2017年12月2日土曜日

2017.12.02 わが友に贈る

介護・看病・育児など
家族を懸命に支える友へ
温かな声掛けを!
寄り添う同志の存在こそ
安心と希望の源泉だ!

可延定業書 P986
『命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりともこれを延るならば千万両の金にもすぎたり』

☆女性に贈ることば 十二月二日
「いつか」ではない。「今」である。この時を完全燃焼せずして、真の人生はあり得ない。

☆今日のことば365 十二月二日
今は全然 僕の存在は
 理解してくれなくても満足なのだ
やがて 僕の会話に多くの人が
 耳を傾けるであろうことを
  確信しているからだ

☆12月度座談会拝読御書 諸経と法華経と難易の事
今いる場所こそ仏道修行の舞台
正法の"確立"で安穏と繁栄を実現

◇本抄について
本抄は、弘安3年(1280年)5月、日蓮大聖人が59歳の時、身延から下総国(千葉県北部など)の富木常忍に送られた御書です。
富木常忍が法華経法師品の「難信難解(信じ難く、解し難し)」の文について質問したことに対して、問答形式で答えられています。
本抄では、法華経以外の諸経は、九界の衆生の機根に応じて説かれた「随他意」の教えであり、「易信易解」である。これに対して法華経は、衆生の機根を問わず、仏が自身の内面の覚りを説いた「随自意」の教えであるゆえに「難信難解」であり、一切衆生が成仏できる経であると示されています。
「機根」とは、仏教を理解し信じ実践する能力・資質をいいます。
さらに、大聖人は随他意の法門がはびこって仏教界が混乱し、根本である「体」が曲がっている日本国の状態を憂えられ、仏の随自意の経である法華経の正法を立てて体を正さなければならないと訴えられています。

◇拝読御文
『仏法やうやく顚倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり』

◇仏法即社会
法華経は、世間の一切の営みが妙法に違背するものではないことを示しています。
爾前権教では、世間と仏法を別のものと捉え、世間を離れた"出世間"の中に覚りへの道があると説いています。
これに対して法華経は、世間の法を離れて仏法はなく、世間の法がそのまま仏法の全体であり、そこにこそ衆生成仏の真実の道があると説きます。
日蓮大聖人は「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」(御書1466ページ)と仰せです。
私たち自身の日常の生活はもとより、政治、経済、教育、文化等のさまざまな社会的次元において、仏法の豊かな智慧を顕現していくことが仏法者としての使命であり、そこに「仏法即社会」の具体的な実践があります。
また、仏法即社会であるゆえに、拝読御文にある通り、社会を支える思想・哲学の歪みがそのまま世法の乱れとなって表れてきます。理想の人間社会を建設していくためには、何よりも正法を確立していくことが大切になるのです。

◇再度の蒙古襲来
当時、再びの蒙古襲来(元寇)を恐れて、世情は騒然としていました。
最初の蒙古襲来である文永の役(文永11年〈1274年〉)の後、建治元年(1275年)には元の使者が来日しましたが、幕府は斬首に処します。さらに再度の襲来に備えて博多湾に沿って防塁が築かれました。
人々が蒙古の再来を恐れる模様を日蓮大聖人は記されています。
「雲が見えれば敵の旗かと疑い、釣船が見えれば蒙古の兵船ではないかと肝を消し、日に1、2度は山へ登り、夜は3、4度も敵が来たかといって馬に鞍をおき、現世の身に修羅道を感じている」(御書1084ページ、通解)
「今、日本国で富み栄えている人々は、蒙古国が攻めてくることを聞いては、羊が虎の声を聞いたように恐れるのである」(同1565ページ、同)
本抄御執筆の直前には、朝廷が異国降伏の祈願を諸寺に命じています。まさに、拝読御文に「仏法やうやく顚倒しければ世間も又濁乱せり」と述べられている通りの世相でした。

大聖人がかねてから「立正安国論」の提出などを通して他国からの侵略の危機を為政者に訴えてこられたのは、人々が不幸に陥らないようにするためでした。
本抄においても、大聖人は謗法の教えを破折して、法華経を根本とすべきことを示しておられます。「仏法は体のごとし」――正法を根本としてこそ、民衆の幸福と社会の安穏が実現するからです。
本抄御執筆の翌年5月、蒙古襲来は弘安の役として再び、現実のものとなりました。
翌弘安5年(1282年)秋には、大聖人は武蔵国池上(東京都大田区池上)で「立正安国論」を講義し、御入滅されます。民衆の幸福を何よりも願われた大聖人は、生涯にわたって「立正安国」の闘争を続けられたのです。

◇信心即生活
日蓮大聖人は「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(御書1295ページ)と仰せです。「御みやづかい」とは、主君などに仕えることですが、今日の私たちの立場に当てはめれば、なすべきこと、果たすべき役割であり、職業や生活に当たります。
この仰せは、日々の生活が、そのまま仏道修行の場であり、信心を根本とした自身の生き方を示す場であることを教えられているのです。
生活は、私たちの生命活動そのものにほかなりません。そして、信心は、私たちの生命を変革し、充実させていく力となります。
生活の場で直面するさまざまな課題に対して、御本尊への唱題を根本に真剣な努力を重ねていった時に、その現実との戦いそのものが、私たちの仏界の生命を涌現させる機縁となり、自身の生命変革の契機ともなるのです。
また、信心で開拓した生命力、豊かな境涯を土台にして、生活の場に勇んで出ていった時、生活そのものも、おのずから変革されていくのです。
大聖人の仏法においては、信心と生活は一体です。
学会の同志が根本とする「信心即生活」の生き方――これは、自身の生活は自らの信心の表れであると捉えて、一念の変革から、信頼される社会人として仕事や生活に勝利していくことなのです。

◇池田先生の指針から 正しい哲学を"人生の背骨"に
仏法は「体」であり、根本です。根本の仏法が混乱し、見失われれば、世間もまた大混乱する。社会を根底から支える思想が確立しなければ、世の中は規範を失う。
その結果、弱肉強食の畜生道となり、争いの絶えない修羅道となり、不満が渦巻く餓鬼道となる。ついには苦悩が尽きない無間地獄の社会となってしまう。
だからこそ、「立正」がまず必要なのです。そうすれば、必ず「安国」となっていく道理です。(『池田大作全集』第32巻、「御書の世界」)
◇ ◆ ◇
師・戸田城聖先生は、第二次世界大戦後の廃墟に一人立たれ、道に迷う青年たちに明確なる指標を示してくださった。先生は、よく言われた。
「皆、今世に果たすべき、大いなる使命と力を持って生まれてきた地涌の菩薩だ。その自分を信じ、徹して強気でいけ! 勝負は、悪戦苦闘の一日一日を耐え抜き、勝ち抜いていく絶対の粘りだよ!」と。(中略)
日蓮大聖人は、「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(御書992ページ)と仰せになられた。
正しき思想・哲学は、人生にあっては「鋼の背骨」であり、社会にあっては「黄金の柱」といってよい。
一人の青年が、妙法という「生命の尊厳」の究極の法理を持ち、立ち上がるならば、家庭も、職場も、地域も、そこから必ず大きく変わっていく。ゆえに青年に仏法を語り、仏縁を広げゆくことほど、地道にして確実な「幸福」と「平和」の王道はないのだ。(2013年3月号「大白蓮華」、「巻頭言」)
◇ ◆ ◇
わが創価の友は、大仏法の尊い実践者である。広宣流布の真正の闘士である。ゆえに、現実社会で絶対に勝たねばならない。また、絶対に勝ち抜いていける大法則を持った皆様方なのです。
「一切の法は皆是れ仏法なり」(御書564ページ)です。生活の確立が、信心の確立である。信心の確立が、生活の確立なのです。
仏法は「即社会」です。「即職場」「即地域」であり、「即家庭」となるのです。「即」とは、信心の一念です。学会という和合僧の中で、使命の役職を担い、広宣流布に戦えば、「即」という変革の原理が躍動します。
人生は、さまざまな困難の連続である。しかし、信心の上では決して負けない。一歩も退かない。この一念が、「即」人生の勝利、社会での勝利を開くのです。(『御書と師弟』第3巻)