◇今週のことば
「柱なければ・たもたず」
我らは日本の柱なり。
民衆の声を、正義の声を
いよいよ威風堂々と!
生命尊厳の社会のために。
2021年10月4日
諸法実相抄 P1361
『不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首上行等の四菩薩の変化か、さだめてゆへあらん、総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ、日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん、南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女をみちびかんとおもへばなり、経に云く一名上行乃至唱導之師とは説かれ候はぬか、まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う』
【通解】
日蓮と貴辺とは不思議な契約があるのであろうか。六万恒沙の上首の上行等の四菩薩の変化であろうか。さだめて故あることであろう。総じて日蓮が身にあたる法門を差し上げている。日蓮はあるいは六万恒沙の地涌の菩薩の眷属であるかもしれない。南無妙法蓮華経と唱えて日本国の男女を導かんと思っているがゆえである。法華経従地涌出品第十五には「一名上行乃至唱導之師」と説かれているではないか。あなたにはまことに深い宿縁によって日蓮の弟子となられたのである。
名字の言 「虎の威を借る狐」の淵源となった説話 2021年10月4日
「虎の威を借る狐」は、権勢をもつ者の力に頼って威張る小人物を意味する。中国の史書『戦国策』に、淵源となった説話がある▼虎に捕まった狐が"獣の長者である私を食べてはいけない"と訴える。その証拠として、狐は自分が先に立って歩き、自分の後をついてくるよう虎に提案。獣たちは虎の姿を見て逃げだす。ところが、虎はそれに気付かず"狐を恐れている"と思い込む▼この説話は、虎から見た場合、「正邪を見抜く大切さ」を示しているように思える。他を圧倒するような力を持っていたとしても、虚言にだまされてしまえば、小人物にさえ利用されてしまう▼世間に広まるうそは、必ずと言っていいほど、さも真実らしい姿を装う。正義を広げゆく戦いとは虚言との戦いでもある。あの1956年(昭和31年)の「大阪の戦い」でも、"創価の真実を知ってもらいたい"との熱情が、学会に対する誤解と偏見を共感へと変えていった▼池田先生は「敵に対しては、『一』言われたら『十』言い返す。いな、『百』言い返す。正義の怒りをもって、言い切り、責め抜くことが大切である」と。真実の太陽が昇れば、詭弁は霧のように消え去る。師子王の心を燃やし、凱歌の秋を走り抜きたい。
寸鉄 2021年10月4日
創価の連帯が広がれば良い社会が築けると確信—識者。対話へ自信満々と
「出かけよう、道は僕らの前にある」詩人。躍進誓う10月!友のもとへ勇んで
東京富士美のエジプト展好評。古代人の心と文化に迫る浪漫溢れる作品群
国連世界宇宙週間。妙法は宇宙の根源の法則。朝の勤行から勝利の律動を
ネット通販巡る相談件数急増と。契約内容をよく確認。落とし穴を見抜け
〈社説〉2021・10・4 長編詩「母」——発表から50年
◇なんと不思議な豊富な力か
♪母よ あなたは なんと不思議な 豊富な力を もっているのか
池田先生が作詞した「母」の歌が誕生して、本年で45年。その基となった長編詩「母」が、大阪で行われた関西婦人部幹部会(1971年10月4日)で発表されて50年の佳節を迎えた。
「『母』の歌を聴くと、心が洗われ、限りなく温かい気持ちになります」——母を称えた歌詞は現在、諸言語に翻訳され、国境を超えて人々に愛唱されている。
作家の井上靖氏は"母が持つ愛の無限の深さ、強さ、広さ、美しさを称える詩に心打たれます"と語り、タイのある文化大臣は"どの国に、こんなに素晴らしい母の讃歌があるでしょうか。日本の方がうらやましい"と述べている。
かつて学会青年部の訪中団が、北京の人民大会堂で「母」の歌のメロディーを響かせた。その場にいた来賓の林麗?氏(池田先生と周恩来総理の会見の通訳)は、何度もうなずきながら歌に聴き入り、その瞳は涙であふれていた。
インドのソニア・ガンジー氏は、夫のラジブ・ガンジー首相が爆弾テロで命を落として9カ月後、自宅に池田先生ご夫妻を迎えた。
先生は、「母は太陽です。太陽は輝いてこそ太陽です」「前へ、また前へと進んでください」「一番、悲しかった人が、一番、晴れやかに輝く人です。悲しみの深かった分だけ、大きな幸福の朝が来るのです」と言いながら、「母」の曲のオルゴールを贈った。
後にソニア氏は、「オルゴールが大好きで、毎日、聴いていました」と語っている。
池田先生は歌に込めた思いを、次のようにつづっている。「長編詩『母』を歌にと考えたのも、けなげな庶民の母たちが、世界の人々の幸せと平和を祈り、日夜、献身的に行動しておられることへの感謝の思いからである」と。
聡明な励ましの声。快活な笑顔。全ての生命を守り慈しむ母ありて、私たちは「今」を生きている。母への感謝の思いこそ、人間の善性を目覚めさせ、結び付ける普遍的な力といえよう。
御書には、「百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる」(1403ページ)とある。コロナ禍の中にあって、人生の真の豊かさや生きがいが問い直される今、友の幸せを祈り、わが身を惜しまず行動する、創価の女性の連帯こそ、社会の希望の光である。
☆ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史 第12回 阪神・淡路大震災
◇フル回転した真心のネットワーク
ハワイ大学の平和研究所と学術機関「東西センター」の招聘を受け、1995年1月21日、池田大作先生は日本からハワイへ旅立つ予定だった。
世界青年平和文化祭、SGI(創価学会インタナショナル)総会など、重要行事が控えていた。
その4日前——1月17日の午前5時46分、阪神・淡路大震災が起こった。先生は、ハワイの全行程のキャンセルも考えた。
しかし、1月26日には、ハワイ大学の訪問と東西センターの講演が予定されていた。先生の訪問に合わせ、欧州やアジアの大学関係者が集うことになっていた。
変更できるスケジュールは、全て変更した。あと1日、もう1日と出発を延期し、先生は救援活動への激励に全力を注いだ。
震災が発生した17日の午前7時半ごろ、学会本部では先生の言葉が徹底された。——全力で救援を。考えつく、全てのことを。
同8時、東京と関西の両方に災害対策本部が設置。同9時、東西の対策本部に、ドクター部、白樺会・白樺グループによる「救急医療班」が結成された。
先生からのお見舞いが逐次、被災された方々に伝えられた。先生はさらに、関西へ伝言を送った。
「リーダーが滅入ってはいけない。社会の現象なんだから負けてはいけない」
「最善を尽くし、何でもしてあげてください」
時間の経過とともに、被害の全容が明らかになっていく。その甚大さに、多くの人が気を落とす中、関西の同志は心を奮い立たせ、救援活動に走った。
当時、学会の会館がなかった兵庫区。個人会場が災害対策本部になった。家主は、近くの電柱に「創価学会救援本部」との張り紙をした。午前11時には、その救援本部に、三田市の同志から大量のおにぎりが届いた。
午後10時ごろ、救援物資を乗せた艀が大阪港を出発した。艀は、停泊中の船と陸の間を、乗客や貨物を乗せて運ぶ小舟である。問い合わせた船舶会社の船は全て出払っており、艀をチャーターすることになった。
大阪港文化会館に集まった大量の物資を、壮年・男子部が5時間かけて積み込んだ。数十人のメンバーが、そのまま艀に乗った。午後11時半、神戸港に到着。物資を降ろし、大阪港に戻ると、時計の針は午前4時を回っていた。
"川を越えたら一切、愚痴は言うな"——尼崎の青年部は、それを合言葉に、尼崎から兵庫県東部を流れる武庫川を越え、神戸の被災地へ向かった。
先生がハワイへ出発したのは、1月25日の深夜。その折、「子どもたちの教育は、不自由していないだろうか」と。関西の対策本部は即座に反応し、兵庫県や神戸市に教育用品を寄贈した。
ハワイに到着した先生は26日、東西センターで講演。翌27日、アメリカ最高会議で、関西への思いを語った。
「わが偉大なる関西の友は、自分のことをさしおいてまで、人々のもとに足を運び、激励を続けている」
「人の面倒をみた人、友を励まし続けた人。その人には、だれもかなわない」
ハワイ訪問4日目となる1995年1月28日、世界青年平和文化祭が行われた。
創価合唱団が「ポリネシアンメドレー」を歌い終わると、舞台は関西吹奏楽団に移った。1曲目は「南太平洋メドレー」。2曲目に入ると、関西の交流団が立ち上がった。関西の愛唱歌「常勝の空」の演奏が始まった。
♪今再びの 陣列に
君と我とは 久遠より……
関西吹奏楽団と交流団のメンバーは、池田先生の方を向いた。先生は白い帽子を何度も、力強く回した。師の姿は、関西の友にとって、"関西、負けるな!"とのエールにほかならなかった。
阪神・淡路大震災が発生した1月17日から22日までの6日間で、学会は22万本の飲料水、65万個のおにぎり、50万個のパンを用意した。毛布7万5千枚、紙おむつ4万人分、粉ミルク5500缶、医療品2万5千箱なども準備した。
これらの物資を、ヘリコプターやチャーター船、トラック、バイクなどで輸送した。都市機能が停止する中、「陸」「海」「空」と、あらゆる方向から迅速な救援活動を展開した。
震災時、兵庫県知事を務めていた故・貝原俊民氏。生前、「私がいた知事公舎に、午前6時15分頃だったか、一番早く駆け付けたのは、地元の学会壮年部の方だった。私のことまで心配していただいていることに感激しました」との証言を残している。
信仰の有無など関係ない。同じ人間として、苦難にある人に救援の手を差し伸べる——関西の友の救援活動は、池田先生の心そのものだった。
95年2月2日、聖教新聞で連載中だった小説『新・人間革命』第3巻「仏法西還」の章で、山本伸一が仏法の生死観を語る場面が描かれ始めた。
4日付では、「広布のために、仏の使いとして行動し抜いた人は、いかなる状況のなかで亡くなったとしても、恐怖と苦悩の底に沈み、地獄の苦を受けることは絶対にない」と。
2月2日、ハワイでの諸行事を終えた先生は、関西へ。4日、関西文化会館で行われた追善勤行法要。先生は、「悪い象に殺された場合は地獄等には堕ちない。悪知識に殺された場合は地獄等に堕ちる」との経文を通し、「震災等で亡くなられた場合も、悪象による場合と同じく、絶対に地獄に堕ちない」と訴えた。
法要での師の励まし、小説に記された仏法の生死観は、関西の友の胸中に、大きな希望をともした。
震災時、救急病院の看護師だった婦人。子どもたちを神戸講堂に避難させると、自らは病院へ向かった。"野戦病院"の様相を呈する状況の中で、看護に当たった。
次々に襲い掛かる死の現実。心が押しつぶされそうになりながら、不眠不休で患者に寄り添い続けた。
震災後、家族を故郷の宮崎に帰した。大変な時だからこそ、子どもたちと一緒にいたい。でも、患者のそばを離れるわけにはいかない。身が裂かれるようだった。
"母親の私のことをどう思っているだろう"。不安が残った。震災から半年後、長女が書いた七夕の短冊に、婦人は目頭を熱くした。
——大きくなったら、お母さんのような看護師になりたい。
患者に尽くす「白樺の心」は、子どもたちに伝わっていた。後年、長女は看護師に。長男は創価大学に学び、広布後継の道を歩む。次女は創価大学を卒業後、看護学校へ。現在、看護師として奮闘を重ねる。三女は関西創価高校で向学の青春を謳歌している。
95年10月17日、「SGI総会」「21世紀兵庫希望総会」が、兵庫池田文化会館で晴れやかに開催された。
このSGI総会は2日間にわたって行われ、被爆50年の広島の地で開催される予定だった。
それが、1日目は広島で、2日目は兵庫で開かれることに。池田先生の提案だった。
震災から9カ月、神戸の街にはまだ、がれきの粉塵が飛び、復興は緒に就いたばかりだった。先生は語った。
「まだ車の渋滞がひどいのもわかっている。総会の運営も大変だ。しかし、懸命に立ち上がろうとしている、その神戸の地でやることに意味があるんだ」
兵庫のリーダーは、SGI総会に合わせ、「21世紀 兵庫総会」の開催を企画した。先生は、「総会に『希望』の二文字を加えようよ」と提案を重ねた。
震災から2カ月後、兵庫での座談会は、「希望座談会」との名称で行われた。兵庫の友は「希望」を語り合い、「希望」の力を持って、復興に立ち上がったのである。だからこそ、総会に「希望」の二文字が入ることは、何よりの喜びだった。
17日の総会で、先生は強調した。
「希望が力である。希望は『勇気』と『知恵』から生まれる。『知識』だけからは生まれない。そして信心とは『無限の希望』を生む知恵である。『永遠の希望』を生む知恵である」
「湊川はどっち?」
長田文化会館に駆け付けた友に、池田先生は尋ねた。2000年2月29日のことである。
南北朝時代の武将・楠木正成と正行。親子の別れを描いた歌"大楠公"を、戸田先生はこよなく愛した。「父は兵庫に赴かん」(落合直文作詞)——父・正成が最期を遂げた戦が、「湊川の合戦」だった。
湊川の方向を確認すると、ピアノで"大楠公"を弾いた。会館には、地元のメンバーが次々と集まってきていた。皆で勤行した後、先生は語った。
「よくここまで復興されました。しかし、まだまだ、これからが大変でしょう。私も応援を続けます。一生涯、お題目を送ります。亡くなられた同志も、家族も、必ず広宣流布の陣列に元気に戻ってくることを確信してください」
「どうか朗らかに! 朗らかな人には、誰もかなわない。そして忍耐をもって生き抜いていただきたい。一緒に人生を生きましょう! お元気で! 日本一の長田区です」
その場にいた長田区の壮年。震災の時、自宅が全壊した。生き埋めの中、夫婦で「常勝の空」を歌い、死の恐怖と戦った。
震災発生から2時間ほどの後、知人が助け出してくれた。壮年はすぐに、長田文化会館へ。会館の状況を確認すると、近隣の人たちの救助に走った。
震災後、7回転居した。思い通りにいかない現実。じっと耐え、復興の歩みを続けてきた。
壮年は少人数の語らいを大切にした。被災した一人一人の状況は異なるからだ。現在のコロナ禍でも、目の前の一人に、共に広布に立ち上がることを呼び掛ける。
「『日本一の長田区』との先生の万感の思いに、生涯、応え続けていきます」。壮年は力を込めた。
戦後最大の都市直下型地震。多くの建物が崩れる中で、決して壊れないものがあった。
励まし合い、支え合う「人間の絆」である。
"負けたらあかん!"との「不屈の魂」である。
先生は関西の友の貢献をたたえている。
「組織があったから動いたのではない。苦しんでいる方々の痛みを共にし、行動せずにはいられぬ『同苦の心』が、同志の胸に燃えていたからこそ、真心のネットワークがフル回転で働いたのだ」