医療・福祉・教育など
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懸命な奮闘に感謝!
個々の状況に十分配慮し
「ありがとう」と声掛けを。
諸法実相抄 P1361
『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』
【通解】
行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法はなくなってしまう。自分も実践し、人にも教え、勧めていきなさい。
行学は信心から起こるのである。力があるならば、一文一句であっても人に語っていきなさい。
名字の言 可能性を広げた女性部員の励まし 2021年9月3日
どんな分野でも才能を開花させる最たるものは、本人の努力だ。だが、自身の可能性に気付くきっかけは、他者の関わりが大きく影響すると思う▼ある女性部員は未来部時代、教員になるとの夢を、家の経済事情で諦めていた。しかし、高校3年の時、池田先生と出会って励まされ、未来を開く挑戦を決意。苦学の末、高校教師となった▼その婦人がある年、受け持ったクラスに欠席がちな男子生徒がいた。彼は何事も空回りする自分に悩んでいた。婦人は「まず一つ、打ち込めるものを見つけ、そこを突破口にしよう」と励ました。それから彼は、目前の課題に挑んでは可能性を広げていった▼男子生徒は卒業後も婦人を恩師と慕い、度々相談に来た。そんな彼に試練が。病の後遺症で車いす生活に。婦人は、失望する彼を励まし続けた。彼はテレビでロンドン・パラリンピックを見て、車いす陸上を知り、そこに人生の再起を懸けた。必死の努力は実り、今夏の東京パラリンピックで彼は2種目で金メダルを獲得した▼婦人は日々、教育現場で感激を新たにするという。「これから伸びゆく可能性を秘めた生徒が、こんなにもたくさんいる!」と。"励ましの連鎖"は、さらなる未来の大輪を爛漫と咲かせていく。
寸鉄 2021年9月3日
戦いが始まったら全員が師子となれ—戸田先生。リーダーの勢いで波動を
「スポーツ部」発足の日。不屈の挑戦の先に栄冠!人々に希望送る雄姿尊し
迅速な「報告・連絡・相談」が前進の要。多難の時こそ異体同心のスクラムで
子どもを乗せた自転車の事故に注意。ヘルメット・ベルト着用等で命守ろう
「頼れる近隣の人いる」は15%—60歳以上への調査孤立を防ぐ声掛け今こそ
☆御書の旭光を 第50回 「師弟の鑑」として厳然と
〈御文〉
『名聞名利を捨てて某が弟子と成りて我が身には我不愛身命の修行を致し・仏の御恩を報ぜんと面面までも教化申し此くの如く供養等まで捧げしめ給う事不思議なり』(松野殿御返事、1381ページ)
〈通解〉
名聞名利を捨てて、日蓮の弟子となり、わが身には「我不愛身命」の修行をして、仏の御恩を報じようと人々を導き、このように供養をささげるようになったことは、不思議というほかない。
〈池田先生が贈る指針〉
社会の風圧にも怯まず戦う壮年への御賞讃だ。師と共に、名聞名利などかなぐり捨てて、同志を厳護する黄金柱である。
師匠に勝利でお応えする——この報恩の一念ほど強いものはない。嵐の如き世相だからこそ、厳然たる信念の船長の名指揮が光る。
壮年部の共戦の友よ、「師弟は深くして楽し」と後世の鑑の歴史を!
☆ONE GOSHO この一節とともに! 法華初心成仏抄
◇堂々と信念を語れ
学会創立100周年に向けた"勝負の10年"の初陣となる本年。立正安国の凱歌の秋を勝ち飾るべく、男子部は勇気の拡大に挑んでいる。今回は、日蓮仏法の対話の姿勢を学ぶ。
◇御文
『とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり』(御書552ページ)
◇通解
とにもかくにも法華経を強いて説き聞かせるべきである。信じる人は仏になり、謗る者は毒鼓の縁となって仏になるのである。
◇背景
本抄を執筆された年月日、与えられた人物について、詳細は分かっていない。
内容から、かつて念仏を唱えていた女性信徒か、あるいは、いまだ念仏への未練を残している女性に対して、法華経信仰の基本を教えられた書であると推測される。
本抄は問答形式で展開され、信仰の核心に当たる唱題の深義と功徳を示すとともに、相手の機根や反応に翻弄されることなく、積極果敢に仏法を説いていくことを教えられている。
◇解説
"せっかく法華経を説き聞かせても、信じようとしない人は、かえって正法を誹謗し、その罪で悪道に堕ちてしまうのではないか"——今回学ぶ御文は、日蓮大聖人が、門下が抱くであろう疑念を思いやられ、つづられた箇所である。
まず大聖人は、どんな人に対しても「強いて説き聞かせるべきである」と断言される。「強いて」とは、"強引に"ではなく、"あえて"との意味である。相手の反応に右往左往するのではなく、自ら進んで、"あえて"正義を語っていく。これが、大聖人が示される対話の姿勢である。
それはなぜか。続く御文で大聖人は、法華経を素直に信じる者は、そのまま成仏できることに加え、反対に誹謗中傷する者も、それが「毒鼓の縁」となって仏になると記されている。
「毒鼓」とは、毒を塗った太鼓のことで、涅槃経には、この音を聞く者は皆、死に至ると説かれている。
ここでいう「死に至る」とは、「煩悩が死ぬ」ことの譬えで、相手の好むと好まざるとにかかわらず、正法を耳にすれば、必ず成仏に至ることを教えられているのである。本抄には、「法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり」(御書552ページ)ともつづられている。私たちが日々、実践する対話運動は、相手の生命にある仏性を呼び覚ます最極の善縁となると強く確信したい。
よって対話の根本にあるのは、どこまでも相手の幸せを第一に思う慈悲にほかならない。だからこそ、"あえて"とは言っても、こちらの意見を一方的に押し付けて事足れりとする強引な行動であってはならない。疑問や質問に真摯に向き合い、納得と共感を抱いてもらえるよう、粘り強く語っていく姿勢が重要になる。
時には、なかなか友人に思いが伝わらなかったり、反発されたりすることがあろう。
しかし大事なことは、そうした反応も受け止めながら、思いやりをもって正義を語れるかどうかである。
信心の眼で見れば、誠実に語り抜いた事実こそが、自身の福徳となるのはもちろん、相手を幸福の軌道へと導くことになるからである。
池田先生は、19歳で入信されて以来、果敢に対話に挑んでこられた。
心を込めて書いた手紙を全部送り返されたことや、"どうして、こんなに仏法を求めている人が少ないのか"と思ったことなどを、つづられている。
それでも先生は、出会った人たちが絶対に幸福になれるようにと祈り、誠実に対話と交流を続けてこられたのである。
その中で弘教が実った時の喜びや、一つ一つの語らいが全て黄金の財産となり、やがて"世界の知性"との対話に生かされていったことを教えてくださっている。
池田先生はつづられている。
「強いて、仏法の正義を訴えていくのである。相手の反応がどうあれ、妙法に縁させることが大事なのだ」
「『強いて』語るためには、何よりもまず、自分の臆病な心、弱い心を打ち破らねばならない。そうであってこそ、勇気をもって、悠然と楽しく対話ができる。その結実は、真心と執念で決まる」
師の闘争に連なる池田門下の誇り高き男子部として、一段と勇気と執念の炎を燃え上がらせ、自己の限界を破る対話拡大を果たそう!