朝晩が冷え込む時季。
一枚多く羽織るなど
賢明に工夫を!
疲れをためないよう
体調管理を万全に!
開目抄下 P236
『仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり』
【通解】
仏法を破壊し乱す者は仏法の中の怨である。慈悲を失い、いたずらに偽り謗法の人々に親しむ者は、これ彼が為には怨となる。此等の人々を糾弾し治罰する者は、これ護法の声聞、真の我が弟子である。彼が為に謗法の悪知識を捨てさせる者は彼が親である。よく責め立てる者は、これは我が弟子である。謗法を追い出さない者は、仏法の中の怨である。
名字の言 夢はかなうのか?——ユーチューバー"トクサン"の答え 2021年9月29日
「夢は必ずかないますか」。子どもにそう聞かれたらどう答えるか。野球系ユーチューバー"トクサン"こと徳田正憲さんはイエスかノーで返さない▼幼い頃から創価大学時代までプロ野球選手を目指した。教員を志したこともある。どちらにもなれなかったが今、登録者数64万人を超えるユーチューブ番組でプロ野球選手と共演し、子どもに野球の素晴らしさを伝えている。「夢を持ち続けていれば、カタチを変えてかなっていきます」と断言した(「未来ジャーナル」9月号)▼人生を旅に例えるなら、夢は一つの道しるべに違いない。目標があるから「努力の道」を歩み続けることもできる。米国の公民権運動の指導者キング博士は「今日も、そして明日もわれわれが困難に直面するとしても、私にはなお夢がある」(梶原寿監訳)と言った。夢をかなえること以上に「夢を持つこと」に意味がある▼戸田先生は「青年は夢が大きすぎるくらいでいい」と語っていたという。人間は自分の夢以上にはなれない。夢に生き続ける人こそ永遠の青年だろう▼御書に「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(1561ページ)と。人類の幸福と平和を目指す広宣流布ほど、壮大な夢はない。ここに限りない向上の道がある。
寸鉄 2021年9月29日
我らは随自意で戦うのだ—牧口先生。確信の言葉は通ず。対話の道、堂々と
福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島が凱歌へ熱闘!拡大の先駆を今
沖縄健児の使命は平和の楽土建設。気迫の言論戦で新たな勝利の突破口を
「日中国交正常化の日」。青年よ先達の魂胸に民衆交流の"金の橋"を万代へ
笑顔忘れぬ人は見た目も心も若い—研究。生命力満々と今日も楽観主義で
☆御書の旭光を 第54回 功徳満開の人生を共々に
【御文】
『我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空をもかけりぬべし』(盂蘭盆御書、1430ページ)
【通解】
わが身は藤のようであるが、法華経という松の木に懸かれば妙覚の山にも登るであろう。一乗(妙法)の羽をたのんで寂光の空をもかけるであろう。
【池田先生が贈る指針】
人は生老病死の坂を幾つも越えねばならない。妙法と共に、御本仏と共に生命の旅を歩めることが、いかに素晴らしいか。どんな労苦も転じ、常楽我浄の境涯を必ず開ける。絶対の安心と希望の軌道である。
不退の信心で、家族も眷属も友人も、妙覚の山へ、寂光の空へ導いていけるのだ。功徳満開の人生を共々に!
☆ロータスラウンジ——法華経への旅 第29回 如来神力品第二十一
◇広宣流布を目指して進む我が同志こそ現代における「仏」です
法華経について、皆で学び、深めよう——「ロータスラウンジ——法華経への旅」の第29回は、「如来神力品第二十一」です。
■大要
地涌の菩薩が、仏の滅後に広く法華経を説くことを誓います。その時、仏が十神力(10種の不思議な力)を示して法華経の功徳をたたえ、上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩たちに未来の弘通を託します。それでは内容を追ってみましょう。
●シーン1
その時、千世界を微塵にした数の"地から湧き出てきた菩薩"(地涌の菩薩)が心一つに合掌し、釈尊の顔を仰ぎ見て、語ります。
「釈尊よ。私たちは、仏が入滅された後、分身の諸仏がおられた国土で、仏が入滅された所で、広く法華経を説きます。
それは、私たちもまた、受持・読・誦・解説・書写の『五種の妙行』を実践したいからです」
このように「地涌の菩薩」が、仏の滅後の弘通を誓います。
●シーン2
その時、釈尊は、文殊菩薩など無量百千万億の昔から娑婆世界に住んでいる菩薩、男女の出家者や在家の者、諸天や鬼神、人間や人間でないものなど、全ての生きとし生けるものの前で、十神力を現します。
�仏が広く長い舌を出すと、天まで届く。
�釈尊の全身の毛穴から、あらゆる色の光が放たれ、十方世界を照らす。諸仏も同じように、広く長い舌を出し、無量の光を放つ。
釈尊と諸仏が舌を収めると、今度は、�一斉に咳払いし、�一斉に指を弾いて鳴らす。
声と指の音が全宇宙に響き渡ることで、�十方の諸仏の世界の大地が六種に震動する。
�そこにいる生きとし生けるものが、娑婆世界の諸仏の姿を見ることができる。釈尊と多宝仏が宝塔の中の師子座におられるのも見ることができる。釈尊を、無量の菩薩や出家・在家の男女が取り囲んでいるのも見ることができる。そして、皆、いまだかつて味わったことのない大歓喜を得る。
�空中から、諸天の大きな声が響きわたり、「娑婆世界というところに、釈迦牟尼仏という仏がおられて、今、菩薩のために妙法蓮華経を説いておられる。あなたたちは、深く随喜して、釈迦牟尼仏を礼拝し供養しなさい」と語る。
その呼び掛けに応じて、�もろもろの衆生が合掌して、釈迦牟尼仏に帰命する。
�十方世界から種々の華や香や、ありとあらゆる宝物が娑婆世界に届けられ、雲のごとく集まって、一つの大きな宝の帳となり、それが十方の諸仏を覆う。
�十方の世界の隔てがなくなり、一つの仏土になる。
●シーン3
その時、釈尊は上行菩薩などに告げます。
「諸仏の神力は、このように無量無辺であり、不可思議である。
しかし、付嘱(教えを弘めるように託す)のために、この神力をもって、無量無辺百千万億阿僧祇劫の間、この経の功徳を説いたとしても、説き尽くせないのだ」
そして、次のように話します。
「肝要をまとめて語るならば、『如来の一切の所有の法』『如来の一切の自在の神力』『如来の一切の秘要の蔵』『如来の一切の甚深の事』が、全てこの法華経に宣べ、示され、明らかに説かれているのだ」
このように、釈尊が上行菩薩たちに、法華経の肝要を「四句の要法」にまとめて付嘱します。これを「結要付嘱」といいます。
続けて語ります。
「あなたたちは、仏の入滅後に、一心に法華経を受持し、読誦し、解説し、書写して修行すべきである」
「五種の妙行に励むならば、その場所がどこであろうと道場であり、多くの仏が完全な覚りを得て、説法をし、入滅された場所である」
法華経を修行する所は、どこであれ、道場であることが示されます。
●偈文
続いて偈文(詩の形式)で、これまでと同じ内容が述べられます。
ただ、十神力によって法の功徳の偉大さをたたえていた箇所は、次のように法を受持する人の功徳の偉大さの表現になっています。
「是の経を嘱累せんが故に 受持の者を讃美すること 無量劫の中に於いてすとも 猶故尽くすこと能わじ」(妙法蓮華経並開結574ページ)
御書に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(856ページ)とある通り、法を弘めるのは、どこまでいっても「人」です。法華経の願いである万人成仏は、弘通の人がいてこそ可能になるのです。
ゆえに「如来神力品」では、上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩に滅後の弘通が託されるのです。
■結要付嘱
「如来神力品」に関する「御義口伝」には「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり」(御書770ページ)と記されています。
つまり付嘱された法華経の肝要である「四句の要法」とは、法華経の文の底に秘し沈められた、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経のことです。
さらに結要付嘱には、滅後末法に向けた重大な意味があります。それは、末法に、地涌の菩薩の上首である上行菩薩が出現して南無妙法蓮華経を弘通することを予言している内容だからです。
結要付嘱は、末法の弘通へ、釈尊から地涌の菩薩、なかんずくそのリーダーである上行菩薩へと、教主が交代することを示す儀式といえるのです。
【『法華経の智慧』から】 「人間」以外に「仏」はない
仏という「一人」から「全民衆」への正法広宣流布を担うのは、いかなる国土であってもつねに「地涌の菩薩」なのです。それはなぜか。
「地涌の菩薩」とは、内証の境涯が「仏」と同じでありながら、しかも、どこまでも「菩薩」として行動していくからです。いわば「菩薩仏」です。境涯が「仏」と師弟不二でなければ、正法を正しく弘めることはできない。
◇
ありのままの凡夫が瞬間瞬間、久遠元初の生命を身にわき立たせていくのが、唯一、実在の「仏」なのです。
「人間」以外に「仏」はないのです。「人間以上」の「仏」は、にせものなのです。方便なのです。だから、人間らしく、どこまでも人間として「無上の道」を生きていくのが正しい。その人が「仏」です。それを教えているのが、法華経であり、神力品の「上行菩薩への付属」には、そういう「人間主義の仏法」への転換の意義が含まれているのです。
「日蓮と同意ならば」(御書1360ページ)と大聖人が仰せのように、広宣流布をめざして進む我が同志こそ、現代における「仏」です。
(普及版〈下〉「如来神力品」)
【コラム】 民衆の中へ
「如来神力品」の偈文(詩の形式)の中に、地涌の菩薩が民衆の中に入って、人々を救済する姿が、次のように描かれています。
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人は世間に行じて 能く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん」(妙法蓮華経並開結575ページ)
太陽が昇れば、闇が消えるように、悪世末法にあって、地涌の菩薩が出現すれば、民衆に希望と勇気の光を送ることができるのです。それは人格、振る舞いが、月や太陽のような輝きを放っていくといえます。
さらに、「世間に行じて」とあるように、地涌の菩薩は、世間から離れるのではなく、どこまでも現実社会の中で、人々を救済していくことを教えているのです。
大変なところ、苦しんでいるところへ足を運び、民衆の幸福のために戦う——そこに地涌の使命があるのです。