◇今週のことば
広布の大闘争にこそ
宿命転換の劇がある。
共に励ましは知り抜こう!
極楽百年に勝る功徳を
今日も楽しく朗らかに!
2017年10月9日
曾谷殿御返事 P1059
『命をば三千大千世界にても買はぬ物にて候』
☆女性に贈ることば 十月九日
親の恩は深い。親を苦しませたり、悲しませたりしてはならない。親を喜ばせ、楽しませてあげよう、と努力できる人は大人である。その努力はまた、自分自身の勝利に直結していく。
☆今日のことば365 十月九日
浅はかな
感情の人生を生きるよりも
自分らしく
ひとつの深い理由と
信念のために生きゆく
青春であってもらいたい
☆負けじ魂ここにあり わが生命の学園生4 東京校 1973〜75年度 2017年10月1日
◇君よ、獅子となって立ち上がれ! 未来の勝利を決めるのは自分自身だ。
1973年、東京・創価高校では、4期生が最上級生となった。
彼らの大半は中学1期生として入学し、「中高一貫教育」を受けた最初のメンバーである。
「次の卒業式は盛大にやろう」。創立者・池田先生は折々にそう語り、鳳雛たちの成長を心待ちにしていた。
◇卒業式は「3・16」
「日程はどうですか」
第4回卒業式を目前に控えた74年2月24日、先生は教職員に尋ねた。
当初、卒業式の予定は3月1日だった。ところが、国鉄のストライキが予告され、日程の見直しを余儀なくされていたのである。
懇談の席上、教職員から幾つかの案が提示された。予定通り断行するか、一日早めるか。国立大学の入学試験が落ち着く3月中旬という意見もあった。
しばらく耳を傾けていた先生が口を開く。
「私は3月16日がいいと思う」
それは、さかのぼること16年前(58年)、先生が恩師・戸田先生から後継のバトンを託された日であった。
だがこの年、3月上旬から4月中旬にかけて、先生は北中南米を回り、各国で大学講演等を行うことが決まっていた。
当日の出席は難しい。その代わりに、4月に卒業生の大会の実施を提案し、自らも参加することを約束したのである。
その後、教職員らの決議によって、卒業式は3月16日に開催されることが正式に決定した。
「卒業式の時に、私が海外にいることにも意味があるんだよ」
「3月16日、良い日だ。世界平和の人材が巣立つ日だね」
以来、毎年巡りくる学園の「3・16」は、創立者と卒業生との"誓いの原点の日"となった。
◇世界へ羽ばたけ
「君たちが、どこの国へ行っても自由に活躍できるように道を切り開いていくのが、私の使命です」——先生の平和旅の広がりによって、学園生は常に「世界」を身近に感じてきた。
75年春、日本と中国の国交正常化後、初の国費留学生が創価大学へ。先生は来日した彼らを連れて、学園を訪れた。
第8回入学式の終了後、学園生の代表と留学生による記念の集いが行われた。
卓球大会の後の歓迎夕食会では、こんな一こまがあった。
「これは、おしぼり」「これは、大根おろし」と、先生はテーブルに置かれた品々を留学生に紹介していった。生活に根ざした言葉を理解し、庶民の心を知ってほしい、との思いからだった。
そんな先生の振る舞いは、日中の若き生命に深く刻まれた。
中村隆一さん(高校8期)も、その一人。新入生の代表として、卓球大会を参観した。
「先生は私たちに"力を付けて、世界に羽ばたくんだよ"と言われ、一人一人と握手してくださいました」と振り返る。
中村さんは95年、創価学会の日中友好青年交流団の一員として中国へ。その際、許金平さん(中日友好協会副会長)ら当時の留学生と20年ぶりに再会を果たした。
あの日、許さんは卓球大会で決勝に進出。対戦相手となった先生から贈られたラケットを、宝物として大切にしていた。
この出会いで、日中友好への思いを一段と強くした中村さん。4年後、勤務先の自動車メーカーが中国・瀋陽に工場を出すことになり、現地に派遣された。現在は広東省で1000人規模の工場の責任者を務める。
「先生が、私たちの未来を信じてエールを送ってくださったから、今の自分があります。だからこそ、この場所で中国の発展に貢献する人材を育てたい。それが私の日中友好です」
◇寮歌を歌いゆけ
76年1月24日。6期生の卒業記念集会で、寮歌(現・校歌)「草木は萌ゆる」の合唱が始まると、程なくして先生は歌を止めた。
覇気がなく、声が死んでいる。
先生は訴えた。
——寮歌には、学園の一切の精神が入っている。その心が歌われなくなったら、伝統はなくなってしまう、と。
集会に先立って行われた、送別記念卓球大会。ここでも、先生の指摘は本質を突いていた。
「私の目から見たら、今の学園は少々、堕落しているように思います」
「1期、2期は金だ。今は鉄じゃないか」
開校から8年。いまだ草創の建設期である。
期待が大きいからこその、厳愛の言葉が胸に響く。皆、神妙な面持ちで先生の顔を見つめた。
当時、2年生だった鈴木昇さん(高校7期)。大手小売企業のシンクタンク(研究機関)に勤めた後、市場調査の会社を設立。講師として母校・創大の教壇にも立つ。
「先生は最後に『万歳で3年生を送り出そう』と提案され、卓球部の部長だった私が音頭を取ることになりました」。だが、緊張のあまり、声が小さくなってしまった。
すると先生は鈴木さんに言った。"それでは一人で多くの人を引っ張っていくことはできない。獅子は吼えなければならない時があるんだ"
卒業式まで約2カ月。この瞬間から、学園の空気は一変した。
寮歌に込められた魂とは何か。何のために学園で学ぶのか。真剣に語り合う姿がキャンパス中で見られるようになった。
校内の清掃や新聞の作成も始まった。全学園生が一体となって、勉学にクラブ活動に、真剣に取り組んだ。
1カ月後の2月28日、先生は生徒の代表と再び語り合った。
「学園生活を有意義にするのも、無意味にするのも、自分の決意次第です。成長するか、怠惰な生活を送るかは、全て自分の姿勢で決まってしまいます」
「私は、19歳のときから、世界平和のために30年間、生命をかけて戦ってきた一人です。これからも戦っていきます」「その平和への戦いを受け継ぐのは君たちです」
そして先生は、学園生からの要望に応え、色紙に筆を走らせた。
開校の年に、寮生の代表が作詞した「草木は萌ゆる」。4番までだった歌詞に、5番をつくって贈ったのは先生だった。
その最後の一節を先生はつづった。わが生命たる一人一人の勝利と栄光を願いつつ——。
「未来に 羽ばたけ 君と僕」と。