◇今週のことば
創価の前進を支える
役員の皆さまに深謝!
「陰徳あれば陽報あり」
健康・無事故で
凱歌の総仕上げを!
2017年12月10日
撰時抄 P266
『南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや』
☆女性に贈ることば 十二月十日
愛情のない母親は、まずいない。しかし、その愛情の注ぎ方に、手落ちや、気ままや、気まぐれがあれば、かえって子どもの人格を傷つけてしまいかねない。
子どもの心を深く理解し、その心の流れにそって導いていく、賢明な船頭でありたい。
☆今日のことば365 十二月十日
勇気は青年の特技だ。父を、母を幸福にするのも、事業の再建も、生活の確立も、国を救うのも、勇気が根本だ。
☆誓いの天地 山形・米沢市 2017年11月30日
◇j地域の発展のために
山形県の最南端に位置する米沢市。多くの縄文遺跡が確認されており、一ノ坂遺跡からは竪穴式住居跡が発見されるなど、歴史のロマン薫る街である。
江戸時代の第9代米沢藩主・上杉鷹山は名君として知られる。殖産振興政策を展開し、その中で生まれた米沢織物は、今も続く伝統産業である。
「舘山りんご」「米沢牛」「米沢鯉」が代表的な特産品。温泉やスキー場も多くある。
地名の由来には、米のなる沢(草の生える湿地)との説も。米作りを中心とした農業が盛んな地域だ。
野口光信さん(山形池田圏、男子地区リーダー)は、周囲からの信頼が厚い青年営農者。「祖父の家庭菜園を手伝う中で、農業に憧れを持ちました」
資金調達や農地の確保など、いくつもの壁にぶつかりながら、農業を始める準備を進めた。男子部では、創価班大学校に入校。学会活動への挑戦も開始した。
就農2年目の時、ビニールハウスでの栽培を始めた。「ナスは需要がある」との話を聞き、ナス中心の栽培を行うことに。
台風の被害を受けたり、雪の重みでビニールハウスがつぶれたりするなど、何度も挫折を経験。そのたびに、信心で立ち上がった。
「自然災害は農家にとって大打撃です。信心しているからこそ、試練に意味を見いだし、前進の力に変えることができました」
豪雪地帯の米沢では、秋に収穫した野菜を、冬の期間、雪の中で貯蔵する。近年、この手法を応用し、糖度が高い「寒中野菜」が誕生。その開発に、野口さんも携わってきた。
現在、地元の青果市場で「なす部会」の事務局長を務める。新規就農者への支援、ナスの栽培講習会などを開催している。
「生命を守り、一生懸命、育てている人が文化人である」——池田先生の言葉を胸に、愛する米沢の農業発展に全力を尽くす。
◇
戸屋みゆきさん(山形池田圏、圏女子部長)は生後2日目で、母の美智子さんを亡くした。
父の武彦さん(同、本部長)と祖父母が育ててくれた。父は中学生の時に『希望対話』を、高校生の時には『青春対話』をプレゼントしてくれた。その2冊は、戸屋さんの大切な「宝物」だ。
創価女子短期大学に進学し、創立者への200番目となる名誉学術称号授与式に参加するなど、数々の原点を刻んだ。
東京で生活する中、生まれ育った米沢が大好きなことに気付いた。"卒業後は、地元で頑張ろう"と決め、就職活動を開始した。
30社以上、不採用が続いた。それでも諦めずに祈り、側溝の蓋などを製造する会社から、内定を勝ち取った。
職場の人間関係で行き詰まったこともあったが、学会活動に挑戦し、仕事にも全力で取り組んできた。今、職場では"なくてはならない存在"として光る。
昨年10月、圏女子部長に就任。"皆の笑顔が自分の幸福"と華陽姉妹の励ましに奔走する。
「私の胸には、いつも母がいます」。胸中の母が誇りに思う自分自身に——戸屋さんの挑戦は、きょうも続く。
◇栄光の共戦譜
●仏子の歴史は光り残らむ
「米沢を最大に激励してあげたい」「盛大に勝利宣言の会合を行おう」——池田先生がこう提案したのは、1987年(昭和62年)7月7日。3日間の山形での激励行を終え、帰京する特急列車「つばさ16号」の車中でのことだ。
米沢は山形の中で、第1次宗門事件の嵐が最も吹き荒れた地域。悪侶と退転・反逆者による学会攻撃が突如として始まったのは78年(同53年)のころである。
卑劣な謀略を、友は勝ち越えてきた。師の提案を受け、87年7月12日、学会の正義を宣言する"凱歌の集い"が開催された。
池田先生は3首の和歌を贈った。その一つには、「狂暴の 嵐のなかに 米沢の 仏子の歴史は 光り残らむ」と。
この原点から、今年は30星霜。不屈の闘魂は、今も米沢の友の胸に赤々と燃え続けている。
◇
池田先生が山形を初訪問したのは、58年(同33年)11月20日。山形市内で行われた山形地区の結成大会に出席するためである。
それから2年で、支部に発展。60年(同35年)11月22日、師を迎えて山形支部の結成大会が行われた。
佐藤忠美さん(山形明朗県、県議長)は、運営役員として参加した。
第1次宗門事件の折、米沢市を含む置賜地域のリーダーを務めた。宗門僧の攻撃が続いていた78年(同53年)8月6日、友の心に勇気と希望の灯をともそうと、「置賜ふるさと祭典」が開催された。
祭典の昼の部の終了後、東北のリーダーに、学会本部から連絡が。池田先生が作詞・作曲した東北の歌「青葉の誓い」が電話口で伝えられ、祭典の夜の部のフィナーレで高らかに歌い上げられた。みちのくの地に、初めて東北の歌が響いた瞬間だった。
それから5年後の83年(同58年)4月17日、池田先生は山形を訪問。山形最高会議が開催され、佐藤さんも駆け付けた。
席上、師に思いの丈をぶつけた。「米沢に魂を打ち込んでください!」。先生は「分かりました」と。
翌日、米沢文化会館に先生から墨痕鮮やかな書が届いた。
「米沢建設」
師の真心に、佐藤さんは"師と共に、米沢建設に生き抜く生涯を"と誓った。
1歳でポリオ(小児まひ)にかかり、佐藤さんは左手が動かない。青年時代には重度の肺結核も患った。だが、宿命に負けず、妻・敏子さん(同、県婦人部主事)と広布に駆けてきた。
「"山形建設"に燃える青年たちの成長を祈り、応援していきます」——佐藤さんの声に力がこもった。
◇
72年(同47年)7月10日、先生は4500人の山形の友との記念撮影会に臨んだ。「山形の日」の淵源である。
16グループに分かれて行われた撮影の合間を利用して、先生はマイクを握り、参加者を励ました。
勝見静代さん(山形明朗県、圏婦人部主事)は、撮影会に参加した一人だ。
60年(同35年)2月に入会。5年後、女子部部隊長に就任し、師から部隊旗を受け取った。その折の「明るく頑張りなさい」との激励は人生の指針となった。
結婚後、夫の正則さん(同、副圏長)が営むクリーニング店を手伝うように。クリーニング店が地域で競合し、苦境に立たされたこともあった。
必死に祈る中、どの店よりも早く「着物の染み抜き」を始めた。これがヒットし、経営は上向きに。その後、長男の弘志さん(同、支部長)が店を継ぎ、今では米沢市に3店舗、南陽市に2店舗を構える。
地域活動にも率先してきた。町内の福祉部長として、周囲の信頼は厚い。
「苦労も多くて、出口が見えなかったことも……」と静代さん。すると正則さんが一言。「でも、この人はね、何があっても笑顔。底抜けに明るいんです」
互いに顔を見合わせ、笑い声が弾ける。「明るく頑張りなさい」との師の指針は、勝見さんの家庭に確かに息づいていた。
◇
74年(同49年)9月26日、池田先生が出席して行われた山形文化会館(当時)の開館式。山田登さん(山形明朗県、副県長)は、整理役員として集った。
先生は「山形は山形らしく『山形ここにあり』の自信と確信をみなぎらせ、いずこの地よりも仲の良い第2期山形広布の理想郷を」と呼び掛けた。
師の励ましを胸に、山田さんは地域で奮闘を重ねてきた。
数々の師との原点の中でも、第1次宗門事件の折の激励は、宝の原点だ。池田先生は米沢を中心に、13人の友へ和歌を贈った。その一人が山田さんである。
「共々に 元初の誓い 果さんと いざや立ちたる 君を頼らむ」——万感の期待に、"わが地域を広布の理想郷に"との誓いは、さらに燃え上がった。
今年4月まで町内会長を8年務めた。現在、市内のコミュニティーセンターの管理運営委員会委員長として活躍する。
「『元初の誓い』を忘れず、米沢の発展に尽くす人生を歩み抜いていきます」
——池田先生は、山形への思いをつづっている。
「山形は、私が『アルカディア(理想郷)』の建設を託した、人の心清き国土である」「わが郷土に『希望の太陽』を昇らせる先駆は、山形がモデルとなっていただきたい」
「青葉の誓い」を歌いながら、米沢と山形の前進の足音が高らかに鳴り響く。