婦人部の奮闘ありて
皆が前進、皆が勝利!
心から感謝合掌。
永遠の福徳に満ちた
太陽の母たち、万歳!
法蓮抄 P1045
『現在に眼前の証拠あらんずる人此の経を説かん時は信ずる人もありやせん』
◇希望の明日へ
どこまでも謙虚な幸福の追求者として、万人と同じように、民衆とともに、真剣に仏道修行していく。だれよりも、福運を積む機会を逃さず、勇み、喜んで行動していく。"もう、これでいい"などと倣らず、"さあ、また福徳を開こう。永遠の幸福の境涯をつくろう"と戦っていく。その"水遠の向上""永遠の闘争"の決心に、仏法の精神が脈動している。
平4・6・11
☆100文字の幸福抄
結婚したら幸せで、
結婚しないと不幸なのか。
決して、そうとは言えない。
急き立てられたり、あせる必要もない。
結婚するかしないか、いくつで結婚するか。
それで、人生が決.まるのではない。
幸福を決めるのは「心」である。
☆教学論苑「たゆまぬ信心」(2012/10/02)
"水の流れるがごとき"前進で揺るがぬ幸福を築こう
「火の信心」ではなく、「水の信心」を心掛けよう−−。草創以来、多くの同志が心に刻んできた学会指導である。
ここでは、池田先生が高知で折々語られた指導をあらためてひもときながら、「たゆまぬ信心」の大切さについて確認したい。
◇「土佐のいごっそう」を激励
1972年 6月20日、約6,000人の同志と共に記念撮影をしてくださった際には、「豊かな常識をたたえて伸び伸びと楽しく信心に励み、信心即生活の実証を、自身、家庭、社会の上に示してほしい。これが"水の信心"である」と「水の信心」の大切さについて教えてくださった。
78年12月、7泊8日にわたった高知指導でも、「高知はこれからも、大聖人が仰せになっておられる"水の流れるがごとき信心"を、一人一人が信念強く貫き、楽しい人生を讃嘆しながら、生き生きとしたご長寿の生涯を送っていただきたい」と「水の信心」を貫くことを強調された。
90年11月、高知で開催された「第1回四国総会」では、"ハマグリの貝殻を手に、大海の水をくみ出そうと日夜励む姿が、諸天をも動かし、やがては大願の成就にもつながった"という大施太子の説話を引用。「信心の大道も、広布の正道も長い。その途上には、さまざまな苦難があることも必定である。しかし、苦難や障害に屈することなく、信心を持続しぬいていただきたい」と語られている。
◇どんな時も求道心を燃やす
「火の信心」「水の信心」という言葉は、日蓮大聖人が、青年門下・南条時光に送られた「上野殿御返事」の次の一節に由来する。
「抑今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・もえたつばかりほもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり、此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし。とうとし」(P1544)
大聖人は、法華経の行者を「火のごとく信ずる人」と「水のごとく信ずる人」に分けられ、法義を聞いた時には情熱の炎を燃やすものの、時がたつと信仰心が失われてしまうのが「火のごとく信ずる人」であり、これに対して、常に停滞の心なく実践し続けるのが「水の如く信ずる人」であると教えられている。
ここで「いつも・たいせず」「いかなる時も・つねは・たいせず」との仰せに着目したい。
「水のごとき信心」とは、単なる「信仰の継続」と言う次元だけを指したものではなく、いかなる時、いかなる環境下にあろうとも前に進み続ける、力強い不退の信心を意味していると拝される。
なぜたゆまずに信心に励んでいくことが大切なのか。仏法は常に、仏と魔の戦いであり、胸中の精神闘争であることを振り返れば、その答えの輪郭がおのずと見えてくる。
◇挑戦する中で「仏の境涯」に
仏法は、私たちの生命に、「無明」と「法性」があることを説く。
「悪縁に遇えば迷いと成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり」(P510)と仰せのように、善に縁すれば「法性」と顕れ、悪に縁すれば「無明」と顕れるのである。
この「法性」を顕現させ、「無明」を冥伏させていく実践こそ、私たちの仏道修行にほかならない。
戸田先生はかつてこう指導された。
「たゆまず流れ出る水の信心であれ!溜まり水は動かないから腐ってしまう。人間も同じだ。進まざるは退転である」
成仏とは、絶え間なき生命練磨の異名にほかならないのだ。そしてそれは、常に法性を表し、無明を冥伏させゆく普段の実践が肝要となることを教えられている。
移ろいやすいのが人の心である。
古今東西、人間は、流転する自身の生命に振り回されて生きてきた。人間社会もまたしかりである。
そうした人間の持つ避けがたき傾向を力強く打ち破るほうとこそ、何ものにもゆるがぬ、たゆみなき「水の信心」なのである。
◇心の師を求め続ける人生を
仏道修行に励めば、それを妨げようとする働きが、さまざまな形で顕れてくる。
そうした「三障四魔」の正体を見抜き、障魔が競い起こった時こそいよいよの信心で乗り越える中に、真の幸福境涯の確立がある。
日蓮大聖人は、池上兄弟に対して「心の師とは・なるとも心を師とはせざれ・・・」と指導されている。
揺れ動く自分の心を基準とするのではなく、「心の師」を求めていかなければならないのである。
池田先生は、「勝利の経典『御書』に学ぶ』の中で、心の師を求めるとは、「御本尊根本」「御書根本」の姿勢であると述べた上で、「『法』と私たちを結びつけるのが、仏法実践の『師匠』の存在です」と教えてくださっている。
(高知総県長 秋山義人)