「必ず勝つ!」という「決定した一念」にほかならない。