後継の陣列ありて
偉大な歴史が築かれる。
皆で次代の友を育もう!
一緒に動き 一緒に喜ぶ。
実践の中で共に成長を!
法華初心成仏抄 P557
『譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ』
【通解】
たとえば籠の中の鳥が鳴けば、空を飛ぶ鳥が呼ばれて集まるようなものである。空を飛ぶ鳥が集まれば、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。
口に妙法を呼びたてまつれば、わが身の仏性も呼ばれて、必ず、顕れられる。梵天や帝釈の仏性は、呼ばれて我らを守ってくださる。
仏・菩薩の仏性は、呼ばれてお喜びになる。
名字の言 日本画家・丸木夫妻が描いた「原爆の図」 2021年9月8日
日本画家の丸木位里氏と妻・俊氏が、32年間で描いた15部にわたる連作「原爆の図」。13番目の作品「米兵捕虜の死」に関して、夫妻はこう記した▼「爆心地近くの地下壕にいれられていた米兵捕虜たちは、/やがて死ぬかもしれません。/いや、或いは生きたかもしれないのです。/けれどその前に、/日本人が虐殺しているということを知りました。/わたしたちは震えながら、/米兵捕虜の死を描きました」▼被害者の視点だけではなく、加害者の目も持って、夫妻は原爆の悲惨さ、戦争の残虐さを見つめようとした。「原爆の図」の展覧会は、欧州各国や米国など世界各地で開催され、核兵器の脅威を世界に伝えた▼広島の壮年部員は18歳の時に被爆した。アメリカを憎んだ時期もあった。その壮年が、証言集『75——未来へつなぐヒロシマの心』の出版の折、未来部員の取材を受けた。「平和って何ですか?」との問いに、壮年は答えた。「人と仲良くすることです。だから、相手を知ることが平和への第一歩です」▼友情を広げることに、仏法者の生き方の本義がある。戸田先生の原水爆禁止宣言からきょうで64年。自分の足元から平和への行動の連帯を築きたい。そこから、確かな「平和の図」が描かれる。
寸鉄 2021年9月8日
『新・人間革命』完結3年。青年よ学び、広布開け!"新時代の山本伸一"たれ
宮崎の日。太陽の同志が輝いた分、地域は明るく。さあ友情拡大の新記録へ
「修行の肝心は不軽品にて候なり」御書。今日も誠実に。目前の一人の為
友人との会話はストレス解消に効果的と。寄り添う工夫を。電話も上手に
感染症の偽報道、見抜くには公的情報の確認が有効—研究。振り回されず
〈社説〉 2021・9・8 創価の平和運動原点の日
◇「9・8」に込められた魂
きょう9月8日は、1957年、戸田先生が"遺訓の第一"として「原水爆禁止宣言」を発表した日であり、今日に至る創価学会の平和運動の原点の日である。
宣言当時、東西冷戦下の大国は核兵器開発競争に狂奔し、その破壊力への恐怖が戦争を抑止すると正当化していた。世界の民衆の生存の権利を奪い、人類を破滅に追いやる、この悪魔的兵器と魔性の思考を、戸田先生は「絶対悪」として糾弾されたのである。
同宣言の意義について池田先生は、誰もが持つ「生存の権利」という一点に立脚することで、「国家」の安全保障という高みに置かれていた核兵器の問題を、全ての「人間」に深く関わる生命尊厳の地平に引き戻すことにあったと述べている。"核抑止"という安全保障の論理のもとで置き去りにされた「民衆」に視点を戻し、イデオロギーのもとで見失われていた「人間」に光を当てる——この生命尊厳の思想に基づく人間根本のまなざしこそ、創価の平和運動の根幹といえる。
「9・8」に恩師が示した理念を継承し、池田先生は対話の渦を起こしていった。68年9月8日には、文化大革命の渦中で国際的に孤立していた中国との国交正常化提言を発表。10度の訪中などを通し、両国を結ぶ民衆往来の「金の橋」を築いた。74年9月8日には「宗教者がなぜ」との批判に動ずることなく、「そこに人間がいるから」とソ連(当時)を訪問。中ソ対立の緩和と日本との教育・文化交流の道を開いていった。
2018年9月8日、小説『新・人間革命』の新聞連載完結に当たり、池田先生は「あとがき」につづっている。
「社会も、国家も、世界も、それを建設する主体者は人間自身である。『憎悪』も『信頼』も、『蔑視』も『尊敬』も、『戦争』も『平和』も、全ては人間の一念から生まれるものだ。したがって、『人間革命』なくしては、自身の幸福も、社会の繁栄も、世界の恒久平和もあり得ない」
核兵器に加え、地球規模の感染症や気候変動という危機によって社会の在り方が問われている今、改めてこの原点を確認したい。人間を置き去りにし、生命尊厳の基軸を失った変革は結局、歪みをもたらし、行き詰まる。人間主義に基づく創価の哲学を、大きく語り広げていく時である。
☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第8回「原水爆禁止宣言」
◇一人一人の心に"平和の炎"を
【「若き日の日記」1957年(昭和32年)11月18日から】
先生の師恩は、山よりも高し。
海よりも深し。忘れじ、われは。
偉大なる師の歴史を世界に示さん。
◇原子爆弾だけは許せん
「……核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私は、その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」
1957年(昭和32年)9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で行われた青年部の「若人の祭典」の席上、第2代会長・戸田城聖先生の烈々たる師子吼が轟いた。
「それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」
この年、世界は東西冷戦下の"分断"の中にあった。「核抑止論」による軍拡によって、核実験が繰り返されていた。
事態を憂慮した戸田先生は、青年への"遺訓の第一"として、「原水爆禁止宣言」を訴えたのである。
戸田先生は、生命尊厳を第一義とする仏法者として、死刑制度には反対であった。それでも、あえて「死刑に」と叫んだのは、原水爆を保有し、使用したいという人間の"己心の魔性"を絶対悪と断じるためだった。
戸田先生の核兵器なき世界への思いは、同宣言の前から一貫していた。
56年(同31年)6月、福岡の八幡市(現・北九州市)では、「原爆などを使う人間は最大の悪人だ!」と叫んだ。宣言の2カ月前の7月、雑誌での対談でも、「原子爆弾だけは許せん。アメリカでも、ロシアでも、どっちであっても、そういうことは断じて許さん」と強く訴えている。
「原水爆禁止宣言」から2カ月後、戸田先生は広島を訪れる予定だった。平和記念公園に立つ広島平和記念館(当時)での決起大会に出席するためである。
しかし、戸田先生の体調をよく知っていた池田大作先生は、広島行きが恩師の命に関わるのではないかと案じた。「師のお身体、極度に衰弱」「おやつれ、甚だし」(『若き日の日記』、1957年11月19日)。
戸田先生の広島への出発の前日、池田先生は恩師のもとに急行した。
◇被爆地・広島への思い
「ご無理をなされば、お体にさわり、命にもかかわります。おやめください」
1957年(昭和32年)11月19日、池田先生は、戸田先生に対し、広島行きをやめるよう懇願した。
戸田先生は毅然と答えた。
「そんなことができるものか。……そうじゃないか。仏のお使いとして、一度、決めたことがやめられるか。俺は、死んでも行くぞ」
しかし、出発の日の朝、戸田先生は自宅で倒れてしまう。池田先生は、この時の真情を述べている。
「先生の被爆地・広島への思いは、いかばかりであったろうか。核兵器という『サタン(悪魔)の爪』に破壊された広島へ、命と引きかえで出発する覚悟だった」「生命を賭して、広島行きを望まれた、あの師の気迫は、生涯、わが胸から消えることはない。いな、それが、私の行動の原点になった」
同23日、戸田先生は、「原水爆禁止宣言」をテーマにした第5回の女子部総会に出席する予定だった。しかし、体調の悪化により参加できず、青年室長の池田先生が恩師の名代として出席した。
総会には1万2千人が集い、原子力問題を論じる研究や、被爆した女子部員の体験などが発表された。池田先生は、「原水爆禁止宣言」の精神の継承を呼び掛けた。
「日本の中でも創価学会、創価学会の中でも青年部員が、会長先生(戸田先生)の、この宣言を伝えていこうではありませんか」
また、「原水爆禁止宣言」の発表から1年後の58年(同33年)9月26日、池田先生は本紙に、「火宅を出ずる道」と題する一文を寄せた。
「原水爆の使用は、地球の自殺であり、人類の自殺を意味する」「その根本は、人生の目的、人生の幸福への、正しく強き理念を失った人の、末路の姿である」
そこには、"恩師の平和の叫びを虚妄にしてはならない"との強い思いと、"戸田先生の遺訓が成就するまで、断じて戦い抜く"との池田先生の覚悟がつづられていた。
◇「火宅を出ずる道」
池田先生が記した「火宅を出ずる道」には、「三界は安きこと無し 猶火宅の如し」(法華経191ページ)が引用されている。
法華経の「三車火宅の譬え」は、長者の家が火事になり、さまざまな方便を駆使して、子どもたちを助け出すたとえ話である。燃え盛る家(火宅)は、煩悩の炎に包まれた現実の世界(三界)をたとえている。
池田先生は、核兵器という「未曽有の脅威に覆われた"火宅"から抜け出す道を共に進まねばならない」との強い願いを込めた。
いかにして人類を"火宅"から助け出すことができるのか——池田先生は、恩師亡き後も、"遺訓の第一"を生命に刻み、日本中、世界中を駆け巡った。多くの対談集でも、核廃絶の信条を訴え抜いた。それに呼応した青年部は、反戦出版、核廃絶1千万署名等、草の根の平和運動を展開していった。
「ニューヨークは暑いよ」「みんな元気で! 無事故で行ってらっしゃい。祈っています」——1982年(昭和57年)5月、広島と長崎から集った被爆者・被爆2世との懇談で、池田先生は温かく語り掛けた。米ニューヨークの国連本部で開催される国連軍縮特別総会に際し、学会が派遣するメンバーだった。
彼らは訪問先で、「被爆証言を聞くNGOの集い」や「反核討論集会」などを実施。この期間、被爆者たちと語らったハーバード大学のモンゴメリー博士は、彼らが未来を志向し平和を訴える姿に衝撃を受けた——"池田会長を慕う被爆者が、憎悪を超えて、人類の融合のために戦っている"。被爆者たちは、その姿を通し、師匠から教わった仏法の生命哲学への共感を広げたのである。
池田先生の平和行動の偉大さは、一人一人の心に生命尊厳の平和の明かりをともし続けてきたことにある。心の中に"平和の砦"が築かれていってこそ、真の平和がある。
池田先生は呼び掛けた。「恩師の遺訓のまま我らは弛まず進む。それは『元品の無明』を破って『元品の法性』を開き、民衆一人一人の心に平和の砦を築く地涌の挑戦である。『生命尊厳』を地球社会の柱に打ち立てゆく精神闘争だ」