新聞休刊日
御義口伝巻上 P716
『我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり』
◇希望の明日へ
人生に"何か"を残せる人は、幸せである。永遠の歴史を残せる人は、さらに幸せである。周囲の変化に動ずることなく、ひとたび築き始めた"わが塔"を完成するまで戦う−−栄光と満足は、その人のものである。
平3・1・19
☆100文字の幸福抄
心の定まった女性は強い。
信念に生きる女性は人格が光り、
善悪をきちんと見極める。
たとえ、ひとたびは負けたように見えても、
最後は人間としての勝利者と輝く。
周囲がどうあれ、
信念に生き抜いた人が勝ちである。
☆太陽の励まし 池田名誉会長と誓いの同志No.12 会おう!今しかない 千葉
「たった一瞬の出会いが、一生を決める場合がある。たった一言が、人生の転機にもなる」
「ゆえに私は、生命のアンテナを研ぎ澄まし、『今しかない』『今しかない』と、一人また一人と、出会いを重ねてきた」
「随筆 昇りゆく千葉の旭日」の一節である。池田名誉会長と千葉の同志の絆は硬く、そして強い。
食料の買出しに、千葉市の幕張を訪れたのは17歳。敗戦直後の秋だった。名誉会長の本家のルーツは「千葉庄池田郷」、千葉城の周辺であったとされる。
足跡は、千葉市に加え、全県に刻まれる。その隅々に、励ましの温もりが生きている。
◇菜の花、ありがとう
「これから雨脚が強くなる予報です。鼓笛隊は小さい子が多いので、帰ってください。絶対無事故のためです」。役員からそう告げられていた鼓笛隊の千葉責任者・西郡喜代乃さんは、"みんなにどう伝えれば・・・"と困り果てていた。
1969年(昭和44年)3月30日、市原市臨海体育館。名誉会長が出席する記念撮影会で、演奏するはずだった。練習を重ね、衣装も整い、後は本番を待つだけなのに・・・。
西郡さんは意を決して、皆に帰ることを告げた。
それでも"池田先生に、鼓笛隊がいたことを知ってほしい"との思いは消えない。リーダーたちで相談し、花を届けることを決めた。
大塚信子さんが急ぎ手配した、千葉の県花・菜の花を幹部に託す。そして貸し切りバスで千葉会館に戻った。悔し涙が、車中にあふれていた。
会館に着き、解散。だが西郡さんには、バス代を清算する仕事が残っていた。再び会館に行き、館内の受付にいた。その時である。
名誉会長が階段を下りてきた。記念撮影を終え、千葉会館に戻った後、会館をたつところだった。
西郡さんは慌てて「こんばんは!鼓笛隊です!」。
すると明るい声が返った。
「きょうは菜の花、ありがとう!誰が届けてくれたか、すぐにわかったよ」
その一言で、西郡さんは全てが報われた気がした。
さらに名誉会長はこう続けた。
「疲れていたけど、あの菜の花を見て、疲れが飛んだよ。本当にうれしかった。私の部屋に飾っておくよ」
西郡さんの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「きょうは、どんな演奏をしてくれるはずだったんだい?」と名誉会長。
「はい!"さくら変奏曲"と『ビア樽ポルカ』です」
「いい曲だね。聴きたかった。演奏、本当に聴きたかったよ。皆にそう伝えてね」
自宅に帰り、一人一人に伝わるよう、大急ぎで手を尽くした。隊員たちの悔し涙は、感激の涙に一変した。
じつは西郡さんは、この前年にも激励を受けている。
68年(昭和43年)8月25日、都内で開かれた、鼓笛隊との協議会に参加していたのだ。
「この中で、お父さんがいない人は手を挙げてごらん?」と名誉会長。
西郡さんが手を挙げた。
「お母さんがいない人は?」
挙げた手は、そのままだった。
2年前に母を亡くし、1カ月半前に、がんとの闘病の末に父が逝ったばかりだった。
「いかなる苦難が、いよいよ重なろうと、これを乗り切らねばならぬ・・・」。小説『人間革命』第4巻の一節を何度も読み返し、仕事に、広布に、父の看病に、一歩も引かずに歯を食いしばってきた。
「前にいらっしゃい」
名誉会長は、手を挙げた人を前に呼んでくれた。
「先生!『人間革命』の4巻、ありがとうございました。あの本を読んで私は立ち上がりました」と西郡さん。
名誉会長は両親のことを聞きながら、「親がいなくて、信心を貫くことは大変なことなんだ」「頑張るんだよ」。
その眼差しを、西郡さんは忘れることができない。
「どんなことがあっても強く、負けないで、平和と幸福の大道を走りぬく。この"鼓笛隊の心"を。池田名誉会長に教えていただいたのです」