2020年1月28日火曜日

2020.01.28 わが友に贈る

寒い冬の朝を駆ける
尊き無冠の友に感謝!
悪天候時は安全第一で。
皆様の絶対無事故を
真剣に祈っています。

佐渡御書 P961
『日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし』

【通解】
「日蓮さんは私たちの師匠ではあられるが、あまりにも強引だ。私たちは(師匠と違って)柔らかに法華経を弘めましょう」と言うのは、ホタルの光が太陽と月を笑い、アリ塚が華山を見くだし、井戸や小川が大河や大海を軽蔑し、小鳥のカササギが偉大な鸞鳥と鳳凰を笑うようなものである、笑うようなものである。

名字の言 教室に来られない友人へ——ある女子中等部員の投稿 2020年1月28日
ある女子中等部員の投稿が、南日本新聞(鹿児島県)の読者欄に掲載された。そこには、教室に来られない友人への思いがつづられていた▼友人が登校しなくなってしばらくしたある日、彼女は手紙を書いた。"迷惑かな、嫌かな"とためらいつつも、思い切って届けた。すると数日後に返信が。そして"文通"が始まった▼友人は登校したくてもできない理由を教えてくれた。そして1年生最後の集合写真を撮る日、友人は学校に来た。翌日届いた手紙には「頑張ったよ。教室に行けて良かった」と。この言葉が忘れられないという彼女は投稿をこう締めくくった。「皆『行きたい』と思っている。たとえ教室に姿はなくとも、心はある」。目に見える「現実」だけが全てではない。その奥にある心に思いをはせれば、互いの気持ちはどんなに豊かになるだろう▼御書の一節を思い出す。佐渡の国府入道が身延の日蓮大聖人に供養の品を届けた時のこと。大聖人は入道の妻・国府尼にお手紙を送られ、高齢の夫を遠路、送り出した夫人の信心をたたえた。「姿は見ることはできないが、心はここにおられると思われる」(1325ページ、趣意)と▼会合に来られない友、なかなか会えない友——その状況は千差万別。「一人」の心に思いをはせ、励ましを送り続けたい。(誼)

寸鉄 2020年1月28日
一番苦しむ人を救うのが真に力ある宗教—恩師。今日も大確信で友の元へ
使命とは責任感の異名—大統領。青年よ次の十年の扉開け。師の提言胸に
老後表す英語に"黄金の年月"と。信心貫く多宝会は地域照らす太陽の如く
新型肺炎に警戒広がる。デマも横行。不安煽らず手洗い等で冷静に予防を
2050年、大都市6割で夏の五輪開催困難と。温暖化対策は人類的挑戦

☆心に御書を 第17回 勇気の「行動」こそ仏法の魂
〈御文〉
『法華経は紙付に音をあげて・よめども彼の経文のごとくふれまう事かたく候か』(転重軽受法門、1001ページ)

〈通解〉
法華経は、紙に書いてある通りに声をあげて読んだとしても、その経文に説かれる通りに振る舞うことは難しいであろう。

〈池田先生が贈る指針〉
仏法の魂は「行動」だ。法華経の通り、御書に仰せのまま、あらゆる苦難を越え、世界広布を成し遂げてきた闘争が、創価の誉れである。
百万言の理想より一歩の前進が尊い。目の前の一人を励ますことだ。勇気を奮い起こし、人間の中へ飛び込むことだ。
御本仏は、最も偉大な実践の学会家族を全てご照覧であられる。

☆「教学部教授登用講座(第3回)」「教学部教授講座」〉 御義口伝
◇信心根本に価値創造の前進を
「教学部教授登用講座(第3回)」と「教学部教授講座」が、合同の中継行事として2月1日(土)、2日(日)に、全国各地の会館・会場で開催されます(日時・会場の詳細は各県・区ごとに決定)。ここでは、中継行事の中で学ぶ御書の御文と通解、池田先生の指導を掲載しました(学習の便宜を図るため、講座の中で取り上げる順に合わせて、冒頭に番号を振ってあります)。中継行事参加者は、御書と教材(本紙面)を持参してください。また、「教学部教授登用講座」の受講者は、受講カードもお持ちください。

◇「御義口伝」について
「御義口伝」は、日蓮大聖人が身延で法華経の要文を講義された内容を、日興上人が筆録し、大聖人の許可を得て、完成したものと伝えられています。
構成は上下2巻からなり、初めに「南無妙法蓮華経」について論じられた後、巻上では法華経序品第1から従地涌出品第15まで、巻下では如来寿量品第16から普賢菩薩勧発品第28までと開結二経(無量義経、普賢経)の要文講義が収められています。 
各項目では、経文の一節を挙げ、関連する天台大師、妙楽大師等の釈を引用するなどした上で、「御義口伝に云く」と、末法の御本仏・日蓮大聖人のお立場からの法華経解釈が展開されています。
大聖人のお立場から見れば、法華経は、末法における大聖人の妙法弘通を予言した経典であり、28品の一字一句がことごとく南無妙法蓮華経の説明となります。
したがって、「御義口伝」において示されているのは、法華経の語義に縛られた解釈ではなく、御本仏の御境涯の上から、法華経の文を文底下種法門の説明として自在に用いられ、活用されていく「活釈」といえます。

◇生命力と智慧を涌現
御文1
『南無妙法蓮華経
御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と』(御書708ページ1行目〜4行目、編年体御書1554ページ1行目〜4行目)

通解1
(「南無妙法蓮華経」について)御義口伝に次のように仰せである。
「南無」とは梵語(古代インドの言語。サンスクリットのこと)である。漢語では「帰命」という。(帰命には)「人」への帰命と、「法」への帰命がある。「人」への帰命とは釈尊に帰命し奉ることである。「法」への帰命とは法華経に帰命し奉ることである。
また、(帰命の)「帰」とは、迹門不変真如の理に帰することである。(帰命の)「命」とは、本門随縁真如の智に命くことである。帰命とは南無妙法蓮華経そのものである。ある釈には「随縁不変・一念寂照」とある。

★池田先生の指導から1
「大聖人は、『帰』というのは、迹門不変真如の理に帰することであり、『命』とは本門随縁真如の智に命くことなのであるとお述べになっています。
この不変真如の理とは、永遠不変である真実の法理ということです。
南無妙法蓮華経は宇宙の本源の絶対の真理です。題目を唱えることによって、この宇宙の本源の法則に合致することができる。これが不変真如の理に帰することになります。
また、随縁真如の智とは、縁に随って刻一刻と変化していく事象に対応した真実の仏の智慧であり、信心によって涌現した最高の生命である、仏界の働きをいいます。
不変真如の理は、偉大なる妙法という真理であります。
その妙法の法則、力が、実際に、わが生命に、生活のうえに顕現されていってこそ、幸福という価値を生ずるといえる。つまり、妙法によって、無限の生命力を、仏の智慧を涌現させ、苦難、苦悩を打開し、人間革命、生活革命をしていく、価値創造の姿が、随縁真如の智に命いたことになるわけです」(『新・人間革命』第6巻「若鷲」の章)

◇生死不二の本源的な生命観
御文2
『第四如来如実知見三界之相無有生死の事
御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり(中略)然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云』(御書753ページ15行目〜754ページ8行目、編年体御書1599ページ15行目〜1600ページ8行目)

通解2
(寿量品の「如来は如実に三界の相を知見するに、生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦在世及び滅度の者無く」の経文について)御義口伝には、次のように仰せである。
(経文に説かれている)「如来」とは、久遠実成の釈尊だけではなく、さらには三界の衆生である。
寿量品の眼を開けて、この三界の衆生を見れば、そのまま十界本有の当体である、とありのままに知見できるのである。
(また、経文にある、如来が知見している)「三界之相」とは、生老病死である。それを本有の生死と見れば、「無有生死(生死が有るということは無い)」なのである。(「無有生死、若退若出」と経文にあるが)生死が無ければ退出も無いのである。ただ生死が無いということではない。
生死を見て、厭い離れようとすることを迷いといい、始覚というのである。そのままで本有の生死と知見することを悟りといい、本覚というのである。
今、日蓮及びその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉る時、本有の生死、本有の退出と開覚するのである。(中略)
ゆえに無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮の弟子檀那等である。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故である。

★池田先生の指導から2
仏とは、教主釈尊だけでなく、三界という現実社会に生きる衆生のことである。それは、寿量品に説かれる久遠の仏の眼から見た時、一切衆生にも十界の生命が本来、具わっていると知見できるからであると示されています。
ここで「本有」とありますが、これは「本来的に有ること」「もともと存在していること」です。すなわち一切衆生には、本来的に十界の生命が、つまり仏界の生命が具わっているということです。衆生は皆、一念三千の妙法の当体なのです。(2019年12月号「大白蓮華」掲載の「世界を照らす太陽の仏法」)

★池田先生の指導から3
「本有の生死」とは、永遠の生命に本然的に具わっている生死のことです。この三世永遠の生命観に立脚した時に、死を忌み嫌い、恐れる必要などないのです。
それと同時に、この仏法の英知は"死を忘れた"といわれる現代文明に、生死不二という本源的な生命観を力強く提示するものです。
私たちにとってみれば、「本有の生死」とは、妙法とともに生き、妙法とともに死すことにほかなりません。それが「本有常住の振舞」なのです。
どう生きて、どう死を迎えるか。毅然と悠々と振る舞う揺るぎない境地を、万人が会得するための日蓮仏法です。「本有の生死」だからこそ、今世で仏界を固め切るために、最後の最後まで戦い抜くのです。(2019年12月号「大白蓮華」掲載の「世界を照らす太陽の仏法」)