2020年1月30日木曜日

2020.01.30 わが友に贈る

一対一の語らいこそ
広布伸展の原動力だ。
地道な訪問・激励で
友の話をじっくり聞く
抜苦与楽の実践を!

守護国家論 P71
『夫れ三悪の生を受くること大地微塵より多く人間の生を受くるは爪上の土より少し、乃至四十余年の諸経に値うことは大地微塵よりも多く法華涅槃に値うことは爪上の土より少し』

【通解】
そもそも三悪道の身に生まれることは大地の微小な塵よりも多く、人間の身として生まれることは爪の上の土よりも少ない。更に四十余年の爾前の諸経にあうことは大地の微小な塵よりも多く、法華経・涅槃経にあうことは爪の上の土よりも少ないのである。

名字の言 やっぱり苦労はしたもん勝ち——沖永良部島の広布の母の言葉 2020年1月30日
「この人の語らいは、まさに芸術」と評判の婦人が、鹿児島県の沖永良部島で活躍している。入会61年目。125世帯に弘教を実らせた"対話の名手"である▼実は生来の口べた。だから、とことん相手の話を聞いた。いつしか"心の声"まで感じられるようになったという。交通事故で顔に傷を負った時は「この傷は笑顔じわよ」と明るさに磨きをかけた。夫を病気で失ったが、「悩んでいる人に一層、同苦できるようになれた」と励ましの対話を続けた▼旧習の壁にぶつかるなど、言葉にできないつらさも、ずいぶん味わった。そのたびに負けずに頑張り抜いたゆえか、人柄に芯の強さ、朗らかさがにじむ。人生は平たんな道を歩むより、苦難の山坂に挑んだ方が、どれほど豊かなものになるか。深く考えさせられた▼山本周五郎の小説『虚空遍歴』にこうある。「芸というものは……あらゆる障害、圧迫、非難、嘲笑をあびせられて、それらを突き抜け、押しやぶり、たたかいながら育つものだ」。人生万般に通じるだろう▼先の婦人に若い世代への助言を求めると、「やっぱり苦労はしたもん勝ち。だって人を励ます"心の引き出し"が増えるでしょ」と。こうした宝の先輩が広布の庭にはたくさんいる。ありがたくもあり、誇らしくも思う。(誠)

寸鉄 2020年1月30日
会長の著作には困難乗り越える幸福の方程式が—元大臣。人生凱歌の源泉
御書「此の経を信ずる者は宿縁多幸なり」。偉大な妙法に出合った喜び胸に
一人立つ時にのみ、人は勝利を手にする—哲人。自分から拡大の波起こせ
夫婦で力を合わせ歩む姿が子の生き方の手本に—教育者。これ信心継承も
未婚ひとり親支援進めた公明を高く評価—教授。生活者目線の政策さらに

☆きょう1月26日は「SGIの日」 池田先生が記念提言を発表
きょう26日の第45回「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、SGI会長である池田大作先生は「人類共生の時代へ 建設の鼓動」と題する記念提言を発表した。
提言ではまず、気候変動の影響で異常気象による被害が各地で相次いでいる事態について言及。困難な状況に陥った人々を誰も置き去りにしないための視座として、仏法の人間観や牧口常三郎初代会長の思想に触れながら、21世紀の国連に強く求められる役割は「弱者の側に立つ」ことにあると強調している。
その上で、危機感の共有だけでなく、建設的な行動を共に起こす重要性を指摘し、国連のSDGs(持続可能な開発目標)の達成期限である2030年に向けて、"気候変動問題に立ち向かう青年行動の10年"の意義を込めた活動を各地で幅広く展開することを呼び掛けている。
続いて、広島と長崎への原爆投下から75年にあたる本年中に核兵器禁止条約を発効させることを強く訴えるとともに、禁止条約の第1回締約国会合の開催を受ける形で、「核なき世界を選択する民衆フォーラム」を行うことを提案。 
加えて、核拡散防止条約(NPT)の再検討会議で、「多国間の核軍縮交渉の開始」と「AI(人工知能)などの新技術と核兵器の問題を巡る協議」に関する合意を最終文書に盛り込むことを呼び掛けている。
また、「気候変動と防災」をテーマにした国連の「防災グローバル・プラットフォーム会合」を2022年に日本で行い、異常気象に伴う課題を集中的に討議することを提唱。
最後に、紛争や災害の影響で教育の機会を失った子どもたちへの支援を強化するために「教育のための国際連帯税」の創設を提案している。

第45回SGI提言� 世界各地で相次ぐ異常気象の被害
◇気候変動の問題に立ち向かうグローバルな連帯の拡大を
創価学会の創立90周年とSGI(創価学会インタナショナル)の発足45周年を記念し、誰もが尊厳をもって安心して生きられる「持続可能な地球社会」を築くための提言を行いたいと思います。
最初に述べておきたいのは、年頭以来、緊張が続くアメリカとイランの対立を巡る情勢についてです。
両国の間で現在続けられている自制を今後も最大限に維持しながら、国際法の遵守と外交努力を通じて事態の悪化を何としても防ぐことを強く求めたい。そして、国連や他の国々による仲介も得ながら、緊張緩和への道を開いていくことを切に望むものです。
世界では今、異常気象による深刻な被害が相次いでいます。
昨年もヨーロッパやインドが記録的な熱波に見舞われたほか、各地で猛烈な台風や集中豪雨による水害が発生し、オーストラリアで起きた大規模な森林火災の被害は今も続いています。
このまま温暖化が進むとさらに被害が拡大するとの懸念が高まる中、昨年9月に国連で気候行動サミットが行われました。
国連加盟国の3分の1にあたる65カ国が、温室効果ガスの排出量を2050年までに実質ゼロにするとの方針を表明しましたが、そうした挑戦を全地球的な規模に広げることが急務となっています。
気候変動は、単なる環境問題にとどまるものではありません。
地球上に生きるすべての人々と将来の世代への脅威という意味で、核兵器の問題と同様に"人類の命運を握る根本課題"にほかならないものです。
そして何より、国連のアントニオ・グテーレス事務総長が強調するように、「私たちの時代を決定づける問題」(国連広報センターのウェブサイト)としての重みを持つものといえましょう。
実際、気候変動の影響は貧困や飢餓の根絶をはじめとする国連のSDGs(持続可能な開発目標)の取り組みを土台から崩しかねないものとなっています。
そこで焦点となるのは、負の連鎖に歯止めをかけることだけではありません。
気候変動の問題は、誰もが無縁ではないものであるがゆえに、問題の解決を図るための挑戦が、これまでにないグローバルな行動の連帯を生み出す触媒となる可能性があり、その成否に「私たちの時代を決定づける問題」の要諦があると訴えたいのです。
気候行動サミットと相前後して、若い世代を中心に時代変革を求める動きが広がったのに加えて、各国の自治体をはじめ、大学や企業が意欲的な取り組みを加速させようとしています。
国際社会を挙げて平均気温の上昇幅を1・5度以内に抑えることを目指す「パリ協定」(※注1)の本格運用も、今月から始まりました。
その推進を軸に気候変動の問題に立ち向かう連帯を広げる中で、SDGsのすべての分野を前進させるプラスの連鎖を巻き起こすことに、創設75周年を迎える国連の重要な使命もあるのではないでしょうか。
そこで今回は、グローバルな行動の連帯を強固に築くために必要となる視座について、三つの角度から論じたいと思います。

第45回SGI提言� 困難を抱える人々を置き去りにしない
多くの人命と尊厳を脅かす
温暖化と異常気象の被害
◇海面上昇の影響で水没の危機に直面
第一の柱は、困難な状況に陥った人々を誰も置き去りにしないことです。
近年、災害の被害が拡大する中、大半は異常気象によるものとなっています。
日本でも昨年、台風15号や台風19号によって各地が猛烈な暴風雨に見舞われ、大規模な浸水被害や停電と断水による日常生活の寸断が起きましたが、気候変動の影響は先進国か途上国かを問わず広範囲に及んでいます。
その中で世界的な傾向として懸念されるのは、国連が留意を促しているように、その影響が、貧困に苦しむ人々や社会的に弱い立場にある人々をはじめ、女性や子どもと高齢者に強く出ていることです。
そうした人々にとって、異常気象の被害を避けることは難しく、生活の立て直しも容易ではないだけに、十分な支援を続けることが求められます。
また、気候変動が招く悲劇として深刻なのは、住み慣れた場所からの移動を余儀なくされる人々が増加していることです。
中でも憂慮されるのが、太平洋の島嶼国の人々が直面する危機です。
海面上昇による土地の水没が原因であるために、一時的な避難では終わらず、帰郷できなくなる可能性が高くなるからです。
私が創立した戸田記念国際平和研究所では、この太平洋の島嶼国における気候変動の影響に焦点を当てた研究プロジェクトを、2年前から進めてきました。
そこで特に浮き彫りになったのは、島嶼国で暮らす人々にとって「土地とのつながり」には特別な意味があり、その土地の喪失は自分自身の根源的なアイデンティティーを失うことに等しいという点でした。
他の島などに移住して"物理的な安全"が確保できたとしても、自分の島で暮らすことで得てきた"存在論的な安心感"は失われたままとなってしまう。ゆえに、気候変動の問題を考える際には、こうした抜きがたい痛みが生じていることを十分に踏まえなければならない——というのが、研究プロジェクトの重要なメッセージだったのです。
「土地とのつながり」を失う悲しみは、これまでも地震や津波のように避けることが難しい巨大災害によって、しばしば引き起こされてきたものでした。
それは、家族や知人を突然亡くした辛さとともに耐えがたいものであり、私も東日本大震災の翌年(2012年)に発表した提言で、その深い悲しみを社会で受け止めることが欠かせないと強調した点でもありました。
「樫の木を植えて、すぐその葉かげに憩おうとしてもそれは無理だ」(『人間の土地』堀口大學訳、『世界文学全集』77所収、講談社)との作家のサン=テグジュペリの含蓄のある言葉に寄せながら、自分の生きてきた証しが刻まれた場所や、日々の生活の息づかいが染みこんだ家を失うことの心痛は計り知れないものがある、と。
ともすれば気候変動に伴う被害を巡って、数字のデータで表されるような経済的損失の大きさに目が向けられがちですが、その陰で埋もれてきた"多くの人々が抱える痛み"への眼差しを、問題解決に向けた連帯の基軸に据えることが大切ではないでしょうか。
マクロ的な数値の陰で一人一人が直面している窮状が埋もれてしまう構造は、近年、エスカレートする貿易摩擦の問題においても当てはまるのではないかと思います。
自国の経済の回復を図るために、関税の引き上げや輸入制限などを行う政策は、「近隣窮乏化政策」と呼ばれます。しかし、グローバル化で相互依存が深まる世界において、その応酬が続くことは、「自国窮乏化」ともいうべき状態へと、知らず知らずに陥ってしまう危険性もあるのではないでしょうか。
実際、貿易摩擦の影響で多くの中小企業が業績悪化に陥ったり、雇用調整の圧力が強まって仕事を失う人々も出てきています。
貿易収支のような経済指標の改善は重要な課題だとしても、自国の人々を含め、多くの国で弱い立場にある人々に困難をもたらす状況が続くことは、世界中に不安を広げる結果を招くと思えてなりません。
昨年の国連総会でグテーレス事務総長も、深刻な脅威に直面する場所を訪れた時に出会った人々——南太平洋で海面上昇のために暮らしが押し流されることを心配する家族や、学校と家に戻ることを夢見る中東の若い難民、アフリカで生活の再建に苦労するエボラ出血熱の生存者などの姿を挙げながら、次のような警告を発していました。
「極めて多くの人々が、踏みつけられ、道をふさがれ、取り残されるのではないかという恐怖を感じています」(国連広報センターのウェブサイト)と。
私も同じ懸念を抱いており、グローバルな課題といっても、一人一人の生命と生活と尊厳が脅かされている状況にこそ、真っ先に目を向ける必要があると訴えたいのです。

◇牧口初代会長が警鐘を鳴らした他者を顧みない競争の弊害
『人生地理学』で提起された問題
気候変動も貿易摩擦も、経済と社会のあり方に深く関わる問題といえますが、この古くて新しい問題について考える時に思い起こされるのは、私ども創価学会の牧口常三郎初代会長が20世紀初頭に著した『人生地理学』で提起していた視点です。
牧口会長は、武力による戦争が「臨時的」に引き起こされるものであるのに対し、経済的競争は「平常的」に行われる特性があると指摘した上で、こう論じていました。
「彼(=武力による戦争)が遽然として惨劇の演ぜらるるが故に意識的に経過するに反して、此(=経済的競争)は徐々として緩慢に行わるるが故に無意識的に経過するにあり」(『牧口常三郎全集』第2巻、第三文明社。注<=>を補い、現代表記に改めた。以下同じ)
牧口会長が強調したかったのは、戦争の残酷さは明白な形で現れるために多くの人々に意識され、交渉や仲裁によって被害の拡大を食い止める余地が残されているが、経済的競争はそうではないという点です。
つまり、経済的競争は自然的な淘汰に半ば一任されるような形で無意識的に休むことなく続けられるために、社会における日常的な様相と化してしまう。そのために、人々を苦しめる状況や非人道的な事態が生じても往々にして見過ごされることになる、と。
当時、世界では帝国主義や植民地主義の嵐が吹き荒れ、他国の犠牲の上に自国の繁栄を追い求める風潮が広がっていました。
こうした風潮が当たり前のようになってしまえば、"ある程度の犠牲が生じてもやむを得ない"とか"一部で被害が出ても自分たちには関係がない"といった受け止めが社会に沈殿することになりかねない。
その結果、弱肉強食的な競争が歯止めなく進む恐れがあり、牧口会長は「終局の惨劇においては却って遙かに烈甚なるにあり」(同)と警鐘を鳴らしましたが、その危険性は、当時とは比べものにならないほどグローバル化が進んだ21世紀の世界において、格段に増しているのではないでしょうか。
もとより牧口会長は、社会の営みにおける競争の価値そのものは否定しておらず、切磋琢磨があってこそ新しい活力や創造性は豊かに育まれると考えていました。あくまで問題視したのは、世界を生存競争の場としか見ずに、自分たちだけで生きているかのような感覚で振る舞い続け、その結果に無頓着でいることだったのです。

◇「共同生活」を意識的に行う
牧口会長の思想の基盤には、世界は「共同生活」の舞台にほかならないとの認識がありました。
その世界観の核となった実感を、牧口会長は『人生地理学』の緒論で、自らの経験を通して、こう述べています。
——子どもが生まれて母乳が得られなかった時、粗悪な脱脂粉乳に悩まされたが、医師の薦めでスイス産の乳製品にたどりつくことができ、ことなきを得た。スイスのジュラ山麓で働く牧童に感謝する思いだった。また、乳児が着ている綿着を見ると、インドで綿花栽培のために炎天下で働く人の姿が思い浮かぶ。
平凡な一人の乳児も、その命は生まれた時から世界につながっていたのだ——と。(趣意。同全集第1巻)
出会ったこともない世界の人々への尽きせぬ感謝の思いが示すように、牧口会長は「共同生活」という言葉を世界のあるべき姿としてではなく、見落とされがちな世界の現実(実相)として位置付けていました。
世界は本来、多くの人々の営みが重なり合い、影響を与え合う中で成り立っているにもかかわらず、その実相が見失われる形で競争が続けられることになれば、深刻な脅威や社会で生じた歪みの中で苦しんでいる人々の存在が目に映らなくなってしまう。
だからこそ、「共同生活」を意識的に行うことが重要となるのであり、「自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとする」(同全集第2巻)生き方を社会の基調にする必要があるというのが、牧口会長の主張の眼目だったのです。
経済発展と温暖化防止についても両立の余地がないわけではないと思います。
2014年からの3年間は世界経済の成長率が3%を超えていたものの、温室効果ガスである二酸化炭素の排出量は、ほぼ横ばいの状態が続きました。
その後、残念ながら排出量は再び増加に転じましたが、再生可能エネルギーの導入やエネルギー効率の改善のような「自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとする」方法を意欲的に選び取る中で、経済と社会の新しいあり方を追求していくべきではないでしょうか。
私は、この「共同生活」を意識的に行う上での土台となるのは、深刻な脅威にさらされているのは自分たちと変わらない人々であるとの認識を持つことだと考えます。
この点、経済的競争と深く関わる貧困の問題について、マクロ的な視座からではなく、人々の置かれた状況を踏まえて実証的な研究を進めてきた経済学者に、マサチューセッツ工科大学のアビジット・バナジー教授とエスター・デュフロ教授がいます。
両教授は、ハーバード大学のマイケル・クレマー教授と共に昨年のノーベル経済学賞を受賞しており、『貧乏人の経済学』(山形浩生訳、みすず書房)と題する著作の中で、次のような点を強調していました。
世界の最貧困層と呼ばれる人々も、「ほとんどあらゆる点でわたしたちみんなと何も変わらない」のであり、他の人々と比べて合理性の面で劣るわけではない、と。
一方で豊かな国の人々は、安全な水や医療のような「眼に見えないあと押し」に囲まれて生活しているのに、「ただそれがシステムにしっかり埋めこまれているため、気がついていないだけ」であると指摘しました。
また、貧しい人々の状況について「そうでない人よりもリスクの多い暮らしを送るにとどまりません。同じ規模の不運でも、受ける被害はずっと大きいのです」と述べ、人々を紋切り型で判断せず、置かれた状況に目を向ける必要があると訴えていたのです。

苦悩に沈む人を一人のままにしない釈尊が貫いた「同苦」の精神
◇不幸の淵から共に立ち上がる
人々と向き合うにあたって、階層や集団などの社会的なカテゴリーにとらわれず、今どのような状態にあるのかを最優先して見つめる眼差しは、私どもが信奉する仏法においても強調されていたものでした。
釈尊の言葉に、「身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ」(『ブッダのことば』中村元訳、岩波書店)とあります。
その趣旨は、人間には本来、区別はないのに、社会でつくられた分類に応じて名前が付けられてきたのにすぎないことを、浮き彫りにする点にありました。
実際、釈尊は重い病気を患った人に対して、自ら看病したり、励ましの言葉をかけていましたが、そこには相手の社会的立場の区別はなかった。
その対象は、通りがかった場所で目にした修行僧から、かつて釈尊の命を狙ったことのある阿闍世王までさまざまでした。
しかし、そこには共通点がありました。修行僧が仲間たちから見放されて一人で病床に臥せっていたのと同じように、阿闍世王も深刻な難病にかかって誰も近づかないような状態に陥っていたからです。
釈尊は修行僧に対し、汚れていた体を洗い、新しい衣類を用意して着替えさせました。
また阿闍世王に対して、釈尊は自身が余命いくばくもないことを感じていたにもかかわらず、あえて阿闍世王と会う時間をつくり、法を説くことで病状の回復を後押ししたのです。
私はこうした釈尊の振る舞いに、"苦しんでいる人を決して一人のままにしない""困難を一人で抱えたままの状態にしない"という、仏法の「同苦」の精神の源流を見る思いがしてなりません。
仏法の視座から見れば、「弱者」という存在も初めからあるのではなく、社会でつくられ、固定化されてしまうものにすぎない。
たとえ、「弱者」と呼ばれる状態に陥ったとしても、困難を分かち合う人々の輪が広がれば、状況を好転させる道を開くことができる。同じ貧困や病気に直面しても、周囲の支えがあることで生の実感は大きく変わるというのが、仏法の思想の核をなしています。
牧口会長の言う「共同生活」を意識的に行う生き方も、困難を抱えた人々を置き去りにしないことが基盤になると思うのです。

◇国連の使命は「弱者の側に立つ」中に
2008年に世界を激震させた金融危機が起きた時、国連で事務次長などを歴任したアンワルル・チョウドリ氏との対談で焦点となったのも、経済的に厳しい状況にある国々や、社会的に弱い立場にある人々への支援を最優先にすることの重要性でした。
その際、チョウドリ氏は、気候変動をはじめ、金融の極端な逼迫や商品価格の急激な変動といった外的ショックを緩和するためのグローバルなセーフティーネット(安全網)を設ける必要性を訴えていました。
私もまったく同感であり、21世紀の国連に強く求められる役割は「弱者の側に立つ」ことにあるとの点で意見が一致したのです。
チョウドリ氏は、国連で2001年に新設された「後発開発途上国ならびに内陸開発途上国、小島嶼開発途上国のための高等代表事務所」で初代の高等代表に就任し、国際社会から置き去りにされがちだった国の人々のために行動してきた経験を持つ方でした。
その氏が、「一番嬉しかったのは、最も弱い立場にある国々の状況が大きく改善したことを知るときでした」(『新しき地球社会の創造へ』潮出版社)と述懐されていたことに、私は深い感銘と共感を覚えました。
なぜなら、創価学会も草創期に"貧乏人と病人の集まり"と揶揄されてきた歴史があり、社会から見捨てられてきた名もなき人々が互いに励まし合い、不幸の淵から共に立ち上がってきたという出自を、何よりの誉れとしてきたからです。
どれだけ冷笑されても、「私は、やるべきことをやっていきます。それは、貧乏人と病人、悩み苦しんでいる人々を救うことです。そのために、声を大にして叫ぶのです」(『戸田城聖全集』第4巻)と信念の行動を貫いたのが、牧口初代会長と共に創価学会の民衆運動を立ち上げた戸田城聖第2代会長でした。

◇ハマーショルドが第九に託した思い
その戸田会長が熱願としていたのが、地球上から"悲惨"の二字をなくすことでした。それは、第2次世界大戦で多くの国の民衆が戦火に見舞われ、塗炭の苦しみを味わった悲劇を繰り返してはならないとの思いに発したものでした。
それだけに、二度に及んだ世界大戦の痛切な反省に基づいて創設された国連に限りない期待を寄せ、"世界の希望の砦"として守り育てていかねばならないと訴えていたのです。
私が60年前に第3代会長に就任した時、世界平和への行動を本格的に開始するにあたって、最初の一歩としてアメリカに向かい、国連本部に足を運んだのも、師の思いを受け継いでのことにほかなりません。
以来、私どもは国連に対する支援を社会的な活動の大きな柱に据えて、志を同じくする人々や多くのNGO(非政府組織)との連帯を強めながら、地球的な課題の解決を前進させるための行動を続けてきました。
国連の歴史を繙くと、私が1960年にニューヨークを訪れた直後の国連デー(10月24日)に、当時のダグ・ハマーショルド事務総長の提案で、ベートーベンの交響曲第九番の全楽章の演奏が国連本部で行われたことが記されています。
それまで国連で"第九"が演奏される時は最後の第四楽章のみの演奏が恒例となっていましたが、国連デーの15周年を記念して、全楽章を通しての演奏が行われたのです。
席上、ハマーショルド事務総長は次のようにスピーチしました。
「交響曲第九番が始まると、我々は激しい対立と陰鬱な脅威に満ちたドラマに入っていく。しかしベートーベンは我々をその先へと誘い、第四楽章の冒頭で我々は、最終盤における統合に向けた橋渡しとして、さまざまな主題が繰り返されるのを再び耳にする」と。
その上で、楽曲の展開を人類の歴史になぞらえつつ、「最初の三つの楽章の後に、いつの日か、第四楽章が続いて現れることになるとの信念を、我々は決して失うことはないだろう」との希望を述べたのです。
ハマーショルド事務総長のこの信条は、牧口会長が『人生地理学』で示していた時代展望と響き合うものでもありました。
20世紀の初頭に牧口会長が危惧を呈していた、多くの人々の犠牲の上に自らの安全と繁栄を追い求めるような「軍事的競争」や「政治的競争」や「経済的競争」は、残念ながら今なお世界から消え去ってはいません。しかし"第九"の第四楽章での合唱が「おお友よ、こんな調べではなく!」と始まるように、従来の競争のあり方を転換させるアプローチを生み出すことが必ずできるはずです。
牧口会長はその骨格を、「他のためにし、他を益しつつ自己も益する」(前掲『牧口常三郎全集』第2巻)との理念に基づく人道的競争として提起していましたが、気候変動の問題に立ち向かうグローバルな行動の連帯を広げることで、人類史の新たな地平を開くパラダイムシフト(基本軸の転換)を推し進めるべきであると、私は強く呼び掛けたいのです。
そして、その挑戦の主旋律となるのが、「困難な状況に陥った人々を誰も置き去りにしない」との思いではないでしょうか。
その主旋律をあらゆる場所で力強く響かせていく中でこそ、気候変動という未曽有の危機も、時代の潮流を転換させるチャンスに変えることができるに違いないと信じるのです。