「守る会」をはじめ
広布の宝城を厳護する
尊き同志、万歳!
1年間ありがとう!
功徳は万代に永遠なり。
土篭御書 P1213
『法華経を余人のよみ候は口ばかりことばばかりはよめども心はよまず心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ』
◇希望の明日へ
大きな目的のために行動すれば、それだけ自分の夢が広がる。大きな歴史が輝く。一人一人が広宣流布の大願に生きぬくとき、自分の小我は大我となっていく。法のため、人のために行動した分だけ"大きな自分"となる。それは即"大きな幸福"である。自分が得するのである。
平5・1・17
☆100文字の幸福抄
表面は華やかに振る舞い、
頑張っているように見せかけても、
日々の鍛えなき人は意外ともろいものだ。
"まじめ"と"努力"に徹した人ほど、
強いものはない。
どこまでも地道な歩みを貫き通した人に、
人生最終章の栄冠は輝くのである。
☆声優・俳優でおなじみ キートン山田さん
◇どん底からの逆転劇 アニメ「ちびまる子ちゃん」のナレーター
【静岡県伊東市】国民的アニメ「ちびまる子ちゃん」。家族の日常を描いた、涙と笑いあふれる人気番組だ。ナレーターは、ご存じ、キートン山田さん(66)=本名・山田俊司、高原支部、副支部長。抑揚のない淡々とした語り口。"キートン節"と呼ばれている。若かりし頃に抱いた「トップスター」への夢。だが、屈辱の日々が待っていた。その時、退路を断つ決断に出る。そして目指した新たな目標——。これは、栄光と挫折のドラマである。
◇頑固おやじ
日本が東京オリンピックに沸いた、1964年(昭和39年)。19歳の山田青年は、コンクリート会社で働いていた。高度経済成長期の建設ラッシュ。トラックで現場を回った。
運転席に乗り込んできた、おやじがいた。鈴木芳太郎さん。二回り年が離れた、頑固一徹の職人。創価学会員だった。
「子どもに勉強を教えてくれ」と言われ、おやじの家に下宿した。タンスに囲まれた2階の4畳半。1階から、にぎやかな声がした。座談会の笑い声。隅っこに座らされ、小さくなった。
おやじは食事の時も、山田青年に信心を語った。「祈りとして叶わざるなしの信心だ。やってみるか?」。苦痛だった。テレビのプロレス中継に気を取られても、「信心の話は、毛穴から入るから」と、おやじは語り続けた。
熱意に押され、65年1月に入会。「何でも叶う」と言われ、「一生の仕事」を祈った。
半年が過ぎた、ある日のこと。山田青年は、工場の外階段で、一枚の紙を拾う。劇団のチラシ。運命的なものを感じた。サラリーマンと劇団員。"二足のわらじ"が始まった。
4年後。役者の世界で生きると決めた。「声の仕事」が入った。セリフは八百屋の「いらっしゃい!」。一言でも充実感があった。
その日の帰り道、商店街を歩くと、気付いたことがある。同じ言葉でも魚屋とケーキ屋では、言い方も声量も違う。世にあふれる生きたセリフ。自分のものにしようと歩き回った。犬やカラスも観察した。心が躍る。
夕焼け色に染まった映画の看板があった。トップスターが笑っていた。それを、にらんだ。
「あそこへ行くんだ」
◇背水の陣
栄光と挫折を味わった。70年代、第一次アニメブームの到来とともに、声優として波に乗った。「ゲッターロボ」の神隼人。「一休さん」の将軍さま。何本もレギュラーが決まり、多忙になった。ファンクラブもできた。「だから、仕方ないよな」。学会活動から、足が遠のいた。
転落は、あっという間だった。アニメブームが収束に向かうにつれ、依頼が途絶えた。事務所のせいにした。36歳の時。食べ盛りの子どもが3人いる。途方に暮れた。
内職とアルバイトを始めた。テレビから声が流れる。「俺の方がうまい」と、電源を切った。嫉妬していた。
砂をかむような毎日。千葉県松戸市の自宅から、浅草の仕事場まで歩いた。わずかな交通費さえ惜しい。
「犬とアヒルの餌に」と、パンの耳をもらい、家族で食べた。油で揚げて砂糖をまぶす。「おいしい」と食べる子どもたち。後ろ姿に「ごめんな」と声を掛けたかった。
仕事があれば……そう思い、アルバイト情報誌に救いを求めた。
たまに、声優の仕事があった。「あっ」。スタジオで、声が漏れた。ズボンに小さなビニールの"かけら"が付いていた。内職のくずだった。情けなかった。「生きてても仕方ない」。顔から表情が消えていく。
"行き詰まったら原点へ帰れ"
心の声がした。池田名誉会長だった。
あれは−−68年4月。埼玉総合本部幹部会。鈴木のおやじが「前に行け」と、背中を押した。前から13列目に座れた。名誉会長が登壇した時、経験したことのない安心感が全身を包み込む。「池田先生に、ついて行こう」
原点を思い浮かべ、御書を開いた。『なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし』(P1192)。鈴木のおやじが何度も口にした一節。「苦しい時は、誰でも策に走りたがるのさ。でもよ、山ちゃん。信心だ。絶対に信心で立つんだ」。おやじの声が、毛穴から染み込んでいた。
背水の陣を敷く。アルバイトと内職を辞め、その時間を学会活動に充てた。「まだ終わりじゃない。裸一貫で出直そう」
江戸川の土手を歩いた。いつか聞いた「三流の一流」。三流でもいいじゃないか。その中で自分なりの一流を目指せばいい。そう思うと、心が軽くなった。
天を見上げた。久々に仰いだ空は、吸い込まれそうなほど青かった。
◇「私の人生『後半へ続く』」白羽の矢
新出発の証しとして、改名しようと考えた。プロダクションは、「仕事に影響する」と反対した。
その頃、電車で読んだ一冊の本がある。「世界の三大喜劇王」と呼ばれていた「バスター・キートン」。その芸風は、喜怒哀楽を表情に出さない"偉大なる無表情"と呼ばれた。目指そうと思った。
「キートン山田」。男の断固たる決意の表れ。38歳の春。血が騒いだ。
"時"をじっと待った。84年10月。一本の電話が入った。テレビ東京の情報番組の仕事だった。翌年4月にはNHKの教育番組の仕事も。2本のレギュラー。感謝に震えた。
会いたい人がいた。鈴木のおやじ。70歳近くになっていた。体は少しだけ、しぼんだように思う。「信心で立ち上がりました」。おやじは、うれしそうに笑ってくれた。
おやじが旅立った後、あるアニメの番組宣伝を依頼された。44歳の冬。今思えば、それがオーディションだったのかもしれない。
主人公の女の子は「さくらももこ」といった。
その数カ月前。都内で、「ちびまる子ちゃん」のオーディションが行われた。配役が次々と決まっていく。しかし、原作者・さくらももこさんのイメージに合わない役が一つだけあった。
ナレーターだ。
難航した。放送日が迫る。誰かが言った。「キートン山田は?」。白羽の矢が立った。
キートンさんの声を吹き込んだ番組宣伝のテープは、ニューヨークにいる、さくらさんに渡った。ホテルの一室。テープから淡々と流れる"偉大なる無表情"。さくらさんの瞳が輝く。
「この声と、このしゃべり方が欲しかった」
1990年1月7日。「ちびまる子ちゃん」第1回放送日。"キートン節"が茶の間に流れた。
思わず、台本にないセリフをつぶやいたことがある。おもしろいと、台本に加わった。
「後半へ続く」
キートンさんの代名詞になった。
66歳になった今も、劇団「ふりぃすたいる」を主宰しながら、俳優、声優、ナレーターとして活躍中だ。
揺るがぬ信念がある。「変わらないために、変わり続けたい」。喜怒哀楽を出さない"キートン節"。それを変わらず表現するために、日々、生命を磨き、成長を続ける。
今年、「ちびまる子ちゃん」の放送は1000回を超えた。22年間、今も変わらぬ"偉大なる無表情"。磨きがかかる。
今の思いを語った。
「70代のキートンをご期待ください。私の人生『後半へ続く』