「願くは我が弟子等・
大願ををこせ」御聖訓。
誓いの道を真っすぐに
「私は勝った」と
言い切れる一日一日を!
生死一大事血脈抄 P1338
『過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ』
☆女性に贈ることば 十月六日
誰か一人でもいい、信頼して何でも話せるよき相談相手をもつことが大切だ。客観的に見てくれて、自分のことを思ってくれる人のアドバイスに耳を傾けたほうが賢明である。
☆今日のことば365 十月六日
人を見る訓練というものは、長い人生の間に、ある程度は自然にできてゆくものかもしれない。裏切られたり、足をさらわれたり、ひどいめにあって、人を見る目も肥えていくが、このような小説を深く読んで、人物に対する目を開くことば大いに役立つものだ。
☆御書と歩む 第84回 生命尊厳の社会を築け!
『仏法渡って今に七百余年前代未聞の大法此の国に流布して月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ』(教行証御書、1283ページ)
◇通解
日本に仏法が渡ってから今、七百余年になる。前代未聞の大法が、この国に流布して、インド・中国をはじめ、一閻浮提の一切衆生が仏に成ることができるとは、なんとありがたいことではないか。
◇同志への指針
大聖人の「立正安国」の大闘争から七百五十余年。一切衆生の幸福と平和という大願を受け継いで、今、世界中で地涌の友が立ち上がっている。一閻浮提広宣流布の「天の時」が来た。
乱世を照らす立正安国の哲学を、人類が渇仰している。我らは一歩も退かない。一人一人と確信の対話を広げ、民衆の笑顔が光る生命尊厳の社会を築きゆこう!
☆地域を歩く 東京都大田区 2017年9月27日
◇わが使命の故郷に尽くす
多摩川の土手に立つ。東の空に1機、また1機——数分おきに、飛行機が飛び立っていく。行き先は、北か南か、はたまた世界の国々か。機体は吸い込まれるように、空の彼方へ消えていく。
日本の"空の玄関口"といわれる、東京・大田区の羽田空港(東京国際空港)。1960年(昭和35年)10月2日、池田先生はここからアメリカ・ハワイへ、初の海外訪問に旅立ち、世界広布の第一歩をしるした。この日は、創価学会の「世界平和の日」となっている。
羽田平和会館のロビーには、57年前のその日、池田先生を見送る人々の様子を写した写真が飾られている。タラップを上り、飛行機に乗り込む先生。デッキでは多くの人が手を振っている。
撮影したのは飛田菊雄さん(故人)。この日の早朝に池田先生の出発を知り、妻の芳子さん(故人)と駆け付けた。
長女の宣子さん(地区副婦人部長)は語る。
「母はよく、10月2日が近づくと、写真を広げて眺めていました。生後半年だった私を抱いて向かったこと、午前9時には見送る人でいっぱいだったことなど、懐かしそうに教えてくれました」
そんな両親に育てられ、わが故郷と世界とのつながりを、おのずと意識するようになった。
今は、"世界広布も身近なところから始まる"との思いで、海外からの友人にも、学会の書籍を渡して対話を広げる。
地球を包む仏法の広がりに思いをはせながら、故郷の発展に尽くす——大田には、そんな同志の姿がある。
◇今いる場所から世界広布を進める
羽田の地域には、空港で働く人も多い。
女子部の岡�栄子さん(副本部長兼部長)は、国際線の客室乗務員として、月の半分以上を国外で過ごす。時差もある。気候の違いもある。「地元に帰ってメンバーに会うことが、私にとって一番の、心の活力になっています」
"時間が限られるからこそ、自由な時間をメンバーのために使いたい"と、訪問激励を大切にしている。海外の宿泊先でも、乗客の安全とともに、地元の女子部員のことを思い浮かべては題目を送る。
機内での一期一会の関わりにも、地元の友とのつながりにも、同じく真心を尽くせる自分でありたいと思っている。
空港から川を挟んだ向かいの、"羽田"と名が付く地域には、町工場や零細企業が並ぶ。
下田秀之さん(総区男子部副書記長)は昨年4月から、羽田平和会館の裏手に位置する父の会社を手伝う。そこでは再資源化されたプラスチックを、中国や東南アジアに向けて輸出している。
下田さんは以前、大手プラスチックメーカーに勤務していた。いつか父の後を継ぐことも考えて、同じ業界を選んだ。しかし父からは「お前は外で働く方がいい」と、常々言われた。
小さな会社は、社会のわずかな変化にさえも、大きな打撃を受けかねない。「父は、そうした自営業の厳しさを身に染みて知るからこそ、あえて私には、別の道を歩ませようとしたのだと思います」
同じように自営業で働く壮年部や男子部が周囲にいたことが心強かった。先輩たちは何でも相談に乗ってくれた。
何よりも母の「信心があれば、大丈夫」との確信が、背中を押した。
池田先生が幼少期を過ごした羽田。会館には、「故郷城」の碑が立つ。その地で、父と同じ苦労をしようと、下田さんは決めた。
「父からは、『信心も仕事も、基本が大切だ。基本を積み重ねる以外に何もできない』とよく言われました。早く一人前になって、両親を安心させたい」
羽田は昔、漁師町だった。今も、海老取川や多摩川には漁船が浮かぶ。漁師をなりわいにする人は減ったが、昔も今も週末には、釣り竿を担いだ人々が海や川へ繰り出していく。
町工場に勤める伊東重雄さん(副本部長)も昔は、釣り船を持っていた。職場の同僚や友人を誘っては船に乗った。
「船の上だと何でも話せるんです(笑い)。学会の話をすると、友人たちが『それなら、聖教新聞を読んでみるよ』って言ってくれたもんです」
釣りがきっかけで、町会長とも仲良くなり、町会の役員を頼まれるようになった。
「昔は、学会と地域の間に"見えない壁"があるように感じていました。でも、それは、自分が過剰に意識していただけだと気付いたんです。地元を大切に思う気持ちは一緒ですから」
現在は、町会の交通部長を務める。交通安全週間には、妻と共に家の前で、登校する子どもたちに無事故を呼び掛ける。
大きく発展した羽田の地域は今、建物の密集地だ。隙間無く家を詰め込んだような一帯は、車が入れないほどの細い路地が入り組んでいる。
これには、一つの理由がある。戦後、現在の空港の敷地に住んでいた人々は、GHQ(連合国軍総司令部)の指示により、立ち退きを余儀なくされた。そこで、川を渡った地域の、親戚や知人の庭に家を建てたというのだ。
砂利や貝殻のかけらが敷かれた、細い路地裏を通り、古くから広布の会場になっている安田はな子さん(支部副婦人部長)のお宅に向かった。
現在93歳。信心する前は体が弱かった。3人目の子を産んだ直後は体重が40キロを切り、日々、頭痛と目まいに襲われた。健康になりたいと、62年に信心を始めた。
近所の人からは、"しきみの神様を拝んでる"と言われた。唱題に挑戦し会合に参加すると、少しずつ心が晴れた。徐々に体も健康になった。
地区担当員(現在の地区婦人部長)になる時、先輩から「羽田を頼むよ」と言われた言葉が忘れられない。以来、近隣の一人一人の無事故と幸せを祈ってきた。
近くに住む宮原志げさん(婦人部員)は「安田さんは困った人がいると聞くと、食事の途中でもすぐに駆け付けてくれた」と。
「これが私の宝物です」と、安田さんが見せてくれたのは、自宅前の通りを写した写真。沿道の家々に、三色旗がはためいている。
「2001年の5月3日に撮ったものです。地域の人たちが、この日を一緒に祝ってくれたんです。みんなでお赤飯も食べたんですよ」
毎年、安田さん宅で行う婦人部総会には、10人以上の友人が参加する。
地区担当員の時代、メンバーと共に毎週末、空港との境を流れる海老取川の沿道の清掃を始めた。雑草を刈り、ゴミを拾う。「ここは、日本の玄関口ですから。空港に向かう人たちが気持ちよく通れるように。いつ、池田先生が来られてもいいように」
清掃活動は地区のメンバーに引き継がれ、30年以上も続いた。その道は現在、区によって桜の木が植樹され、地域の憩いの道になっている。
◇
先生は、かつて羽田会館(当時)を訪れ、羽田の同志に語った。
「羽田は私の故郷です。皆さんが日本一、幸せになってくだされば、私は安心して世界広布の指揮を執れます」
"今いる場所で、模範の地域貢献を進めよう"。それが、私たちの世界広布——羽田の友は、そう決意する。