御聖訓「命限り有り
惜む可からず」
二度と来ない今を
悔いなく戦い切ろう!
自身の壁を破る歴史を!
日興遺誡置文 P1618
『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』
☆女性に贈ることば 十月八日
子どもには、思い出をたくさんつくってあげることです。
子どもたちのために、私は手品をすることもあるし、ピアノを弾くこともある。すべて、なんらかの思い出をつくってあげたいとの気持ちなのです。
幼き日のよき思い出は、一生を支える力となるからです。
☆今日のことば365 十月八日
今日の問題は、何か
今日の一日の使命を果たすことだ
今日の使命とは 何ぞ
自己の境遇にて戦うことなり
その戦いとは 如何
自己を発揮し 全力を尽くして進むことだ
☆希望航路 池田先生と進む人生旅 オーストリア3
◇試練を越えて勝利の行進
オーストリア文部省「賓客の間」にホルンの典雅な音色が響く。
同国が生んだ天才作曲家・モーツァルトの「ディベルティメント」第8番第1楽章。池田先生の「オーストリア科学・芸術名誉十字章勲一等」授章を祝賀し、同省所属のホルン五重奏団が奏でた。
1992年6月10日、先生の文化交流の貢献などをたたえ、文部大臣から叙勲された国家勲章である。
先生は謝辞の中で、日本政府が初めて公式参加したウィーン万国博覧会(1873年)に言及。"先師・牧口初代会長は、貴国とわが国との美しい友情の序曲が、まさに奏でられようとしていたころ(1871年)に誕生されました"と述べつつ、オーストリアと日本の友好にかける決意をこう語った。
「縁深き貴国の尊敬する皆さま方とご一緒に、私は滔々たるドナウの流れのごとく、人間と人間、心と心とを結ぶ精神の大河を、はるかな未来へと開いてまいりたい」
この日、先生は和歌を詠んでいる。
妙法を
唱え 唱えて
三世まで
和楽と幸福
墺国同志は
※「墺国」とは、オーストリアの意。
この叙勲式には、オーストリアを代表する名女優、エリザベート・アウグスティンさん(副総合婦人部長)が列席していた。
彼女が印象深く覚えている場面の一つは、当時、同国の文部次官だったユッタ・ウンカルト=サイフェルト氏の祝辞である。
「サイフェルト氏の先生への賛嘆の言葉は非常に情熱的でした。普段、こうした式典はクールな(落ち着いた)雰囲気で行われますが、先生の叙勲式は、笑顔があふれる心温まる式典でした」
アウグスティンさんは、23歳の時、ドイツ語圏最高峰と称されるブルク劇場の専属俳優になる。シェークスピア「真夏の夜の夢」のヘレナ役、映画「マリア・テレジア」の主演など数々の名作で脚光を浴びた。
誰もが憧れる順風満帆な役者人生に見えるが、胸奥では「本当の幸福」を求め、煩悶を続けていた。成功や名声を得ることは一時の幸福に過ぎない。本当の幸せとは一体どこにあるのか——と。
確固たる人生哲学を求め、彼女は1986年、友人の勧めで御本尊を受持した。後に大統領から"宮廷俳優"の称号を受ける夫をはじめ、友人に弘教を実らせていった。
6年後、先生の国家勲章の叙勲式に夫と共に列席。先生ご夫妻との出会いを結んだ。
「ご活躍は、よく伺っています。国立劇場の名優にお会いできて光栄です」と握手をしてくれた先生は、こう言葉を継いだ。
「素晴らしい女優になるためには、まず、一人の人間として立派であり、偉大でなければなりません」
その言葉に、はっとした。心の闇に光が差すように感じた。
彼女は言う。「人間として偉大になるには、自分の弱さと向き合い、戦い続けなければならない。自行化他の実践に励み、弱さを克服していく中に幸福への直道があると、先生に教えていただきました」
別れ際、先生はユーモアを込め、「次に会う時は、あなたのサインをください」と。
恐縮したアウグスティンさんが「私の方こそ先生のサインがほしいです」と応えると、笑顔が広がった。
この日の原点を胸に刻み、夫の心臓病など幾多の試練を勝ち越えた。また、3人の子を育てながら、仕事でも実証を示してきた。
今もなお、女優兼監督としてブルク劇場の舞台に立つ傍ら、大学で後進の教育、演技指導に当たっている。
同国SGIでは、広報担当を務め、多くの学識者らと友誼を深めている。
本年6月、先生の叙勲25周年を記念する座談会がオーストリア各地で開かれ、彼女の自宅でも開催された。
「来賓であるサイフェルト氏と共に、私が仏法対話を進める3人の友人も出席してくれました。SGIへの深い友情を語る氏の姿に触れ、友人は感激していました」
アウグスティンさんにとって25年前の叙勲式は、師弟の絆を結び、サイフェルト氏との友情の契機となった「人生の原点」である。
同国SGIの書記長を務めるヒロユキ・シミズさんは、東京・小平市の出身。62年、病弱に悩む母と共に、10歳で入会した。
6年後の68年8月8日に行われた「第1回高等部総会」での先生の「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びる」「語学を学びなさい」との言葉に、自身の使命を見いだし、海外への挑戦を志した。
東京の国立大学でドイツ語を専攻し、78年にミュンヘン大学に留学。卒業後、デュッセルドルフの日系貿易商社に就職したが、上司との人間関係に悩み、転職を考えていた。
その折、フランクフルトを訪問した先生との出会いが。運営役員だったシミズさんに、先生は職場のことを尋ね、「いい会社だね。20年頑張りなさい」と声を掛けてくれた。
そして、そばにあった扇子に筆を走らせ、シミズさんに贈った。
「忘れまじ 君が育つを 待つ日々と 五月十九日 ドイツにて 清水君 大作」
シミズさんは述懐する。「退職しようとしていたことを見抜かれたのだと思います。先生の言葉に奮起し、職場で信頼を得ようと懸命に働きました」
努力が実り、シミズさんは管理職として次々に昇進を果たす。
そして、92年に先生がオーストリアを訪問した際は、運営役員として同行した。
「振り返れば、この時、オーストリア広布との縁が結ばれたのだと思います」
98年、部長職でオーストリアへ転勤に。2004年に独立・起業し、現在は日本とオーストリアの技術協力や貿易を軸とした投資・代理業務などを幅広く展開している。
師との約束を胸に、社会に貢献し、広布の最前線でも活躍を続ける中で、家族の宿命転換を果たした。
入会当時、体の弱かった母は見違えるように健康になり、2度のがんを乗り越えた。全ての苦難を題目根本に乗り越えた母の姿に、本物の信心を教わった。
長年、信心に猛反対だった父も晩年は学会への理解を深め、オーストリア広布に励むシミズさんの背中を押してくれるように。父は今年3月、母は今年7月、地域の同志の方々の祈りに包まれ、共に91歳で、眠るように霊山に旅立った。
傍らには、二人三脚で広布の道を歩む妻のルイーゼさん(副総合婦人部長)がいる。
結婚の際(83年)、フランクフルトに滞在していた先生に報告すると、一緒に勤行・唱題をしてくれた。「頼むよ」との先生の力強い声が耳を離れない。
シミズさんは今、縁する全ての人に「感謝の唱題」を送りながら、師から託され、師に誓った「オーストリア広布」という誉れの使命に生きる。
楽聖・ベートーベンが人生の大半を過ごしたオーストリア。先生は彼の楽曲を若き日から愛聴してきた。
聴力を失うなど、幾多の試練にも、ベートーベンは屈しなかった。鋼のような"生命のバネ"で苦難を跳ね返し、不滅の名作群を残していった。代表作の多くは、難聴になった20代後半以後に作られたものである。
苦悩と闘い抜き、栄光の凱歌を奏でた音楽家の生涯を偲び、先生はつづっている。
「死後もなお、彼の音楽は、世界の民衆の心を感動で征服しつつ、勝利、勝利の行進を続けている。『一人の人間における人間革命の波動は、これほど世界を変えるのだ。よし! 彼は音楽で、我は我の道で!』。〈我が青春の誓い〉と永遠に結ばれた街。それがウィーンなのである」
安逸をむさぼる人生に幸福はない。眼前に立つ試練の壁に雄々しく挑みゆく中に、充実の時は輝くのだ。
広布の誓願が刻まれたオーストリアの天地で対話に走る同志は、師の心を継ぎ、偉大なる人間革命の哲理を社会に広げている。