2017年10月19日木曜日

2017.10.19 わが友に贈る

「強敵を伏して
始て力士をしる」御聖訓。
困難に挑み抜いてこそ
本当の力が発揮される。
破竹の勢いで進もう!

日女御前御返事 P1243
『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉る』

☆女性に贈ることば 十月十九日
声は鏡であり、その人の境涯が、くつきりと映し出される。
声ひとつで、人びとに希望を与え、納得と安心を広げ、正義を奮い起こしていくことができる。

☆今日のことば365 十月十九日
人間誰しも
 悩みは一生にわたってあるものだ
ただ その悩みをいかに転換させ
 人生をして向上にむかわしめてゆくかが
  大事な起点であるといっていい

☆御書と歩む 第87回 題目には無量無辺の功徳力
『今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて十方世界の三身円満の諸仏をあつめて釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に一仏・一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり、故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり』(唱法華題目抄、13ページ)

◇通解
今、法華経は、四十余年の諸経を一経に収め、十方世界の(法・報・応の)三身円満の諸仏を釈迦一仏の分身の諸仏であると説くゆえに、一仏は一切仏であり、妙法の二字に諸仏は皆、収まるのである。ゆえに妙法蓮華経の五字を唱える功徳は莫大である。

◇同志への指針
妙法は一切を動かす大宇宙の根源の力である。ゆえに、我らの唱題の音声は、十方世界に轟きわたる。届かないところなどない。
自行化他の題目に、諸天は舞い、十方の諸仏は歓喜する。万人の仏性を呼び覚ます、無量無辺の功徳力がある。
宿命転換も唱題だ。人間革命も唱題だ。広宣流布も唱題だ。地涌の題目の底力を、今こそ発揮しようではないか!

☆10月度座談会拝読御書 阿仏房尼御前御返事
◇本抄について
本抄は、日蓮大聖人が身延の地から、佐渡の門下である阿仏房の妻・千日尼に送られた御消息です。建治元年(1275年)の御述作とされてきましたが、現在は建治2年(1276年)と考えられています。
千日尼は、大聖人の佐渡流罪中に、夫の阿仏房と一緒に大聖人に帰依し、苦境にあられた大聖人のもとに夫と共に通って種々の品を御供養するなど、強盛な信心を貫きました。
大聖人が佐渡流罪を赦免になり、身延に入山されてからも、千日尼は阿仏房を度々、大聖人のもとへ送り出しています。
本抄は、千日尼が謗法の罪の軽重の問題について質問したことに対し認められた御返事です。
大聖人は、法華経は一切衆生を仏にする教えであり、法華経への信心があれば、必ず成仏できることを教えられています。拝読御文では、いよいよ強盛な信心に励んでいくよう激励され、仏法を語って人々から憎まれたとしても信心を貫いていくよう励まされています。

◇拝読御文
『弥信心をはげみ給うべし、仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにくまばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり』

◇仏縁の拡大
仏法では衆生の成仏への過程について、種熟脱の三義を説いています。これは植物が、初めは種から発芽し、成長し、実を結ぶ過程に譬えて、衆生の成仏への過程を示したものです。
このなかで一切の出発点となるのが、衆生の心田に成仏への種を下ろす「下種」という働き掛けです。
法華経では、一切衆生の生命に、もともと仏性という成仏への因が具わっていると説きます。具体的にその仏性を発動させていく働き掛けが、妙法を説いて衆生の生命に成仏の種子を下ろす「下種」という行為なのです。
日蓮大聖人は「仏種は縁に従って起る是の故に一乗を説くなるべし」(御書1467ページ)と仰せです。
すなわち一乗(妙法)を聞いたという縁に触発されて初めて、人々の胸中に「仏種」が形成され、芽生えていくのです。
ここでいう「仏種」とは、衆生の生命にもともと具わる仏性のことです。成仏の根本因を植物の種に譬えて仏種と呼んでいます。
人々に大聖人の仏法を語っていく行為は、相手の成仏への機縁となる尊い行為であり、その功徳は計り知れません。
妙法を根本に誠実な対話によって仏縁を広げることで、自他共の幸福の連帯が広がっていくのです。

◇「如説修行」
日蓮大聖人は拝読御文で法華経や釈尊の教え、さらに天台、妙楽、伝教、章安という仏法の正師の教え通りに実践する人が「如説修行の人」であると教えられています。
「如説修行」は法華経の文であり、「説の如く修行す」と読み下します。
大聖人は「如説修行抄」で、「此等のをきての明鏡を本として一分もたがえず唯有一乗法と信ずるを如説修行の人とは仏は定めさせ給へり」(御書503ページ)と仰せです。
「此等のをきて」とは、法華経以外の爾前権教は全て無得道であるから捨てるべきであるとの仏説を指しています。法華経のみが成仏の法であると信じて実践する人こそ、如説修行の人です。
大聖人は、仏の教えのままに、大難を乗り越えながら法華経の肝要である南無妙法蓮華経を弘め抜かれました。
さらに大聖人は同抄で、「釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊・天台・伝教の三人は・さてをき候ぬ、末法に入っては日蓮並びに弟子檀那等是なり」(同504ページ)と、折伏行を実践している大聖人とその門下こそが末法における「如説修行の行者」であると断言されています。
現代において、大聖人の仰せのままに妙法を弘通している団体は、創価学会以外にありません。
大聖人は「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し」(同416ページ)と仰せです。創価学会員として御書に仰せの通りに仏法を実践することが、成仏への直道となるのです。

◇順縁・逆縁
友人が仏法の教えを聞いて、素直に信じ仏道に入ることを「順縁」といいます。
逆に、友人が反発する場合もあります。しかし、その場合も、仏法の教えを聞いたということは、仏法に縁したことにほかなりません。仏法に対し悪い行いをしても、それがかえって仏道に入るきっかけとなることを「逆縁」といいます。
日蓮大聖人は、次のように仰せです。
「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(御書552ページ)
「毒鼓」とは、毒薬が塗られた太鼓のことで、涅槃経には、その音を耳にした人は、たとえ聞くつもりがなくても、皆、死んでしまうと説かれています。
ここで"死ぬ"とは、「煩悩が死ぬ」ことを意味し、妙法に縁すれば、たとえ反発した人であっても、煩悩を滅して成仏に至ることを譬えています。
相手が正法を耳にすればいつかは必ず信心に目覚め、成仏することができます。ゆえに、大聖人は「強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり、是ならでは仏になる道はなきが故なり」(同ページ)と、妙法蓮華経の五字を説き聞かせる以外に「仏になる道」はないと断言されているのです。
順縁・逆縁、いずれの衆生も救うのが、南無妙法蓮華経の仏法です。大聖人の仏法は、まさに末法において万人の救済を可能とする教えなのです。

◇池田先生の指針から 難が競うのは正法である証し
仏法を語れば必ず難にあう。悪世の中で、真実を語り抜くほどの難事はありません。大聖人は、千日尼を励まされました。
「仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにくまばにくめ」(御書1308ページ)
正法を語って悪口罵詈されることは、最高の名誉である。
仏法のために、嫌な思いをした分だけ、すべて功徳に変わる。勇気をもって正義を語り抜くことこそ、「如説修行」の実践であると示されているのです。
生命は永遠であり、妙法の力用は宇宙大です。
この世の非難中傷など、あまりにも小さな波にすぎない。そう心に決めた大勇の信心が、無量無辺の大福運となって、わが生命を、一家眷属を、三世永遠の幸福と栄光で包んでいく。
これが仏法の因果の理法であります。
戸田先生も、「何があろうと、広宣流布のためには、びくともしない人間となれ!」と教えられました。(『御書と師弟』第3巻)
◇ ◆ ◇
当時、皆で学んだ「阿仏房尼御前御返事」には、次のような一節があった。
「弥信心をはげみ給うべし、仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにくまばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり」(同ページ)
私は訴えていった。
経文に照らし、御書に照らし、正法正義を叫べば、必ず迫害がある。非難、中傷のつぶてを浴びる。
それは、正義の証明なのである。ゆえに絶対に臆してはならない。
「憎むなら憎むがいい! 自分は何も恐れないぞ」と、いよいよ信心の炎を燃やすことだ! いよいよ正義を叫ぶことだ!
その人が「如説修行の人」なのである。
御本仏・蓮祖の御指南に一分の誤りもないのだ。(『池田大作全集』第132巻)

参考文献
○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第14巻(聖教新聞社)