◇今週のことば
我らには題目がある。
我らには師弟がある。
我らには団結がある。
「異体同心」の宝友と
いざや前進! 恐れなく
2017年10月2日
撰時抄 P265
『教主釈尊記して云く末代悪世に法華経を弘通するものを悪口罵詈等せん人は我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべしととかせ給へり』
☆女性に贈ることば 十月二日
新たな歴史は一人の挑戦から始まる。偉大な勝利は一人の戦いから始まる。
状況を嘆いたり、人任せにしてばかりいては、何も変わらない。自分が変われば、その分、世界が変わる。
☆今日のことば365 十月二日
悠久の大宇宙のなかに生きる自己の無限の可能性を確信して、たゆまず自己を開発していく。それこそ、人間の存在を無限に開く、最も意義ある人生といえましょう。
☆希望航路 池田先生と進む人生旅 オーストリア1 2017年9月18日
◇必ず幸福に! 仏法に犠牲はない
池田先生はこれまで、オーストリアを3度(1961年10月、81年5月、92年6月)訪問している。この激励行を原点として、同国のSGIメンバーは、どのように広宣流布を進めてきたのだろうか。その師弟のストーリーをひもとく。
20年ぶり2度目の訪問だった。81年5月25日、池田先生はブルガリアをたち、オーストリアの首都ウィーンに降り立った。
この時、同国SGIのメンバー数は、わずか17人。この訪問から広布拡大の上げ潮が起こるのである。
翌26日、先生は、ウィーン近郊で、英国オックスフォード大学のブライアン・ウィルソン教授と会談した後、SGIの懇談会に出席。オーストリア広布の未来を見据え、指針を贈った。
「仏法の信仰者は、生命の尊厳をもととして、文化、平和を徹底的に愛し、行動していっていただきたい。そして、勤行・唱題が一切の源泉となることを忘れてはならない。自分を大切に、家庭を大切に、良き市民として世界に貢献してもらいたい」
「オーストリアは、少人数の精鋭主義で、一人一人が身体的、精神的、社会的にも立派な輝く実証を示しゆくことが大切である。絶対に焦ってはならない。少人数で、長い将来の基盤を確実に築きゆく10年、20年であっていただきたい」
そして先生は、「きょうは、ここに世界一小さな本部を結成しよう」と提案。「まずは、良い人50人を目指そう」との具体的な指標も示した。
この席上、フルートの二重奏でオーストリア民謡を披露した夫妻がいる。キヨシ・ツクイさん(副理事長)と妻のエリカさん(ウィーン西本部総合婦人部長)である。
14歳でフルートを始めたキヨシさん。中学時代は学会の音楽隊で青春の汗を流した。
高等部の時、池田先生の「青年は世界を目指せ」との言葉を胸に刻み、音楽の都ウィーンに渡ったのは、74年のことである。
3年後、チェコ・プラハの国際コンクールで、同門だったエリカさんと出会い、79年に結婚。夫妻で広布草創の道を駆けた。
夫妻が奏でる麗しい音色を聴いた先生は、ウィーンの絵はがきにペンを走らせた。
「忘れまじ 二人のフルート 幸あれと」
さらに、先生は夫妻の熱演をたたえ、握手を交わした。夫妻の感激はひとしおだった。
終了後、キヨシさんは先生に、「オーストリアの国籍を取ろうと思います」と、かねてから抱いていた決意を報告した。
うなずいた先生は、「生涯、オーストリア広布に生き抜くんだよ」と励ました。
だが、キヨシさんには心配なこともあった。日本で暮らす家族のこと。すでに父は他界し、妹が母の面倒を見ていた。
「家族の将来をどう考えればよいでしょうか」と尋ねたキヨシさんに、間髪入れず、先生の力強い声が返ってきた。
「仏法には犠牲はないよ。私がいるじゃないか。創価学会があるじゃないか。お母さんは絶対に幸せになれる。心配ないよ」
そして、"日本に戻ったら、お母さまに必ずお会いするよ"と約束した。翌々月、先生は創価学園の栄光祭に、キヨシさんの母と妹を招待し、真心の励ましを送っている。
ツクイさん夫妻は、信心で多くの苦難を乗り越えた。難産の末、未熟児で誕生した双子も後継の道を歩む。
長女のサチエさんはウィーン経済大学で修士号を取得し、世界的な技術監査協会に勤務。SGIでは、ウィーン西本部で女子部本部長を務めている。
長男のヒロシさんは、創価大学文学部を卒業し、グラフィックデザイナーとして大手企業で働く。ウィーン北本部の男子部本部長として、友の激励に力を注ぐ日々だ。
キヨシさんは18年にわたり、オーストリアSGIの書記長を。
音楽家として、ミュルツツーシュラーク市立ヨハネス・ブラームス音楽学校の副校長を長年務め、東京でのコンサートを通じた両国の文化交流にも貢献を果たしてきた。
81年5月27日、先生はウィーン市内で、各界の名士と会見した。
オーストリア文部省ではフレド・ジノワツ副首相と、ウィーン国立歌劇場ではエーゴン・ゼーフェルナー総監督と会談。話題の中心は、80年秋に民音が招へいした同歌劇場の日本公演。両者から高い評価が寄せられた。
また、61年の初訪問時に宿泊したホテルの支配人・オスターダール氏やベートーベン博物館の管理人であるドボルジャック氏と懇談し、友情を育んでいる。
その間隙を縫い、先生は、同国SGIの初代本部長に就任したヨシオ・ナカムラさんのアパートを訪ねた。
先生は「皆で勤行しても大丈夫? お隣の迷惑にならないかな」と尋ね、了承を得ると、居合わせたメンバーと勤行・唱題した。
前日の本部結成の場で地区担当員(現在の地区婦人部長)の任命を受けたアヤコ・ナカムラさん(副総合婦人部長)はこの時、アパートに隣接するベルヴェデーレ宮殿の広場で、未来っ子たちのお守りをしていた。
「先生との勤行に参加できないことは残念でしたが、これも広布の重要な役目だと、遊んでいる子どもたちがけがをしないように、見守っていました」
数十分後、役目を交代してアパートに戻ったアヤコさんを、先生は温かく迎え、「子どもたちの面倒を見てくれてありがとう」とオレンジジュースを手渡してくれた。「その先生のぬくもりは、今も忘れられません」
新潟で生まれ育ったアヤコさん。夫の音楽留学を機に、オーストリアに渡り、78年7月に入会した。
移住した当初は、ドイツ語ができず、生活に不安を抱えていた。また、体質の関係で、医師から「自然妊娠はできない」と言われ、悩んでいた。
体調の優れない中、家計を支えるためにベビーシッターの仕事をし、片言のドイツ語で折伏にも挑んだ。
仏縁を広げたが、弘教はなかなか実らなかった。そうした苦悩の中での81年5月の先生の訪問だった。
26日の懇談会にも出席したアヤコさん。先生は握手し、「頑張るんだよ」と声を掛けてくれた。この時、先生は語っている。
「仏法に巡り合うということが、どれほどまれなことか。皆さんは、その喜びと誇りを持ってもらいたい」
アヤコさんは「確信に満ちた先生の声の響きに圧倒されました。仏法に出合えた感謝と、宿命転換しようという勇気が湧いたんです」と振り返る。
学会活動と弘教に挑み抜き、翌82年12月、アヤコさんは"不可能"といわれた自然妊娠で、待望の第1子を出産した。今、先生の激励行の記憶を青年部に語り継いでいる。
81年の先生の訪問を原点として、オーストリア広布は、着実な伸展を続けてきた。
そして、11年後の92年6月、先生の3度目の訪問を、幸福と勝利の実証をもって迎えるのである。
☆希望航路 池田先生と進む人生旅 オーストリア2 2017年9月21日
◇共に師弟栄光の劇を!
オーストリア広布の拡大の転機は、1981年5月の池田先生の激励行である。次の訪問(92年)までの11年間に入会した友は今、広布の中核を担う。
86年に御本尊を受持したラリー・ウィリアムス理事長も、83年に入会したヴァレリー・ルボー婦人部長も、そうしたメンバーだ。
また、日本とオーストリアの文化・教育交流が進み、SGIへの理解が広がった。
90年7月には、創価大学とクラーゲンフルト大学との間に、交流協定が結ばれている。翌91年6月、オーストリア芸術家協会は先生の写真芸術の業績を高く評価し、「在外会員」の証書を授与。92年には「自然との対話——池田大作写真展」が、オーストリア文部省の後援のもと、同協会と東京富士美術館の共催で開かれている。
理事長のウィリアムスさんは、プロの写真家である。26歳の時、ウィーンの中心にスタジオを構えた。彼の広告写真は街路を飾り、全国に名をはせる。
だが、多忙を極め、体が悲鳴を上げた。28歳で肝臓病を患い、生命の危機にひんする。
重篤患者ばかりの病棟で毎日のように人の臨終に接し、"地位や名声を得ても、生老病死の苦しみからは逃れられない"と思った。
退院後、仕事を共にした新聞記者から仏法の話を聴く。85年秋、誘われて行ったのは、ベルヴェデーレ宮殿の傍らにあるアパート。4年前に先生ご夫妻が訪問し、オーストリア広布の発展を祈った、ナカムラ初代本部長の自宅だった。
「世界広布を願う先生の題目に導かれ、地涌の使命を自覚しました」と、ウィリアムスさんは言う。
翌年、30歳で入会。日本でのSGI研修会に参加し、先生との出会いを重ねた。
男子部のリーダーとして広布をけん引し、第2次宗門事件の時も、正義の言論で同志を守った。
92年6月10日、ウィーン市立公園で、先生ご夫妻、同志と共に記念撮影を行った。
終了後、先生はドイツ訪問のため、車でウィーンの空港へ。駐車場から出る際、車道で交通整理をしていたのが、ウィリアムスさんだった。
先生は、車の窓を開け、右手を胸に当ててお辞儀をし、感謝の心を示した。
"陰の人"を忘れない。真心には真心で応える。その時の先生の温かなまなざしが、ウィリアムスさんの胸を離れない。
ルボー婦人部長は、フランス・マルセイユの出身。57歳でアルツハイマー病を発症した母を救いたいと、83年に入会した。闘病をわが事のように捉え、祈り、支えてくれたメンバーの真心に感激し、不退の信心を誓う。
パリの大学を卒業した後、高校の非常勤講師として、英語とフランス語を教える。87年にオーストリアに移住し、国連職員になってからも広布の最前線を走り続けた。
オーストリアSGIの初代女子部長に就任し、91年6月、南仏トレッツの欧州研修道場で、先生から声を掛けられた。
「あなたのことは知っているよ。妻と一緒に聖教新聞で見たよ。女子部長だね」
女子部長就任の際に掲載された聖教新聞の小さな記事を、覚えていてくれたのだ。感激がこみ上げた。
彼女には、忘れられない記憶がある。ウィーン市立公園での記念撮影の折、地道な信心を貫いてきた老紳士の前で、先生は立ち止まり、深々と頭を下げた。撮影が終わった後、普段は寡黙な老紳士が、感動の面持ちで語った。
「今まで、私に、あそこまで丁重に感謝を表し、関心を寄せてくれた人はいませんでした。先生の真心に涙の出る思いでした」
「励まし」とは、目の前の相手を尊重し、感謝の心を表すことから始まる。先生の姿にそう教わった。
ルボーさんは、国連職員の要職を担いながら2人の子を育て、家庭を守ってきた。
夫のウィリアムス理事長と共に、広布拡大に尽力。長男のシンイチさん、長女のヒロミさんは英国の大学に在籍し、後継の人材に成長している。
多忙な日々にも、ルボーさんは、メンバーの激励を欠かさない。
女子部時代は、朝、出勤前に女子部員宅を訪問。メンバーと一緒に勤行・唱題し、同志と共に一日のスタートを切った。7年前に婦人部長に就任してからも訪問激励に徹し、心の絆を大切にする。
青年部は、そんなルボーさんを"母""姉"のように慕い、信心を学んでいる。
ルイーゼ・シミズさん(副総合婦人部長)は欧州副女性部長を兼任し、主に東欧諸国を回りながら、同志の激励に奔走している。
シミズさんは、神奈川・鎌倉で生まれた。戸田先生の願業「75万世帯」への拡大の中、1955年5月、母・兄と共に入会。当時は父の酒乱に悩み、御本尊に向かう母の背中に信心を学んだ。
父の仕事の関係で縁したドイツへの留学を志し、74年、ヴュルツブルクの大学へ。修士号を取得した。
日本の交流団の通訳を担当した際、婦人部の友から、当時本紙に連載されていた小説『人間革命』第10巻の切り抜きをもらった。
描かれていたのは、「大阪の戦い」。一心に師匠を求め、報恩を貫く山本伸一青年の姿に胸を熱くした。
81年、ドイツを訪問した先生は、運営役員だったシミズさんに、「ありがとう」と。
「その凜々しく誠実な姿は、私が思い描いていた山本伸一青年の姿そのものでした」
その後、彼女はドイツ語のSGI公認通訳として、先生と識者との会見に同席。83年6月には、ライン川の船上で行われた先生とドイツの哲学者ヨーゼフ・デルボラフ博士との会見で通訳を務めた。
その際、先生から父のことを聞かれ、「いい娘になるんだよ」と声を掛けられた。
また後年には、博士との対談集『21世紀への人間と哲学』に「思い出の 対話の一書 わが君に」と記し、贈ってくれた。
師の指針を胸に、父の幸せを真剣に祈った結果、信心に反対していた父が、自らすすんで先生の著作をひもとくように。教学試験に挑み、同志と家庭訪問に歩くようになり、大好きだった酒も飲まなくなった。師の激励に応え、一家和楽の信心を築いたのだ。
シミズさんは今、オーストリアSGIの書記長を務める夫のヒロユキさんと広布の道を歩む。2人の娘も信心を継承し、長女のタカコさんは婦人部グループ長、次女のヒロコさんも女子部員として、希望の人生を開いている。
92年6月11日、ドイツ・フランクフルト市内でヨーロッパ代表者会議が開催された。
席上、先生は、前日に行われたウィーン市立公園での記念撮影で、オーストリアの同志に会えた喜びを語っている。出会いの場所に立っていたのは、ワルツ王とたたえられたヨハン・シュトラウス2世の像。先生はワルツの歴史に触れつつ、こう述べている。
「ワルツは"市民の音楽"である。貴族文化に対して、新しく下から盛り上がっていった新興の市民層の感情を表現している。私ども、妙法で結ばれた世界市民も、軽快に、そして楽しく——ワルツを踊るような気持ちで、ともどもに広宣流布の旅を勝利してまいりたい」
偉大な師の境涯に触れれば、試練に立ち向かう勇気が湧く。師と共に戦う喜びは、いかなる苦難をも使命に転じていけるのだ。
"広宣流布は、ワルツのように"——先生の指針に呼応し、広布の舞台に立つオーストリアの友は、師弟栄光の劇を舞いゆく。