大変な時こそ
朗らかに! 大胆に!
強気で祈り進めば
逆風すら追い風になる。
挑戦と感激のドラマを!
曾谷殿御返事 P1065
『白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ給う梵天帝釈日月四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきとつよづよとをぼしめすべし』
☆女性に贈ることば 十月十七日
どんなに絶体絶命の危機にあっても、最後の最後まで「希望はある」と信ずることだ。胸中にある希望は無限だからである。
☆今日のことば365 十月十七日
宇宙自然の運行は、複雑微妙である。しかし、ごまかしのない確たるものであることも事実である。その本質をどれだけ的確に洞察し、人間生活をより実り多きものにするか。そして、人間の歴史が営々として築きあげてきた知識の遺産のいずれが正しく、いずれが間違っているか−−その判別の作業は、困難だが重要なことではないだろうか。
☆新時代を進む 第17回 「師子王の心」で勇敢に!!
御本仏・日蓮大聖人が、「立正安国論」を認められ、民衆の安穏と世界の平和への道を示されたのは、文応元年(1260年)である。
それから満700年、第3代会長に就任した私は、直ちに関西を訪れ、そして北海道・東北・関東から九州・沖縄まで日本全国を駆け巡った。愛する同志と「立正安国」の対話の大波を起こしていったのである。
さらに10月の2日に、世界広布への一歩を踏み出した。上着の内ポケットに恩師の写真を抱いて。
3週間ほどの短期日に、3カ国9都市を回った。
一日一日が、まさに真剣勝負である。一人一人と誠心誠意、語り、励まし、仏縁を結んで、幸と平和の種を蒔いていった。
「悦しきかな汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」(御書31ページ)
我らはいよいよ勇気凜々と確信の声を響かせて、人間性薫る「蘭室の交わり」を広げていくのだ。
— ◇ —
「立正安国」のためには、正しき哲学に生き抜く賢人を忍耐強く育て、たゆまず社会に送り出し続けていかねばならない。
御聖訓には、「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり」「此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり」(同1151ページ)と明快に示されている。
毀誉褒貶の八風など、物ともしない信念の賢人は、民衆の大地にこそ立つ。
「民衆と共に」「民衆の中へ」「民衆のために」——徹して、この一点を貫き通すゆえに、我ら創価の師弟は、梵天・帝釈を揺り動かしながら、全てを勝ち越えていけるのだ。
— ◇ —
きょう(2日)、北海道・厚田の戸田記念墓地公園は開園40周年を迎える。恩師の故郷を生死不二の永遠の都にと献身くださっている方々に、感謝は尽きない。「心の財」は無量である。
開園のあいさつで私は、先生と学んだ小説『永遠の都』の一節を引いた。
「常に断崖の淵を歩いてきた人間にとって、最大の緊急事態も、いわば日常茶飯の出来事にすぎません」(ホール・ケイン著、新庄哲夫訳、潮出版社)
仏法の眼から見れば、障魔が競い起こるのは、必ず勝てるという瑞相である。
さあ、広布の長途の旅を、どんな時も朗らかに悠然と、共に励まし、共々に征こうではないか!
「師子王の心」で、勝利の決勝点へ!
☆10月度 男子部「御書活動者会」研さんのために 上野殿後家尼御返事
◇必ず勝つと決めて前進! わが地域を幸福の楽土へ
10月度の男子部「御書活動者会(御書活)」では、「上野殿後家尼御返事(地獄即寂光御書)」を研さん。日蓮大聖人の励ましの心と、「一念」を定めることの大切さを学ぶ。
◇御文
『夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ』(御書1504ページ)
◇通解
浄土といっても、地獄といっても、自分の外にあるのではない。ただ、私たちの胸の中にある。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫という。これを悟るのが法華経である。もし、そうであるなら、法華経を受持している人は、「地獄即寂光」と悟ることができるのである。
◇背景と大意
本抄は、日蓮大聖人へ御供養の品を送った上野尼御前に宛てられたお手紙である。尼御前は駿河国(現在の静岡県中央部)の門下で、南条時光の母親に当たる。
尼御前の夫・南条兵衛七郎は文永2年(1265年)3月、重い病のため、他界。本抄は文永11年(1274年)の御執筆ともいわれてきたが、内容等から、兵衛七郎が逝去したすぐ後、文永2年7月の御述作とされている。
兵衛七郎が亡くなった時、後に家督を継ぐ次男の時光は7歳。末子の五郎は、まだ尼御前の胎内にいた。
本抄で大聖人は、尼御前を温かく励まされ、法華経を受持する者は「地獄即寂光」と悟っているのであり、亡き夫は法華経の行者であり、日蓮の弟子であるのだから、地獄の苦しみを免れ、必ず成仏している、と教えられている。
尼御前は大聖人の激励を胸に、その後も、五郎の早世など度重なる苦難を、信心根本に勝ち越えていった。
◇解説
法華経以前の仏教では、苦悩に満ちた娑婆世界とは別に、仏が住む清浄な国土である「浄土(寂光土)」があるとされていた。
事実、現実世界においては、家族との死別、病気の苦しみ、仕事の問題や人間関係——誰しも何らかの苦悩を抱えている。
眼前に立ちはだかる壁を前に、他人のせいにして愚痴や不満の心に覆われ、今の苦しみから逃れたい一心で現実逃避を選ぼうとする人もいる。
こうした浄土観を転換させたのが法華経である。法華経で「十界互具」が説かれることで、「浄土」と「地獄」は人間の外にある別々の世界であるとの認識を一変させる。いわば、人間の内面にある生命境涯として展開されるのである。
日蓮大聖人は本抄で、「浄土」と「地獄」が「私たち自身の胸中にある」ことを、悟るのが「仏」であり、迷うのが「凡夫」であると示された。
つまり、妙法を持つ私たちは、たとえ地獄のような苦悩の淵にいたとしても、自行化他の題目を唱えることで、わが胸中に仏界の生命を涌現させ、今いる場所を浄土(寂光土)へと転じていくことができると仰せだ。これを「地獄即寂光」といい、この法理を悟っているのが仏である。
別の御書に「餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る」(1050ページ)とある。同じガンジス川を見ても、十界の境涯によって見える"景色"は全く違うものとなる。
悩みが尽きない凡夫でも、仏の智慧を発揮すれば、苦しみの環境さえも一変させることができる。つまり、物事をどう感じるかを決定するのは、周りの状況ではなく、自身の境涯そのものなのだ。
いかなる苦難にあっても"これこそ信心を深めるチャンスである"と快活に決意を燃やし、真正面から立ち向かっていくのが、広宣の闘士たる男子部の気概だ。広布と人生の勝利を目指し、常に"今こそ戦うべき時!"と一念を定めていきたい。
池田先生は語っている。
「大事なことは、常に前進の方向へ一念を定めることです。壁を乗り越える挑戦自体が、自身の境涯を確実に広げていく因となることは間違いありません。戦えば必ず生命は変わります」と。
さあ、広布を永遠ならしめる基盤を築く時は今である。自他共の幸福を目指し、勇気と誠実と正義の対話を広げよう! 悩める友に励ましを送ろう! そして、今いる場所を希望あふれる楽土にしていこうではないか。