知勇兼備の学生部よ!
普賢の力を磨き抜き
世界広布の先駆と光れ!
若き情熱と発想と行動で
新たな価値創造の道を!
上野殿御消息 P1527
『親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度えみて向へとなり』
【通解】
親によい物を贈ろうと思っても、何もできることがなければ、せめて一日に二度三度は、笑顔を見せてあげなさい。
名字の言 13度目の御書全編拝読に励む婦人が心に刻んだ御文 2020年6月16日
入会して59年。毎朝、御書を拝し続け、現在、13度目の全編拝読に挑戦中の婦人がいる。どのページにも朱線や書き込みがいっぱい。それを繙きながら体験を話してくださった▼経済苦にあえいでいた時、心に刻んだ御文は「いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」(御書1163ページ)。20回、30回と声に出して読むと、"池田先生の弟子として信心に傷はつけられない。負けてなるものか"と闘志が湧いた▼肺がんを宣告された時、心に刻んだ御文は「鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか……」(同1587ページ)。愛弟子を苦しめる病魔を烈々と叱り飛ばされる御本仏の大慈悲に触れ、弱気を打ち砕くことができた。今、確信を込めて語る。「師匠と御書さえあれば怖いものなし。鬼に金棒よ!」▼近代日本を代表する思想家・内村鑑三は世界に向けて、日蓮大聖人を「代表的日本人」と宣揚した。大聖人こそ「最も偉大なる者の一人」「我等の理想的宗教家」(原文は英語、鈴木俊郎訳)と。さらに、大聖人を正当に評価するためにもっと努力するべき、とも▼一切衆生の幸福を願われた大聖人の御境涯に接すれば、自身の境涯が開かれる。「永遠の経典」御書を学ぼう。勇気が燃える。希望が湧く。決意が生まれる。(実)
寸鉄 2020年6月16日
他者を思う学会員の現代の役割は大きい—日本の教授。心結ぶ声掛け更に
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☆日蓮大聖人の慈愛の眼差し 国府入道夫妻 「広布に尽くす功徳は無量」
◇阿仏房・千日尼夫妻と共に純真な信仰を貫き、迫害を恐れず大聖人をお守りした佐渡の門下
最も尊く、最も充実した人生とは何か——。
かつて池田先生は語った。
「博士になるよりも、有名人になるよりも、権力者になるよりも、一生懸命に広宣流布に汗を流しゆく人がいちばん尊いのである。そういう真面目な学会員を、大聖人はいちばん称讃してくださるにちがいない。抱きかかえてくださるにちがいない。
愚直なまでに、まっすぐに戦っていく信心——これが本当の名誉ある人生である。その人こそ『広宣流布の宝』であり、『創価学会の宝』である」と。
日蓮大聖人御在世当時、佐渡で流罪の身であった大聖人をお守りし、赦免後も身延の大聖人のもとへ御供養をお届けするなど広布のために尽くし抜いた門下が、国府入道夫妻である。
大聖人は、黙々と広布に励む、けなげな門下の信心を最大にたたえられ、抱きかかえるように万感の励ましを送られている。
◇師と心合わせる 異体同心の団結
国府入道夫妻については、生没年や家柄など詳しいことは分かっていない。佐渡国の国府(朝廷が国ごとに設置した役所の所在地)に住んでいたことから、夫は「国府入道」と呼ばれていた。
大聖人から夫妻に宛てられたお手紙で、現在、残っているのは2通だけである。しかし、阿仏房の妻である千日尼に宛てたお手紙に、国府入道夫妻に関する記述がいくつかあり、これらの内容から、阿仏房・千日尼夫妻と共に、佐渡の門下の中心的な存在として、信心に励んでいたことが分かる。
大聖人が国府入道の妻である尼御前に宛てたお手紙には「阿仏房の尼(千日尼)と『同心』なのだから、二人そろって、この手紙を人に読んでもらって聞きなさい」(御書1324ページ、通解)と記されている。二人が日頃から仲良く、常に励まし合っていたことがうかがえる。
ここで大聖人が「同心」と記された背景には、権力者からの圧迫にも恐れることなく、団結して大聖人を守り抜いた、信心強き二人の姿を思われてのことではないかと拝される。「異体同心」の団結の信心に励むことがいかに大切か。それを教えてくださっている御文ともいえよう。
佐渡流罪中の大聖人は、監視を付けられ、衣食に事欠く生活を強いられるだけでなく、念仏者らに常に命を狙われるような、過酷な環境に置かれていた。
そうした中で大聖人に帰依した国府入道夫妻。大聖人を外護することは、文字通り、命懸けの戦いであった。当時の様子を大聖人が述懐されている。
「国府入道夫妻は、私が佐渡国にいる間、人目を忍んで夜中に食べ物を届けてくださいました。ある時は国からの処罰も恐れず、日蓮の身代わりにさえなろうとしてくださいました」(同1325ページ、通解)
入信間もなかった夫婦の外護を、大聖人は心からたたえられた。さらに「つらかった佐渡国でしたけれども、(赦免されて別れる時は、名残惜しく)剃った髪を後ろに引かれ、進もうとする足も後ろに戻ってしまいました」(同ページ、通解)と、佐渡から鎌倉に戻られる際の心情をつづられている。
国府入道夫妻は、大聖人が佐渡流罪を赦免された後も師匠を求める心を強めていった。国府入道は、佐渡から身延の大聖人のもとを訪れ、御供養をお届けしている。
大聖人は、「(身延と佐渡では)国も遠く隔たり、年月も経っているのに、信仰に緩みが出るどころか、ますます強盛な信心の姿を現している」(同1323ページ、趣意)と、月日や距離を超えて信仰を貫く夫妻の信心を称賛されている。
さらにお手紙で、国府尼の心を深く推し量られる。当時は遠い道のりを女性が訪ね歩くことが難しい時代だった。彼女は"佐渡から遠く離れた身延の大聖人と再会することは、とうてい、かなわないことだ"と頭では分かっていても、大聖人にお会いしたいとの思いを抱いていたに違いない。大聖人は、国府尼に励ましの言葉を送り、労われている。
「日蓮を恋しく思われるなら、いつも昇る太陽、夕べに出る月をご覧になってください」(同1325ページ、通解)
"私たちは、いつでも一緒ですよ"との大聖人の温かいお心があふれた御文である。この御文を拝した国府尼は、朝も昼も夜も、大空を見上げるたびに、大聖人の慈顔を仰ぐ思いだっただろう。まさに、「心こそ大切なれ」(同1192ページ)のうるわしい世界である。
◇不安抱える友を 包み込むように
大聖人は、国府入道夫妻に、こうも仰せである。
「あなた方には子どもはいらっしゃらないが、教主釈尊が、あなた方の慈父であり、日蓮はまた、あなた方の子どもと同じです。蒙古の襲来があった時には、この身延の私のところへお越しください。ご子息もいらっしゃらないのだから、行く末には、こちらに移っておいでになればよい」(同1323ページ、趣意)
なんと人情味にあふれた激励であろうか。
もとより大聖人は、「どのような地に住んだとしても、無常のすみかである。成仏することこそ、最終の常住のすみかであると心に決めていきなさい」(同ページ、通解)と仰せである。信心とは住んでいる場所で決まるものではなく、成仏の境涯を得ることこそが、最も肝要であると、深い信心の自覚を促されている。
その上で、当時は、再度の蒙古襲来への不安があった時期でもあり、大聖人は夫妻に、行く末は、身延へ移り住んではどうかと勧められたのである。
疫病が日本中に蔓延していた弘安元年(1278年)7月に認められた千日尼へのお手紙には、阿仏房夫妻と国府入道夫妻の身を案じられていたことが記されている。
身延の大聖人のもとを訪ねてきた阿仏房に大聖人は問われる。「千日尼御前はご無事でしょうか? 国府入道殿はどうであろうか?」と。阿仏房は「まだ疫病にかかっていません。国府入道は、私と一緒にこちら(身延)へ向かいましたが、早稲刈りの時期が近づき、手伝ってくれる子どもがいないため、やむなく途中で引き返しました」(同1314ページ、通解)と報告した。
必死の思いで身延に来た阿仏房、無念にも引き返した国府入道。両者の気持ちを酌み取られた上で大聖人は、佐渡の門下たちが無事であることに対し、「死んだ父母が夢の中に現れ出たのを見て喜んでいるような気持ちです」(同ページ、趣意)と仰せになっている。
国府入道夫妻は、この大聖人の御心情に、どれほど感激したか計り知れない。
どんなに遠く離れていても、弟子の無事と健康を気に掛け、成長を祈る師。師の慈愛に応え、師を守り、求め続けた佐渡の門下たち。この師弟の絆の力によって、佐渡における地域広布は大きく進んでいったに違いない。
愚直に信心を貫き、大聖人を支え続けた国府入道夫妻が、どれほどの無量の功徳を築くか。大聖人はお手紙で仰せである。
「末法の法華経の行者を供養するのは、十種の尊称を具えられた仏を供養するよりも、その功徳が大きい」(同1324ページ、通解)
どこまでも師匠を求め、広宣流布に生き抜こうとする深き「心」が、無量の功徳の因となることを、大聖人は教えられている。
形式や格好ではない。信心根本に悩みや苦難と向き合い、目の前の一人を励ましていく——そうした一つ一つの地道な行動の積み重ねが、無量の功徳となって輝き、無上の幸福の人生が築かれていくのである。