新聞休刊日
経王殿御返事 P1124
『此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如しいかなる病さはりをなすべきや』
【通解】
この曼陀羅をよくよく信じなさい。南無妙法蓮華経は師子吼のようなものである。どのような病が、障りをなすことができようか。
☆日蓮大聖人の慈愛の眼差し 上野尼御前(南条時光の母) ますます信心に励む「求道の人」たれ
◇亡き夫を胸に後継の子らと広布に生き抜いた偉大な母
今月10日は「婦人部の日」。けなげに広布に走る創価の女性たちに心からの敬意を表し、かつて池田先生はつづった。
「気取らず飾らず、ありのままの笑顔で皆を励まし続ける創価の母たちの振る舞いは、まぎれもなく『仏の振る舞い』ではないか。
婦人部あればこそ、学会家族は明るく温かい。
婦人部あればこそ、広宣流布は限りなく進む。
婦人部あればこそ、令法久住は行き詰まらない」
家庭に、地域に、社会に、希望の励ましの光を送りゆく女性ほど、尊貴で偉大な存在はない。
日蓮大聖人の御在世当時も、多くの女性門下が純真に信心に励み、広布に尽くし抜いた。その一人が、南条時光の母・上野尼御前(=上野殿母尼御前、上野殿後家尼御前)である。
上野尼御前は、夫や子どもを亡くしながらも愚直に広布に走り抜き、後継を立派に育て上げた。その原動力こそ、尼御前に真心で寄り添われた、大聖人の慈愛の励ましであった。
◇夫を亡くした悲哀に寄り添う
上野尼御前は、駿河国富士上方上野郷(静岡県富士宮市下条)に住んでいた女性門下である。一族で最初に大聖人に帰依した夫・南条兵衛七郎に勧められて入信した。
「子ども・あまたをはしませば」(御書1567ページ)と仰せのように、夫妻は、次郎時光、五郎ら多くの子宝に恵まれた。
尼御前に試練が訪れたのは文永2年(1265年)3月8日。若くして、信心を教えてくれた夫を病気で亡くしたのである。
夫方の親族は念仏を信仰しており、信心に反発していた。その中で、残された多くの子どもたちを養っていかなければならない。尼御前は夫の後を追って死のうとまで思い詰めた。それを踏みとどまらせたのは、尼御前のおなかの中にいた末っ子の五郎の存在であった(同1572ページ参照)。
夫の追善のため、尼御前が大聖人に御供養を送ったことに対して、大聖人は嘆きと悲しみを深くくみとり、心を解きほぐすように励まされた。
「生死を繰り返しゆく間に夫婦となった男性は、大海の砂の数よりも多くいらっしゃったことでしょう。そのなかで、今度の夫婦の絆こそが、真実の絆で結ばれた夫なのです。そのわけは、あなたは夫の勧めによって法華経の行者になられたからです。ですから、亡くなった夫を仏と拝するべきです。生きていらっしゃった時は生の仏。今は死の仏。生死ともに仏なのです。即身成仏という重要な法門は、このことです」(同1504ページ、通解)
地域の一粒種として、命を懸けて妙法を守り抜いた夫の姿を、尼御前は目の当たりにしていただけに、何度もこの大聖人の仰せを拝し、うなずいたに違いない。
さらに大聖人は竜女の即身成仏を通し、「なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり」(同1505ページ)と呼び掛けられている。大聖人は「亡き夫の成仏」から「上野尼御前自身の成仏」に焦点を移され、"道心者(=求道の人)とは、ますます信心に励んでいく人をいうのですよ"と、万感こもる激励を続けられた。
そして「夫は『法華経の行者』であったがゆえに即身成仏は間違いない。それでも、つい嘆いてしまうのが凡夫の理であり、聖人といわれる人ですら、特別なときには、やはり嘆くものです。何としても、追善供養を心ゆくまで励まれることです」(同1506ページ、趣意)と、尼御前の心に寄り添われている。その真心にどれほど感銘を受けたか計り知れない。
池田先生は次のように講義している。
「夫に先だたれた嘆きも、妙法の祈りへと昇華させれば、自身を高め、一生成仏へと結実していくための修行になるのです。追善の祈りも、妙法の祈りであれば、立派な仏道修行になるのです。御本尊の前では、何も飾る必要はない。嬉しいときは嬉しいままに、悲しいときは悲しいままに、ありのままの自分で御本尊を拝していくことです。(中略)何があろうと唱題し抜いた人が、真の勝利を得るのです。何があっても、妙法を唱え、妙法の力用を我が生命に現していける人。その人こそが『生の仏』に他ならないのです」
◇妙法で結ばれた絆は三世永遠
夫から託された信心という宝を、わが子にも!——上野尼御前は、そう心に期していたであろう。
大聖人が文永11年(1274年)に身延に入山された直後、16歳となった次男の南条時光は、いち早く師のもとを訪れた。その時の時光の姿を、大聖人はお手紙で「父上の形見として、御身を若くして、子息を遺しおかれたのでしょうか」(同1507ページ、通解)とまで記された。母は、大聖人のお心に触れて、子どもたちを後継の人材に育てようと、いっそう固く誓ったに違いない。
その後、時光は毎年、大聖人からお手紙でご指導を受けながら、駿河の門下のリーダーへと成長する。そして、「熱原の法難」をも乗り越えていくのである。
熱原の法難の余燼くすぶる弘安3年(1280年)は、南条家にとって、生の喜びと死の嘆きが相次いで起こった年となった。
生の喜びとは、時光のもとに男児が誕生したことである。大聖人は同年8月、この男の子に「日若御前」(同1566ページ)と命名された。家を継ぐ孫の誕生は尼御前にとって無上の喜びであっただろう。
ところが、それからわずか10日後、今度は悲劇が訪れる。同年9月5日、末っ子の五郎が突然、16歳の若さで亡くなったのである。
尼御前にとって、五郎は大聖人に期待を懸けられた自慢の息子であり、夫の後を追い、死にたいとまで思った自身を踏みとどまらせた存在である。
"その息子にもう会えないとは、なんと悲しいことであろうか"と大聖人は心の底から、その死を惜しまれ、たびたびお手紙を送り、尼御前に希望の灯をともし続けた。
五郎の四十九日を前にして、尼御前は追善のため、大聖人に御供養をお届けした。大聖人は法要を営まれ、返事を送られている。
「悲母がわが子を恋しく思われるなら、南無妙法蓮華経と唱えられて、故・南条兵衛七郎殿、故・五郎殿と同じところに生まれようと願いなさい。(中略)同じ妙法蓮華経の種を心に孕まれるなら、同じ妙法蓮華経の国へお生まれになるでしょう。父と母と子の3人が顔を合わせられる時、そのお悦びはいかばかりで、どんなにうれしく思われることでしょう」(同1570ページ、通解)
妙法によって結ばれた絆は、何ものにも断ち切られることはない。子の成仏は間違いないと、大聖人はこれ以降のお手紙でも、何度も何度も断言されている。尼御前は心を尽くす師の言葉に、師弟の絆を強くし、いや増して広布に励んでいったことだろう。
尼御前の晩年は定かではないものの、大聖人御入滅後、息子の南条時光は日興上人を支えながら、真っすぐな信仰を貫いた。その日蓮仏法を継承する雄姿を見守り、天寿を全うした母の心は、晴れ晴れと澄み切っていたに違いない。
尼御前の生涯は、いかなる障魔が競い起ころうとも、師弟を根本に信心を貫く姿勢が真の幸福境涯を開く要諦であることを示している。
そして、いかなる悲哀があろうと、どこまでも寄り添い、一人一人の生命を力強く鼓舞しゆく、日蓮仏法の人間主義の励ましこそ、地球を包み、混迷する時代を照らす陽光といえよう。