「団結」は無敵の力だ!
日々 奮闘する同志に
最大の励ましを!
感謝と尊敬の心に
前進の勢いは加速する!
十法界明因果抄 P435
『二乗は此等の報恩皆欠けたり故に一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり』
☆女性に贈ることば 十月十二日
何があっても、「私は太陽なんだ!」と悠然と生きることだ。
もちろん、曇りの日もある。しかし、曇っていても、太陽はその厚い雲の上で変わらずに輝いている。苦しい時も、心の輝きを失ってはならない。
☆今日のことば365 十月十二日
人間に心情を語ることにかけては、音楽ほど真正直なものはないだろう。嘘をつこうにも嘘のつきようはない。言語もいらない。論理を追う必要もない。理解しようなどと身がまえる愚かさを、さらさら必要としない。耳を澄ましていれば、わが心のなかの楽器は自然と共鳴するのだ。
☆御書と歩む 第85回 臨終只今の悔いなき日々を
『相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ』(生死一大事血脈抄、1338ページ)
◇通解
強く心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念しなさい。生死一大事の血脈をこれよりほかに決して求めてはならない。
◇同志への指針
戸田先生にお仕えし、戦う日々、心肝に染めた御聖訓である。今この時を、弟子として「臨終正念」「臨終只今」の決意で、悔いなく生き切るのだ、と。
眼前の戦いに、題目を唱えて挑む中にこそ、仏の智慧と力が流れ通うのである。
今日の課題は何か。張りのある勤行で明確に祈り、生命力を漲らせて、一日一日を勝ち切っていくことだ。
☆誓いの天地 三重・津市 2017年10月3日
◇青年に脈打つ「不屈の心」 空飛ぶ者の王・鷲のごとく
古くは安濃津と呼ばれた三重県の津市。「津」は「港」を意味し、鹿児島県南さつま市の坊津、福岡市の花旭塔津と並んで、「日本三津」の一つだった。
伊勢平野の中心に位置し、東は伊勢湾に面した港町、西は奈良県境まで山々がそびえる。海と山に囲まれた自然豊かな街だ。
天むす発祥の地。うなぎ屋が多くあり、津ギョーザも人気を集める。
平安時代の清少納言が『枕草子』につづった「ななくりの湯」は、市内の榊原温泉だといわれる。
松田綾香さん(中勢常楽圏、女子部部長)は、老舗の温泉旅館でフロント業務を担当する。
旅館は明後年、創業100周年を迎える。「お客さまの視点に立ち、"最高のおもてなしを"との心で仕事に取り組んでいます」
高校卒業後から働き始めた。最初は、予約を受けた際、客の要望を周囲に伝え忘れるなど、さまざまな失敗も経験。そのたびに、"最高の接客を"と祈り、決意新たに仕事に臨んだ。
勤務時間が不規則な中、学会活動にも全力を注いできた。3期にわたって白蓮グループで薫陶を受け、弘教も実らせた。
中学生の時、両親が離婚。複雑な感情を抱いていた中で、地域の学会員から何度も励ましが。創価家族の温かさを深く知った。
2年前、女子部部長の任命を受け、愛する地域を駆ける日々だ。
「旅館の発展は地域の繁栄にもつながります。これからも、信心根本に仕事に励んでいきます」
◇
安藤恭典さん(中勢常楽圏、男子地区リーダー)は3歳の時、中耳炎が原因で聴覚のほとんどを失った。
"みんなと一緒に勉強がしたい"と、普通小学校で学んだ。しかし、中学生の時、いじめに遭い、心を閉ざすように。
ろう学校の高等部に進学したが、よそ者扱いされた。その時、学校の先輩からアドバイスを受け、手話を習得。そこから、周囲に溶け込めるようになった。
同校を卒業後、介護施設に就職。そこで、学会員と知り合った。
素直に勤行の実践を開始。しばらくすると、周囲から「雰囲気が変わったね」と言われるように。最初は信心に反対だった両親も、息子が変わる姿に入会を認め、2006年(平成18年)4月、晴れて御本尊を受持した。
学会活動に励みながら、地域活動にも率先してきた。現在、手話サークルの講師を務める。また、県聴覚障害者協会にも所属し、さまざまな活動に携わる。
昨年、9回目の挑戦で、介護福祉士の資格を取得。職場では、"利用者の方々に喜んでもらいたい"と心を砕き、信頼を広げる。
かつては、いじめの原因となった聴覚障がいを、心から憎んだ。しかし、今、"障がいがあるからこそ、使命に生きる人生を歩むことができる"と実感する。
不屈の心で進む安藤さんの確信——それは、「冬は必ず春となる」(御書1253ページ)の御聖訓である。
◇栄光の共戦譜
10月を迎えると、三重の友の「不屈の心」は、一段と燃え上がる。
池田先生が三重を初めて訪れたのは、1959年(昭和34年)10月5日。「伊勢湾台風」の猛威が東海地方を襲った直後である。
先生は、被災した友を抱きかかえるように激励。「大悪をこれば大善きたる」(御書1300ページ)の御聖訓を拝し、必ず変毒為薬ができると訴えた。この励ましを胸に、友は勝利の実証を示していったのである。
74年(同49年)10月6日には、三重県体育館(当時)で開催された第1回「三重県総会」に出席した。
先生は、障魔に打ち勝つ信心の重要性を強調。"一人一人の尊い人生にあって、自分自身の人間革命の軌跡を立派に勝ち取っていただきたい"と望んだ。
この日は「三重の日」。友は今、立正安国の対話に勇んで打って出ている。
◇
20回を数える三重訪問の中でも、白山町にある三重研修道場では、数々の「師弟の原点」が刻まれてきた。
76年(同51年)7月23日、発表間もない「人間革命の歌」を師と共に熱唱。78年(同53年)4月23日の「三重文化合唱祭」では、師への誓いを込め、「威風堂々の歌」「今日も元気で」などを、高らかに歌い上げた。
合唱祭の翌日、舟見悦子さん(中勢本陣圏、婦人部副本部長)は、津文化会館(当時、三重文化会館)を訪問した師と、初めての出会いを結んだ。
館内にいた同志に、先生は声を掛け、「記念写真を撮ろう」と。撮影のために並ぶと、舟見さんの前に立ったのが、先生だった。
撮影が終わると、舟見さんは無我夢中で、「近くでパン屋をしています。お立ち寄りください」。先生は笑顔で「分かりました」と。
その日の夜、舟見さんは会合に参加するため、同会館にいた。すると、「すぐ、お店に戻ってきて」との連絡が。急いで店に向かうと、師の姿があった。
先生は、心臓が悪かった舟見さんの母・すゞさん(故人)の体調を気遣いつつ、「題目を唱え、いつまでも健康でね」と激励。舟見さんには、「学会から離れてはいけないよ」と優しく語った。
店には次々と地域の学会員が来た。その方々にも、先生は励ましを送った。
「わざわざ店に足を運んでくださり、信心を打ち込んでくださったことへの感謝は、忘れることなどできません」
以来、師への報恩の道を歩んできた。39年を経た今も、その誓いは赤々と燃える。今年2月には、弘教を実らせた。
舟見さんは語る。「生涯、広布に戦い抜く人生を貫いていきます」
◇
師弟共戦の歌声が轟いた「三重文化合唱祭」から8カ月後の78年12月1日、先生は名張市を訪問。翌2日には、津市内の功労者宅を訪れている。
3日、三重研修道場の周辺で懇談会が行われた。同道場の整備などに携わった前出高男さん(中勢常楽圏、堅塁長〈ブロック長〉)は連絡を受け、駆け付けた。
先生は、前出さんに「地域から信頼される人に」と。その場にいた別のメンバーにも、「広宣流布は足元からだよ」と語った。
"宝の原点"を胸に、前出さんは、地域に尽くしてきた。スポーツ少年団の監督を約30年務め、現在は、青少年健全育成の活動に携わる。さらに、地域の体育協会、老人会でも活躍。周囲の信頼は厚い。
2011年(平成23年)、妻・トモ子さんが安らかに霊山へ。前出さんは力を込める。
「最後の最後まで、広布に走り抜いた妻の分まで戦い、必ず人生を勝利していきます」
◇
1978年の三重訪問は、悪侶と退転・反逆者らが、師弟を離間させる謀略を巡らせていた渦中だった。その障魔の嵐を勝ち越え、82年(昭和57年)5月6日、友は4年ぶりに師を三重研修道場に迎えた。
翌7日、先生は三重県代表者会議に出席した後、桑本アヤ子さん(中勢常楽圏、婦人部員)が営む「レストラン白山」に、三重のリーダーと向かった。
先生は桑本さんに声を掛け、家族や店のことなどを尋ねた。桑本さんは、73年(同48年)にレストランをオープン。その4年後に、夫が亡くなった。
そのことを聞いた先生は、「立派なお店をつくられて。素晴らしいご主人でしたね」と。
桑本さんは、「未入会の夫のことまでたたえてくださった真心に感動しました」と振り返る。
翌8日、さらには9日にも、先生は桑本さんに励ましを。2人の子どもにも声を掛けた。
現在、レストランは次男の正行さん(同、地区部長)が継ぐ。正行さんは創価大学を卒業後、調理師免許を取得。35年前の師との出会いを誇りとして、地域から愛されるレストランを目指し、奮闘を重ねる。
2年前、桑本さんは脳梗塞を発症。さらに、失語症にもなったが、懸命なリハビリを続け、話せるまでに回復した。
母子は口をそろえる。「師恩を胸に、地域に幸福の連帯を広げていきます」
——三重県の地形は、「翼を広げた鷲」の姿に似ているといわれる。このことを通して、池田先生は三重の友に呼び掛けた。
「空飛ぶ者の王・鷲のごとく、大空に向かって勇壮なる飛翔を共々にしてゆこうではないか!」
鳥や飛行機と同様、広布の戦いにおいても、「向かい風」の時こそ、飛翔の好機——この勝利の要諦を知る三重の友が、新たな広布の暁鐘を打ち鳴らす。